ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
電網木村書店 Web無料公開 2000.1.7
はしがき・資料編 4
原著はしがき 2.
1999.12.13.mail再録。(WEB版のみに追加記載)
「歴史見直し研究会」代表、木村愛二です。
今回で普通のものよりも長いこの「はしがき」は終了します。この部分を正確に読んで頂ければ、「ガス室は嘘だ」と主張すると、すぐに、「ネオナチ!」と反応することの愚かさが明白になると思っています。
なお、個人宛てmailも含めて、旧著の細切れamil発信へのご意見を頂いていますが、善意の場合にしても多くの誤解が含まれています。別途、私は、すでに一冊の本になる以上の「ユーゴ戦争問題」連続投稿などをしています。旧著に注釈を加えて発信するのは、それと同じことなのです。特に、この旧著の場合には、インターネットという情報発信手段が実現していない時期に発表したものです。現在、政治的シオニストが強烈な支配力を持つ欧米の大手メディアと、それに追随する日本の大手メディアが、極右のイスラエルによるアラブ侵略擁護の情報操作を継続している現状の下で、それへの反撃として、インターネットを活用するのは、むしろ、インターネットの可能性の最大限の追及なのです。
わたしの視点の基本は、国際的な情報操作のメカニズムの解明にある。わたしには、日本テレビ放送網株式会社から不当解雇されて一六年闘ったという半生の経歴からしても、九〇億ドルの軍事費支出は憲法違反と主張する湾岸平和訴訟の原告であるという現在の立場からしても、シオニストもしくはイスラエル建国支持者たちによる国際的な情報操作の可能性を、おおいに疑い、具体的な事実をたしかめるべき内的必然性がある。拙著『湾岸報道に偽りあり』を読んだ西岡から資料を提供されるにいたった経過は、まさにその必然の帰結である。
そのわたしの思考過程の出発点としての、つぎのような仮説の原型は、すでにニュルンベルグ裁判がおこなわれていた当時から、フランスの元レジスタンス闘士で社会党選出の下院議員だったポール・ラッシニエ(本文でくわしく紹介)によって、鋭く、しかも強烈な怒りをもって指摘されていたものである。
ヒトラーを「殺人強盗犯」にたとえてみよう。つぎには、そのヒトラーならやりかねないという大衆心理を巧みに利用して、もうひとつ、「一家眷属皆殺しの計画犯罪」を追加して認定させたと仮定する。ところが、この方は事実ではなくて、一方ではパレスチナ人から国土を奪い取り、他方ではドイツ人から孫の代まで補償金を払わせるための情報操作だったとしたら、こちらも立派な国際的かつ歴史的な巨大政治犯罪なのではないだろうか。
この設問はまず、つぎのような形式で開始されてもいいだろう。
「もしもホロコーストが事実だったとしても、それがパレスチナ分割決議の合法化の根拠になりえたのだろうか」
ヒトラーとその一党に関してだけならば、過度の冤罪もまた因果応報かもしれない。いやむしろわたしは、その場合にも、ヒトラーとその一党にも重大な責任の一半があると思う。かれらは疑いもなく、(ほぼ平均的な黄色人種のひとりであるわたし自身をもふくむ)有色人種を「劣等」と侮蔑し、ユダヤ人の民族的虐殺を「やりかねない」と判断されるような下劣な怒号をくりかえしていたのである。「ホロコースト」物語が見直され、もしもそれが事実ではなくて政治的な意図をもった情報操作だったということが認められたとしても、それでヒトラーの罪が軽くなるわけではない。ネオナチの期待は的外れである。問題なのは、その罪をつぐなわされているのが別人だということの方なのである。
その一方、イスラエルという人造国家が戦後半世紀の国際政治で果たしてきた役割と、それを擁護しつづけてきたアメリカの超巨大メディアの情報操作機能については、むしろ、疑問を持たない方がおかしいくらいである。それなのに、なぜ、そのイスラエルの建国の前史を疑うことが許されないのだろうか。歴史編纂がすぐれて政治的な行為であることは、日本の明治維新政府が設立した修史局の実例を引くまでもなく、だれの目にも明らかなことなのではないだろうか。
いや、それでも納得できないという人がいて、その人が日本人であれば、日本の戦争犯罪の評価と原爆投下の是非との関係と比較して考えてほしい。
「原爆投下で謝罪必要ない/米大統領、初めて言明」(毎日95・4・8夕)
クリントン大統領がこの前日の講演で、広島と長崎への「原爆投下」への「謝罪の声」についての出席者からの質問に、「ノー」と答えたという報道記事の見出しである。「トルーマン大統領の原爆投下の決断は正しかったか」という質問の方には、「イエス」と答えたそうである。
ほとんどの日本人は、このクリントン大統領の判断に納得しないであろう。ましてや、当時の日本の指導部が、ソ連を通じてのルートやアメリカ本土との短波放送のやりとりによるルートなどで、すでに和平工作を開始していたことを知るものにとっては、なおさらのことである。日本の当時の指導者も、わたしのたとえではヒトラーと同等の「殺人強盗犯」である。だが、原爆の投下は、その殺人強盗犯を完全に屈服させる目的以上に、すでに開始されていた東西対立をにらむ重大な政治的目的をになっていた。その目的のために、何十万人もの日本の一般市民と、さらには目的地の収容所にいた「アメリカ人が大部分の戦争捕虜」までが犠牲になることを知りつつ、トルーマン大統領は原爆投下の命令を下したのである。
おなじトルーマン大統領は、ニュルンベルグ裁判とパレスチナ分割決議についても、超大国の指導者として当時の世界で最大の決定権をにぎっていた。この政治的事実の持つ意味を深く考えることなしには、「ホロコースト」の歴史的位置づけも理解できないのではないだろうか。
わたしの方の『噂の真相』(前出)の文章は、『マルコ』記事の約三分の一でしかないが、国連の「パレスチナ分割決議」すなわち「イスラエル建国」を「ホロコースト」の情報操作の動機として示唆し、「ユダヤ系財閥、ロスチャイルド家[注1]の援助」やら、「(ユダヤ人国家建設をめざす)シオニスト[注2]とナチ党は、ウルトラ民族主義と、暴力的手段の行使の二つの主要な柱で一致し、奇妙な共生関係を保っていた」などの歴史的事実を要約していた。
パレスチナ分割に向けての決定的な政治的テコとなったのは、一九一七年にイギリスの外相バルフォアの名義でイギリス・ロスチャイルド家の当主、ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド男爵にだされた手紙の約束(パレスチナにユダヤ人のホームランド建設)であるが、金融王ロスチャイルドは同時にシオニスト世界機構のイギリス連盟会長でもあった。一方、おりからの第一次世界大戦で戦費の捻出に苦しむイギリスの蔵相ロイド・ジョージは、政敵だったロスチャイルドに協力を求めていた。閣僚の外相バルフォアがしたためた手紙は、いわば借用証文に添えられた念書でもあった。
ロスチャイルド家によるパレスチナの土地買収は、すでに一九世紀から始まっていた。ドイツにおけるヒトラーの台頭よりもはるかに以前からの巨大事業だったのである。こうした大規模な歴史的背景を抜きにしては、この問題は理解できない。
のちにもくわしく紹介するが、ラッシニエの業績を引き継ぐホロコースト見直し論者の長老、フランスのロベール・フォーリソンは「ホロコースト」物語(国際的議論の用語「ストーリー」の訳語で、他意はない)を「欺瞞」だとして非難し、つぎのように論じている。
「この欺瞞の基本的な犠牲者はドイツ人(ただしドイツの支配者ではない)およびすべてのパレスチナ人である」(『ガス室の疑問点』)
なにが「犠牲」かというのは、すでに簡略にのべた通りである。パレスチナ人の場合には国連決議で国土の分割を強要され、住み慣れた故郷から追いだされ、いまだに無差別殺戮の脅威にさらされつづけている。ドイツ人の場合には、孫の代まで「ホロコースト」を犯した民族の一員という罪悪感をいだかせられつづけているばかりか、その罪をあがなうために、戦後の半世紀を通じて補償金を支払いつづけてきたし、いまだに二一世紀にいたるまでの補償義務を負わされている。
世間一般では「ホロコースト」物語を、「常識」であるとか、極端な場合には「歴史的に確定された事実」などと表現している。だが、そのような発言をする人々自身をもふくめて、たとえば日本の歴史家やジャーナリストなどが、そう表現するだけの実情調査と議論をしてきたのだろうか。決定的な問題点は、「ホロコースト」物語を国是のように最重要視して宣伝しているイスラエルという人造国家と、その最有力支援国のアメリカが、第二次大戦直後からのパレスチナでの国盗り戦争を「一貫して継続している」という事実である。ドイツもまた、東西冷戦のはざまのベルリンの壁で引き割かれていた。「ホロコースト」物語を戦時宣伝として考える立場から見れば、それはいまだに批判的研究以前の、戦時宣伝のままなのである。だから、「議論すること自体が許されない」という威圧が、いまだにまかり通っているのではないだろうか。
わたしは、以上のような「ガス室」問題がはらむ政治的背景の概略について、記者会見集会の度ごとに説明した。しかし、この主張についても「マスコミ・ブッラックアウト」の状態がつづいている。つまり、「マルコ報道」自体が一人前の情報操作なのである。「マルコ報道」の全体像についての批判は、本書の続編で予定している。
もうひとつ、日本での議論ではかならず「南京大虐殺まぼろし論とおなじではないか」という疑問または憤激の声がでるので、わたしは『マルコ』廃刊以前の本書の準備段階で、その問題に一〇ページを割いていた。だがこれも「マルコ報道」で早目に反論しておく必要のある争点が増えてしまったので、続編にまわさざるをえない。簡略にいえば、わたしは「南京大虐殺」は事実だし、日本人が犯した戦争犯罪をさらに検証すべきだと考えている。「おなじではないか」論がすぐにでるのは、脳の記憶方式が、たとえでいえば便宜的な「パターン」分類の引き出しにわかれていて、両者が「民族虐殺」の項目に整理されているからである。古今東西、この便宜的「パターン」認識の隙間を突くのが、手品、忍術、カムフラージュの技術である。誤解、思いこみ、考えちがい、といった日常普段の錯覚の延長線上にこそ、情報操作の磨きぬかれた技術があるのだから、個別の事件全体の総点検によって、相違点をも明らかにする努力が必要なのである。
以下、本文では一応、「両論併記」の声を考慮してバランスを取る努力をするが、本書の主たる目的はむしろ、知られざる「ホロコースト」見直し論の紹介にあるし、わたし自身も見直しの必要を痛感している。わたしが呼びかける「冷静かつ綿密な長期的論争」は、本書と従来の出版物(巻末資料参照)とを比較検討することで全体的に成立すれば、それで結構なのである。
なお、すでに西岡昌紀医師から本書の資料の提供をうけた事情をしるしたが、同医師の尽力で数度おこなわれた会合の席上で、先輩諸兄姉からも貴重な助言をいただいた。そのたの諸兄姉の助言や資料提供のご親切、および、本書の出版をひきうけていただいたリベルタ出版の田悟恒雄代表のご苦労に、あわせて心からの感謝をもうしあげる。
本書の発表には一九九五年が戦後五〇年に当たるという、重要な節目の期限設定があった。
『マルコ』廃刊事件の発生にも、この契機が深く関係している。専門的な歴史研究という立場からすれば、すべての原資料の確認が重要であろうが、わたしの立場は、専門の歴史家とジャーナリストまたはジャーナリズムへの問題提起である。戦後五〇年という契機を逸することなく、孫子の教えに従い、「拙速」をえらぶことにした。
主要な資料への手掛かりは巻末に収録する。資料全体の信憑性を測るためには、決定的な問題点の出典の引用が正しいかどうかを確認することにした。逆の意味で信憑性の確認に役立ったのは、『科学朝日』編集部が「反ホロ・リビの概説書」(同誌95・4)として推薦しているデボラ・リップスタットの『ホロコースト否定論』である。
リップスタットはユダヤ人で、アメリカのジョージア州、アトランタのエモリ大学の宗教学の教授である。専門のホロコースト史家ではないが、同書はエルサレムのヘブライ大学の調査プロジェクトの一環として出版されているから、それなりの組織的な資料収集の蓄積が見られる。くわしい批判は続編でおこなう予定だが、本書との対応関係での最大の欠陥は、ドイツ人のクリストファーセンやシュテークリッヒらの著作を、完全に無視している点にある。
全体としていえる特徴は、「ホロコースト」見直し論の主張の内容についての議論以前に、その起源をいかにして「ナチズム擁護派」または「ネオナチ」に結びつけるかに努力が集中されている点にある。そこにわたしは逆に、ファッシズム的思想統制の恐怖を覚える。「ファッシズム」の語源のイタリア語の「ファッシオ」は「たば」の意味であり、古くは労働組合の名称にもつかわれていた。右か左かには関係なく、過度の結束強要と異分子排除の思想を「ファッシズム」と考えるべきであろう。本書でわたしは「ニュルンベルク裁判の再審請求」という考え方を提出するが、人類数千年の歴史の文化遺産としての裁判制度は、現実はどうあれ、どのような極悪人にも自己弁護の機会を保障する建て前になっている。ヒトラーの自己弁護も、聞けるものなら直接聞いて吟味した方が良いのである。ナチズム擁護派どころか、そこにいささかでもつながる組織、個人には、絶対に発言の場をあたえるべきではないというような立論の仕方には、むしろ、シオニズムもしくはイスラエル建国支持派の方の、ファッショ的性格を指摘せざるをえない。
それはそれとして、第一に注目すべき点は、リップスタットが「ナチズム擁護派」とする組織または個人への非難には、「暴力」がまったくふくまれていないという事実である。この点には、本書の第8章で紹介する「シオニスト・テロ・ネットワーク」と対照するとき、重要な示唆がふくまれている。現時点で、どちらの「極右」の方が恐ろしいか、という比較も必要であろう。
第二に、わたしが「役立つ」と評価した点は、リップスタットによる「ホロコースト」否定または見直し論への批判の仕方と、その後の論争の経過にある。一例だけを典型として挙げると、本書でも引用する『六〇〇万人は本当に死んだか』の記述の仕方にたいして、リップスタットは、「著者の目的とはまったく反対の引用」をして「いかに情報をゆがめているか」という趣旨の非難を、数ページにわたって浴びせている。ところが、裁判の場合でいうと、相手方の主張や「敵性証人」による証言の一部を、いかに巧みに活用するかが法律家の腕の見せどころなのである。歴史学の論争でも、おなじ技術を駆使するのが常識である。リップスタットの批判の仕方は素人だましでしかない。もちろん、リップスタットの批判には、注意すべき点もいくつかあったが、リップスタットまたはヘブライ大学のプロジェクトが、この方式をもってしても否定しがたい事実の数々の方が、かえって浮かび上がってくるのである。だからわたしは、資料の活用に当っては、執筆者の思想的背景をあえて問わないことにする。
第三に、リップスタットは意外にも、最後の章で弱音を吐いている。「ホロコースト」見直し論に対抗する「もっとも有効な反撃の戦略」についての自問自答の挙げ句の果てに、まずは「学界の一部はみじめに失敗した」という。しかも、「最小限の実現可能性がある行動」を、「テレビやラジオのトークショー」の話題に「取り上げさせない」ことに見いだしているのである。これはもはや、ヒトラーの裏返しの、愚民政策以外のなにものでもないのではなかろうか。
本書の資料のおおくは日本語に訳されていないが、読みやすくするために本文中では『アウシュヴィッツの嘘』のように日本語で題名をしるした。原題、引用箇所などは、巻末資料リストでさがせるように工夫した。本書には『噂の真相』(94・9)、『週刊金曜日』(95・3・17)、『創』(95・5)で発表した文章もふくまれているが、すべて大幅に書きなおし、再構成したものである。[ ]内はわたしの注である。外国語、外来語のカタカナ表記は、慣用にこだわらず原則として原音にちかよせるのがわたしの主義だが、本書では読みやすさをとくに優先するために慣用化した表記を一部採用した。引用文中のカタカナ表記はそのままとした。
また、文中では敬称を省略させていただく。
[注1]一九世紀から世紀にかけてヨーロッパの金融界を国際的に支配したユダヤ財閥。ロスチャイルドの家名の起源は、ヘッセン伯爵ヴィルヘルム九世の宮廷銀行家として急速に富を築いた両替商アムシェル・マイヤーの家号、Rotschild(赤い盾)に由来する。ナポレオンによるヨーロッパ大陸制覇の時代に、同名の長男アムシェルがドイツにとどまり、次男ザロモンがオーストリア、三男ネーサンがイギリス、四男カールがイタリア、五男ジェイムスがフランスへと分家した。以後、一家で独自の国際情報網をめぐらしながら、それぞれが主要各国の支配体制に食いこみ、各国の戦費調達や金融市場投機などで巨利を博した。各分家の盛衰はあるが、イギリスではフランスが手掛けていたスエズ運河の購入資金を融資するなど、帝国の国際的命運を左右する金融力を発揮している。日露戦争のさいには、日本がイギリスのロスチャイルド家から、ロシアがフランスのロスチャイルド家から、それぞれの軍資金調達の援助をえていた。ユダヤ財閥としてだけではなく、戦争と投機を最大の栄養源として肥え太った近代の国際金融財閥の典型でもある。
[注2]一九世紀後半に起きたユダヤ人国家建設運動。シオニストの語源は旧約聖書のエルサレムの古名、シオンである。巻末資料で紹介するシオニズムの父こと、テオドール・ヘルツルの著書『ユダヤ人国家』が中心的な理論書。シオニスト機構(のちに世界シオニスト機構と改称)の設置は一九八九年であるが、各国のロスチャイルド家がきそって買収するパレスチナの土地への入植運動は、その二〇年前からはじまっていた。スエズ運河の購入資金融資も、パレスチナを強く意識した中東侵略政策の一環として位置づける必要がある。
(5)序章「疑惑の旅立ち」1.へ