ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
電網木村書店 Web無料公開 2000.6.2
第1部:解放50年式典が分裂した背景
第2章:「動機」「凶器」「現場」の説明は矛盾だらけ 3
【原著p117写真:8チクロンBの缶の展示(マイダネク博物館)】
【原著p119写真:9チクロンBの缶と中身のチップ(マイダネク博物館)】
「どくろマーク」がえがかれた「ガス室」物語に数々の矛盾
第一次世界大戦でもドイツは敗戦国だった。だが戦後になって、「死体からグリセリンを取りだす工場」などは、どこからも発見されなかった。つくり話の作者が告白するまでもなく、それ以前の問題として、このつくり話を維持する材料、裁判用語でいえば「物的証拠」がまるで存在しなかったのだ。
ところが、「ホロコースト」物語の場合には、戦争末期になって「物的証拠」が発見された。すくなくとも、そう報道され、そう信じられた。連合軍が解放したナチス・ドイツの強制収容所のなかにはまず、「おびただしい死体の山」があった。本書の「はしがき」ですでにしるしたように、おもな死因は「発疹チフス」だった。だが、連合軍の兵士も同行していた報道記者も、事前の宣伝どおりの「ガス室処刑」だと思って、そう報道してしまった。しかも、「毒物」の所在を示す「どくろマーク」がついた部屋(写真6)があり、そこにもやはり、「どくろマーク」がついた「チクロンB」のカン(写真8,9)が、大量にのこされていたのである。
「チクロンB」のカンには、主要成分が「青酸ガス」だと明記されている。「青酸ガス」の毒性は当時も広く知られていた。第一次世界大戦では、「青酸ガス」が化学兵器としてつかわれ、以後、「毒ガス」は残虐兵器として国際的に禁止されていた。「青酸ガス」の一般的イメージは「殺人」に直結していた。だから、「チクロンB」こそが問題の「毒ガス」だと思われたのは、むしろ自然の成行きだったのかもしれない。それまでは「戦時宣伝」として「毒ガス」とか「ガス室」という言葉だけが先行していたのだが、その実物が、ついに発見されたと信じられたのだ。
つぎに必要なのは、この「毒ガス」をユダヤ人に吸わせて殺す場所、すなわち「ガス室」だった。「どくろマーク」がついた部屋は、なぜか非常にせまかった。何人もはいれない。目標「一千一〇〇万人」、実績「六〇〇万人」と称される計画的な大量民族虐殺の現場としては、いかにも不適当だった。そこで、やはり強制収容所のなかにあった「シャワールーム」こそが、大量虐殺のための「ガス室」だということになった。
ナチス・ドイツ、またはヒトラーが、たくみにユダヤ人をだまして、大量虐殺の現場に連れこんだのだという説明が組み立てられた。シャワーを浴びさせると称して安心させ、「シャワールーム」に偽装した「ガス室」に閉じこめてから一斉に殺したというのだ。これは実に悪魔的な大量虐殺手段である。いかにもヒトラー総統とその親衛隊にふさわしい物語だ。しかも、それを「立証」する「証言」や「告白」までが、つぎつぎにえられた。
だが、いかにもつじつまが合っているかに見えるこの状況説明には、基本的な矛盾があった。
だからこそ、戦後に調査が進んだ西側では、「ガス室はなかった」というのが「事実上の定説」(のちにくわしく説明)になったのである。
「チクロンB」はたしかに「青酸ガス」を発生するが、殺人用に開発された「毒ガス」ではなくて、食料倉庫などの消毒を目的に開発された「殺虫剤」だった。ドイツの軍隊でも、これを兵舎の消毒用につかっていた。
ただし、これまでの「ホロコースト」物語には、前段階がひとつある。絶滅説によると、最初は一酸化炭素を発生する「戦車やトラックの排気」ガスによる「殺害」が「東部で実行されていた」(『遺録』)ということになっている。しかし、それでは効率が悪いので殺虫剤の「チクロンB」を転用することになったというのだが、いろいろな点で矛盾が多い説明なのだ。
「トラックのエンジンの排気」ガスによる虐殺の物語は、映画『ショア』にもふんだんにででくる。昔の8ミリフィルムを拡大したようなモノクロ画面に登場する元親衛隊員の「告白」によると、トレブリンカ収容所では「チクロンB」ではなくて「モーターの排気ガス」をつかっていたというのだ。
「排気ガス」の致死性の成分は、家庭の風呂場の不燃焼事故などでもおなじみの「一酸化炭素」である。この「排気ガス」物語の特徴は、問題のモーターが「ソ連の戦車、トラック」のディーゼル・エンジンだったとする点にある。わたしはベトナムの町中でソ連製トラックに遭遇したが、なんと、昔の蒸気機関車のように煙突からモウモウと焦げ茶色の煙を上げながら走っていた。風がほとんど吹かない土地柄なので、煙は舞いおりてくる。たまったものではなかった。
古いディーゼル・エンジンの排気ガスは、焦げ茶色で、物凄い臭いがして、いかにも「有毒」の感じが強かった。ソ連製なら、なおさらという気がする。ところが、本書では巻末の資料に収録した研究論文、「ディーゼル・ガス室/神話のなかの神話」の存在を紹介するにとどめるが、ディーゼル・エンジンが発生する一酸化炭素は、普通のガソリン・エンジンの場合よりもすくないのだそうである。もしかすると、「俗耳にはいりやすい話」の類いなのではないだろうか。
「排気ガス」物語には、もうひとつ、「ガス・トラック」がある。ユダヤ人運搬用のトラックが、実は、「走るガス室」だったというのである。これについても、フォーリソンが序文を寄せたピエール・マレー著『問題のガス・トラック』の存在を、巻末資料で紹介するにとどめる。
「チクロンB」の場合には、なぜ、その「凶器」が収容所のなかに大量にのこされていたのだろうかという疑問がある。もしもそれがユダヤ人虐殺に使用されたものだとしたら、なぜ、ドイツ軍は「証拠湮滅」をはからなかったのだろうか。一方では、虐殺計画は極秘だったから明確な文書証拠はのこっていないとか、すべて焼却されたとか、どこそこの「ガス室」は証拠湮滅のために破壊されたとか、むきだしでゴロゴロしていた大量の「チクロンB」のカンの数々の実態とは、まったく矛盾する説明がおこなわれているのである。これらの疑問の数々には、つぎの段階でこたえることにする。
その前に、もう一つ、わたし自身が長年ひそかにいだきつづけてきた皮膚感覚の、下世話な疑問をも提出しておこう。率直に表現すれば「大量虐殺」の手間と費用への疑問である。
ほとんどの大量虐殺の事例では、殺して埋めるか、川にながすか、あまり手間も費用もかけていない。日本軍の場合には、弾丸を節約するためになぐり殺したなどという話もある。一方、毒ガスを残虐兵器として禁止する国際法が成立した裏には、風向き次第で自分たちも危険にさらされるからという、使用する側の前線兵士の強い拒否反応があった。だから「ホロコースト」物語には、密閉された「ガス室」が必要だという条件がかかせなくなるのだ。しかも、完全な換気ができなければ、つぎの仕事にかかれない。そんなに危険で手間と費用がかかる方法を、なぜ選んだのだろうか。
戦後の焼け跡の日本で、子どものころから屑鉄をひろって売ったり、家庭菜園をたがやしたりして育ったわたしの皮膚感覚には、「ガス室」による「ホロコースト」物語は、どうにもピッタリとこなかったのだ。