インターネット雑誌 “I.eye.愛” (aiaiai!)

『憎まれ愚痴』6月号-1

2000.6.2.(金)発行開始:54号

目次


緊急連載:ユーゴ人道介入の口実「虐殺」デッチ上げ

(その18) 悪魔化謀略を見抜けず反省せず惚け通す厚顔無知

 3月28日のユーゴ大使館における“空爆”開始1周年記念の記者会見集会では、いささかの「報道検証」の発言と議論があった。
 講師には、日本・ユーゴ友好協会の理事長である大学教授の他に、2人が招かれていた。1人は、湾岸戦争で名を挙げた元・防衛庁詰め朝日新聞記者、現・『あえら』スタッフ、田岡俊次であった。田岡は、「アメリカから『悪者』のレッテルをベタっと貼られると、それでお終い」という状況を語った。それ自体は結構なのだが、ラチャク村事件報道については、まったく語らなかった。『朝日新聞』本体も、「虐殺」報道を垂れ流したまま、無反省のまま、である。
 田岡の隣には、すでに何度も批判した「虐殺報道」のスポーツライター、木村元彦がいた。⇒全文を読む


編集長の毒針:緊急課題!杉花粉症は“行政=産業”公害だ!
杉花粉被害放置政策に猛然反撃の独立反乱!
“杉林焼き払い放火作戦”開始宣言!

(その20) 学閥が牛耳る無間地獄「医は算術」博士の術策

 東大卒の官僚型の人種の学閥支配は、政界、官界、業界、教育界、マスメディア、その他、あらゆる中央集権組織に貫通している。それらのすべてに関わりを持つ医療業界も、当然、例外ではない。むしろ、一番、怪しい業界が、この白衣の巨塔である。
 てなことで、杉花粉症の「政治学」調査の過程でも、私は、この怪しい背景を気に懸けていた。東大の物療内科が、ディーゼル排気ガスと杉花粉の関係を熱心に研究した件についても、その研究の基本的な意図に疑いを抱いてきた。杉花粉症の患者の立場から見れば、天然痘の場合のように、原因物質の杉花粉の絶滅に全力を挙げるのが、本当の医学の在り方なのであるが、東大病院の物療内科は、まったく、その方向を打ち出していない。少なくとも、結果として、逆の効果を導き出している。 ⇒全文を読む

(その21) 主犯を匿った学閥が花粉飛散予測の首魁という皮肉

 前回に紹介した奇妙な本、『文明とアレルギ-/杉花粉症と日本人』と、その著者、井上栄について、若干の追跡調査の結果を報告し、基本的な杉花粉対策の概要を提案し、以て、本シリーズの一応の中締めとする。⇒全文を読む


長編連載記事

●連載:仰天!武蔵野市『民主主義』周遊記 (その28) 自治省が土地開発公社運営改善を指示

 要旨は、これまでのルーズな運営を引き締めるものですが、「設立団体においては、土地開発公社の積極的な情報公開が図られるように努力すること」と明記されるなど、面白くなってきました。
 武蔵野市では、5.10.大手紙の武蔵野版で既報の情報公開裁判の敗訴を受けて、市が控訴方針を提案する臨時議会が開かれました。市民の党の山本ひとみの媛らが、私が提供したコピーを片手に追究し、午後1時から午後10時までの紛糾の上、蝙蝠組の社民・市民会議2名が、市長支持に回る常套パターンで、16vs13により控訴方針可決となったようです。⇒全文を読む


随時追加“編集長日記風” 木村愛二の生活と意見 (2000.5開始)
2000年5月分

5.30(火)「従軍慰安婦」「南京事件」で希有な当局資料を無視した議論が続くのは恥ずかしい

 みすず書房が1982.2.26.に初版を発行した『続・現代史資料6:軍事警察』の中の「第十軍(柳川兵団)法務部陣中日誌」を「読んだか」、ということだった。上記の例会の活動報告スタッフは「読んでいない」のだった。答え方から察するに、この「日誌」の存在や、軍当局、それも法務部の公式報告という「稀有な」重要性の位置付けについても、予備知識がないようだった。
 私の考えでは、この資料は、いわゆる「南京事件」と、その後の「従軍慰安婦」問題を論ずる上で、もっとも貴重な軍当局側資料である。資料解説にも「稀有」と記されている。ここでは詳しく論ずるのは避けるが、普通の軍人ではなくて、司法資格を有する法務将校が残した公式の報告書なのである。
 このような資料調査の対極をなすのは、かの言論詐欺師、大手新聞記者、本多勝一の「仕事」である。私は、本多勝一が朝日新聞の連載「中国の旅」で「百人斬り」などという不可能なヨタ話を書いて以来の「南京大虐殺」論争なるものは、「草野球の酔っぱらい観客の場外乱闘」と位置付けている。お粗末だから、揚げ足取りが容易になる。
 「従軍慰安婦」問題を取り上げた先駆者の千田夏光は、こういう細部を無視しなかったのだが、最近の運動家は、千田夏光の先駆的業績を無視しているのか、迂回しているのか、ともかく底の浅い議論ばかりしている。⇒全文を読む

5.22.(月) 40年目の真実:1960年安保の「右」「左」がロフト総結集の激論!

 私は、当時、全学連の部隊の何故かいつも先頭の東大、そして何故かそのまた先頭の文学部の隊列の先頭にいた。すでに時効だから、隠さず告白するが、私は、顔見知りの委員から、こっそりと鉈を渡され、国会の南通用門の檜の柱を切り倒した。これは自分がやったことだから、間違いはない。
 石井は当時、護国団の実権を握る護国青年隊の総隊長で、指揮下の部隊が1960.6.15.当日、国会前で全学連らの集団と衝突した。私は、右翼が釘を打ち付けた角材を振るって新劇人会議のデモ隊を襲い、女優などの怪我人が出たと聞き、それを信じていた。
 ところが………
「『右翼デモ隊が持っていたプラカードには、五寸クギが打ち込んであった』などという、いかにも右翼がテロを準備していたかのように思わせる報道もなされたが、これは、乱闘で壊れたプラカード棒にあった、表示板を打ちつけた跡のクギの残骸を見間違えたものと思われる」。
 6.15が命日の樺美智子の死因も通説と違うのだ!
 当時、国史科の彼女と同じ文学部に属する英文科の学生だった私は、死体が収容された警察病院のロビーに学友とともに赴き、そこで、駆け付けた父親、樺俊雄の怒りの声を聞いて動転した。父親は、こう叫んだのだ。
「娘は、どこにいる! デモ隊に殺された娘は、どこにいる!」
 どうやら警察が、父親に、「デモ隊に踏み殺された」と伝えたらしい。⇒全文を読む

5.20(土) 図書規制立法の動きとか、議論盛んなれど、問題は基本情勢の認識にあり

 基本的にはアメリカの独り勝ち状況であり、具体的にはアメリカを虜にしているシオニスト・ロビーのメディア支配なのです。日本では特に、池田大作がノーベル平和賞を狙い、ごろつきシオニストの手先、サイモン・ウィゼンタール・センターと組んでいる事実を抜きにしては、日本の言論状況も世界の情勢も、まったく理解できないのです。⇒全文を読む

5.17(水) ああ、おぞましき「宗教法人」支配なれど、日本の方が先進国か?

 『日本経済新聞』(2000.5.17)「UPI名物記者が退社/統一教会系企業買収に抗議」
「ホワイトハウス詰め名物記者ヘレン・トーマスさん(79、写真)が16日、同通信が世界基督教統一神霊教会(統一教会)系の企業の買収されたことに抗して退社した。⇒全文を読む


緊急連載:『週刊ポスト』Bashing反撃
『アウシュヴィッツの争点』Web無料公開

(8) 第1部:解放50年式典が分裂した背景

 一九九五年一月二六日、『マルコ』廃刊決定の直前に開かれたアウシュヴィッツ現地の解放五〇周年記念式典は、戦後史上はじめてふたつに分裂していた。なぜだろうか。
 「歴史の真実」と題する朝日新聞(94・5・10)のコラムでは、この間の事情を、つぎのような書きだしでつたえていた。
 「ポーランド・アウシュヴィッツの元ナチス強制収容所の碑に刻まれた犠牲者の数字が、今年中にも改められる予定である」
 これまでの碑文では「ユダヤ人ら四〇〇万人の犠牲者」となっていた。それが「約一五〇万人」にあらためられた理由は、同記事によればつぎのようである。
 「数年前にここの収容所博物館のポーランド人研究者が精密な論文を発表した。(中略)結論は『百十万人から、最大でも百五十万人を超えない』だった」⇒全文を読む

第一章:身元不明で遺骨も灰も確認できない「大量虐殺事件」
(9) 1.「六〇〇万人」のユダヤ人犠牲者という数字の根拠は?

 中立国スイスの統計によると、一九三三年から四五年にかけて、一五〇万人のユダヤ人が、イギリス、スウェーデン、スペイン、ポルトガル、オーストリア、中国、インド、パレスチナ、アメリカに移住している。そのほかの移住の数字をあわせて計算すると、ヨーロッパのユダヤ人の人口は約五〇〇万人に減少していることになる。そのうち、ポーランドなどからソ連に移住したのが約一五五万人、連合国側と中立国で生きのこっていたのが四〇万人以上である。
 結局、ナチス・ドイツの支配下にのこっていたのは約三〇〇万人あまりにしかならない。しかも、その全部が収容所にはいっていたわけではない。
 ユダヤ人の国際組織の推定によると、「ナチの地獄を生きのびた」ユダヤ人の数は、一、五五九、六〇〇人となっていた。これを約一五六万人としてみよう。ナチス・ドイツの支配下で減少したユダヤ人の人口の総数は、約一五〇万人以下となる。⇒全文を読む

(10) 2.最初から矛盾だらけだった犠牲者数と「六〇〇万人」の起源

 朝日新聞は、一九九五年の元旦から「深き淵より/ドイツ発日本」と題する連載特集記事をくんだ。この年は、ドイツにとっても日本にとっても、「戦後五〇年」だからである。
 その第一回の記事には、「約六百万のユダヤ人を虐殺した『ホロコースト』は、生存者四十万人に深い傷を残している」とあった。「約六百万」のほうは情報源がわかっているから、別におどろくことはない。だが、「生存者四十万人」の根拠はいったい何だろうか。早速、電話でたしかめてみた。さいわい、執筆者担当者本人に聞くことができたが、イスラエルの国立ヤド・ヴァシェム博物館が発表している数字そのままなのだそうである。いかにもすくないし、さきにあげた朝日新聞の報道とも矛盾する。それらの疑問点をただしたところ、執筆を担当した記者自身がデータの錯綜ぶりになやんでいるい。
 連載の第二回では、「六百万ものユダヤ人を虐殺したというが、数はもっと少なかったはずだ」という発言者不明のコメントをのせている。これでバランスをとっているのだろう。「発言者不明」にした理由はあきらかにドイツの刑法改正にある。ドイツではいま、この種の発言をしたことが発覚すれば、「最高禁固五年」の刑に問われるのである。
 では逆に、「六〇〇万人」という数字はどういう根拠で計算されたものだったのだろうか。⇒全文を読む

(11)「約一五〇万」は元収容所司令官ホェス「告白」の範囲内

 ホェス「告白」は、ニュルンベルグ裁判の判決でも最大の根拠となったが、その最大の数値がもともと「二五〇万」だった。だから、ソ連発表の「四〇〇万」は最初からあやしい数字だったのだ。これまでアウシュヴィッツはソ連の勢力範囲にあったから、その数字のままだったにすぎないのである。⇒全文を読む

(12) ホェスを「拷問」した英国籍ユダヤ人軍曹の確信犯的「自慢」

 ホェスは最後にポーランドのクラコウで裁判にかけられ、一九四七年四月一七日にアウシュヴィッツ収容所内で処刑されたが、その死の直前に書いたとされている「回想録」には、つぎのような部分がある。
「わたしは一九四六年三月一一日に逮捕された。[中略]わたしにたいする最初の尋問における証言は、わたしをなぐってえたものである。わたしはサインはしたが、そこになにが書かれてあるのかは知らない。アルコールと鞭でわたしはまいってしまった。鞭はわたしのものだが、偶然、妻の荷物のなかにはいっていた。それは馬にふれたことすらなく、ましてや収容者にむけられたことなど、まったくなかったというのに」
 ホェスの尋問調書の一つは英語でタイプされており、下部にホェスのサインがある。本人の母国語のドイツ語でないだけでも大いに偽造の疑いがあるが、ホェスの尋問にあたったイギリス軍の尋問者自身が、のちに拷問の事実をみとめている。 ⇒全文を読む

(13) シンプソン陸軍委員会が報告した「特高」顔まけの「拷問」の数々

 「一八歳の被告の一人は、毎日のようになぐられ、読みあげられたとおりの陳述を書いた。六〇ページになったところで、この少年は独房に監禁された。早朝、ちかくの房にいたドイツ人は、かれが、“もうこれ以上の嘘はいわない”とつぶやくのを聞いた。その後、ニセの陳述を仕上げるために彼をつれだしにきた看守は、このドイツ人の少年が独房の梁で首をつっているのを発見した。だが、サインをするのを逃れるために首をつったドイツ人の少年の陳述は、ほかの被告の裁判につかわれ、証拠として採用された」
 以上の報告は、念のためにくりかえすが、アメリカの上院の議事録にしるされ、一般公開されているのである。⇒全文を読む

(14) 猛将パットンが箝口令をしいた親衛隊員への集団「リンチ処刑」

 この拷問の事実を資料で裏づけようと努力をしているおりもおり、アメリカ兵が無抵抗状態のドイツ軍の親衛隊員の捕虜を、大量に虐殺していたことがわかった。しかもその場所は、「シンプソン陸軍委員会」が、その中心的な調査対象としてとりあげていたダッハウ収容所であった。
 日系米兵の苦労話は省略する。その最後の活躍がフランス国境に近いナチ収容所、ダッハウの解放である。ところがなぜか「ダッハウについてしゃべるな」という箝口令がしかれ、この活躍はこれまで「秘話」になっていた。箝口令の理由の一つが「裏で親衛隊処刑」であった。ただし、「処刑」をしたのは日系米兵ではなくて、戦車軍団で有名な猛将パットンがひきいる普通の白人中心の部隊だった。日系米兵の活躍が「秘話」になっていたのは、どうやら、その不始末な残虐行為の隠蔽工作のまきぞえらしいのである。⇒全文を読む

(15) 美化されすぎてきた「ニュルンベルグ裁判」への重大な疑問

 『ニュルンベルグ裁判/ナチス戦犯はいかに裁かれたか』という本がある。著者は、ドイツ人の現代史家、ウェルナー・マーザーである。こちらの日本語版「訳者あとがき」には、つぎのような、さきの大岡のとは正反対の感想がしるされている。
「私たちの東京裁判を、人種的偏見にみちた復讐裁判だとする意見があるが、ナチス第三帝国崩壊後のドイツ指導層の受けた侮辱と冷遇とつき合わせてみると、なんとマッカーサーの軍隊は『紳士的』であったことかと今さらのように驚いてしまう」 ⇒全文を読む

(16)「第一級の目撃証人」、最後のアウシュヴィッツ司令官は「否認

 ところが、この奇妙なミッシングリンクが、決して歴史的な記述とはいえない回想録『アウシュヴィッツの嘘』のなかにあったのだ。この部分はみじかいので全文を紹介するが、つぎのようなものだ。
「リヒアルト・ベイアーは、アウシュヴィッツの最後の(一九四三年からの)司令官であり、それゆえにもっとも重要な目撃証人であるが、かれについてパリで発行されている週刊『リヴァロル』は、『アウシュヴィッツにいたすべての期間をとおして、ガス室を見たことはないし、そんなものが一つでも存在するなどということも知らなかった』というかれの強い主張を思いとどまらせることは、ついにできなかったとつたえている。ベイアー元司令官は、尋問のために拘留されていたが、二週間前の健康診断の結果がまったく異常なしだったにもかかわらず、一九六三年六月一七日、突然、死亡した」⇒全文を読む

(17)「歴史上もっとも恥ずべき法の名による茶番狂言」という批判

 『六〇〇万人は本当に死んだか』では、ニュルンベルグ裁判を「歴史上もっとも恥ずべき法の名による茶番狂言」と断定した理由をたくさんあげているが、そのなかでも、もっとも決定的とおもえるものは、つぎのような法廷の内部の構成員による告発であろう。
「ニュルンベルグ裁判の背景的事実を暴露したのは、その法廷の一つの首席裁判官だったアメリカ人の裁判官、ウェナストラム判事だった。かれは訴訟手続きの進行状況に愛想をつかして辞任し、アメリカに飛行機でもどったが、置き土産として、裁判にたいするかれの異議を逐一箇条書きでしるした声明を『シカゴ・トリビューン』紙上で発表した」
 法廷構成の欠陥は早くも、当のニュールンベルグ裁判の進行中にも専門家から指摘され、メディア報道にもあらわれていたのだ。⇒全文を読む

(18) エルサレムで戦死した将軍は戦争犯罪局の「狂信的シオニスト」

 有給のニセ証人もたくさんいた。ここでは、そのもっとも典型的な例だけを訳出しておこう。
 「ダッハウでの裁判の進行中におきた悲喜劇的な小事件が[ニュルンベルグ裁判]全体の雰囲気を示唆してくれる。アメリカの検事、ジョセフ・キルシュバウムは、アインシュタインという名のユダヤ人の証人を法廷につれてきて、被告のメンツェルがアインシュタインの兄弟を殺したという証言をさせようとした。ところがなんと、その当の兄弟[つまり、生きている実物]が法廷のなかにすわっているのを、被告が発見して指さしてしまったので、あわてふためいたキルシュバウムは、証人をつぎのように怒鳴りつけたのである。
 『兄弟を法廷につれこむなんて馬鹿なことをしやがって、これでどうやれば、この豚を絞首台においあげられるっていうんだ』」⇒全文を読む

第二章:「動機」「凶器」「現場」の説明は矛盾だらけ
(19)「強制収容所」にはなぜ「死亡率低下」が要求されたのか

 アウシュヴィッツの軍需工場としての性格については、『二〇世紀の大嘘』にくわしい分析がある。ドイツは、イギリスによる経済封鎖でくるしんだ第一次世界大戦の経験をふまえて、「経済自立国家」をめざしていた。経済的な自給自足のためにとくに独自確保が必要だったのは、合成石油と合成ゴムであった。石炭からつくる合成石油の技術は完成していたが、合成ゴムは開発途上だった。アウシュヴィッツの収容所群は、この両者の生産、開発への人的資源確保を中心課題としていた。
 日本の研究者でも大野英二がその実証的な労作、『ナチズムと「ユダヤ人問題」』の中で、「戦争経済の再編成のさなかで最も焦眉の問題となった労働政策」を「労働総監ザウケル」がいかに遂行したかを、克明にまとめている。⇒全文を読む

(20)「ヒトラーにたいする宣戦布告」を発表したユダヤ人国際組織

  ユダヤ人の強制収容の場合には、ナチス・ドイツのユダヤ人排除政策に基本的な問題点がある。だが、強制収容以前にユダヤ人の側も、「世界ユダヤ人経済会議」とか「ユダヤ人中央委員会」とかの中間段階をへて「世界ユダヤ人評議会」を結成し、「ドイツ商品ボイコット」の運動を国際的に展開していた。
 しかも、その開始は、ヒトラーが政権についた直後の一九三三年のことである。旧帝国時代からのヒンデンブルグ大統領が存命で在職中だし、ヒトラーの足元はまだ固まっていない。だからこそ、この時とばかりに、「ドイツはこの冬に崩壊する」というアジテーションのもとに、「ドイツ商品ボイコット」運動がはじまったのである。その結果、一九三三年のドイツの輸出総額は一〇パーセント低下し、利益は前年の半分におちた。
 一九三三年三月二四日付けの『デイリー・エキスプレス』には、「世界のユダヤ人のヒトラーにたいする宣戦布告」が掲載されていた。
 ユダヤ人の指導者の目標は、このボイコット運動によってヒトラーを政権の座からひきおろすことにあった。しかし、ヒトラーは、この挑戦をのりこえてしまったのだ。結果として、両者とも宿敵の関係を強めることになった。⇒全文を読む

(21)「どくろマーク」がえがかれた「ガス室」物語に数々の矛盾

 ところが、「ホロコースト」物語の場合には、戦争末期になって「物的証拠」が発見された。すくなくとも、そう報道され、そう信じられた。連合軍が解放したナチス・ドイツの強制収容所のなかにはまず、「おびただしい死体の山」があった。本書の「はしがき」ですでにしるしたように、おもな死因は「発疹チフス」だった。だが、連合軍の兵士も同行していた報道記者も、事前の宣伝どおりの「ガス室処刑」だと思って、そう報道してしまった。しかも、「毒物」の所在を示す「どくろマーク」がついた部屋があり、そこにもやはり、「どくろマーク」がついた「チクロンB」のカンが、大量にのこされていたのである。⇒全文を読む