『アウシュヴィッツの争点』(16)

ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために

電網木村書店 Web無料公開 2000.6.2

第1部:解放50年式典が分裂した背景

第1章:身元不明で遺骨も灰も確認できない
「大量虐殺事件」8

「第一級の目撃証人」、最後のアウシュヴィッツ司令官は「否認」

 元ドイツ軍の中尉で、アウシュヴィッツに勤務した経験のあるティエス・クリストファーセンが書いた『アウシュヴィッツの嘘』という衝撃的な題名のみじかい回想録が、現在のドイツでは「発売禁止」になっている。わたしの手元にあるのは英語版である。

 クリストファーセンは、この回想録の発表を決意するにさきだって、いくつかの資料を読んで問題点を確認している。回想録の冒頭部分には、それらの資料からの引用がなされているのだが、そのなかには、わたしがこの「ホロコースト」問題にとりくみはじめて以来かかえつづけてきた疑問にたいする重要な手がかりがあった。それは、いわば人類史のミッシングリンクのような、決定的な情報の欠落部分だったのである。

 わたしは、「ホロコースト」問題について、それまでは漠然とした一般的な知識しかもっていなかった。それでも、わたしなりのやりかたで資料を比較しながら読んでいると、アウシュヴィッツの「ホロコースト」物語の「立証」は、もっぱら元収容所司令官のホェスの「告白」にたよってきたことが、すぐに読みとれた。ユダヤ人側の証言もあるが、ホェスの「告白」は裁判用語でいう「敵性証人」の加害者による「自白」だから、価値がたかいとされているのだ。このホェス「告白」の信憑性がくずれれば、「ホロコースト」物語の屋台骨はグラグラとゆらぐにちがいない。だが、すでにしるしたように、ホェスがアウシュヴィッツの司令官だったのは、アウシュヴィッツ収容所が創設された一九四〇年から四三年までなのである。その後は、首都のベルリンで親衛隊の経済行政本部に配属され、政治部を担当している。収容所の直接の担当ではないのだ。

 一九四三年から翌々年のドイツが降伏する四五年までの足かけ三年、しかも、ホェス「告白」などによれば、もっとも大量にユダヤ人を「ガス室」で計画的に虐殺したとされているドイツ敗戦直前の時期の司令官は、いったいだれだったのだろうか。単数か、複数かさえもわからない。かれ、またはかれらは、いったいどういう証言をのこしているのだろうか。わたしがもとめていた未知のミッシングリンクは、その時期の元司令官だった。

 ところがこれが、なかなかでてこないのである。歴史的な記述になっている日本語の資料を何冊も読んでも、どこにもでてこない。「死んだのかな」、「自殺でもしたのかな」などという想像まで、ついついめぐらしてしまった。しかし、証言をのこさずに死んだのなら、そのことをしるしておけばいい、いや、しるしておくべきなのだ。そうすれば、前任の司令官ホェスの「告白」の位置づけが明確になる。一九四三年から四五年までの足かけ三年のアウシュヴィッツについてのホェスの「告白」は、あきらかに「伝聞」であって、本人の直接の体験ではない。なぜ当時の司令官の名がでてこないのかは、まったく不思議なことだった。

 たとえば、わたしがこの問題を『噂の真相』誌に書いて以後、ある友人が意味深長な目つきでわたしてくれた本がある。F・K・カウル著、『アウシュヴィッツの医師たち/ナチズムと医学』、発行日は一九九三年八月三〇日、日本語訳の出版元は教科書出版でも大手の三省堂である。横帯の宣伝文句には「記録を基にして事実を再現」とか、「アウシュヴィッツ強制収容所における医学的犯罪を、系統的かつ具体的に示したのは、本書が初めて」などとある。友人の意味深長な目つきは「これは手ごわいぞ」という意味だ。確かに記述の仕方はくわしい。最近の著作だけのことはある。しかし、この本でさえも、肝心の部分は例のホェスの「告白」にたよりっきりである。ホェスの経歴はくわしく書いてあるのに、かれの後継者の収容所司令官についてはまったくふれていない。

 そのうえさらに不思議だったのは、「ホロコースト」見直し論者の文章にも、このミッシングリンクがなかなかでてこないことだった。

 ところが、この奇妙なミッシングリンクが、決して歴史的な記述とはいえない回想録『アウシュヴィッツの嘘』のなかにあったのだ。この部分はみじかいので全文を紹介するが、つぎのようなものだ。

「リヒアルト・ベイアーは、アウシュヴィッツの最後の(一九四三年からの)司令官であり、それゆえにもっとも重要な目撃証人であるが、かれについてパリで発行されている週刊『リヴァロル』は、『アウシュヴィッツにいたすべての期間をとおして、ガス室を見たことはないし、そんなものが一つでも存在するなどということも知らなかった』というかれの強い主張を思いとどまらせることは、ついにできなかったとつたえている。ベイアー元司令官は、尋問のために拘留されていたが、二週間前の健康診断の結果がまったく異常なしだったにもかかわらず、一九六三年六月一七日、突然、死亡した」

ベイアーとヒムラーの不審な死にかたは、たんなる偶然の一致か

『リヴァロル』は国会図書館でも日仏会館でもそなえていない。フランスのフォーリソンに国際電話をかけて、問題の『リヴァロル』のコピーを持っているかと聞いてみた。するとフォーリソンは言下に、『リヴァロル』の原文コーピーは持っていないが、『リヴァロル』の記事自体は簡単な報道だから重要ではないと断言した。さらに、シュテーグリッヒの本は原資料にもとづいているが、それを読んだかと聞きかえしてきた。

 シュテーグリッヒ判事の著書『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』(日本語訳なし)のなかには、本文で三カ所、注で二カ所、計五カ所のベイアーについての記述がある。

 最初は、ホェスの後任者についての簡単な記述である。それによると、ホェスの直後の後任者はアルトゥール・リーブヘンシェルで、そのまた後任者がリヒアルト・ベイアーという順序になっている。ベイアーの名前のあとには、つぎのようなカッコ入りの文章がつづいている。

「(拘留中のベイアーが死んだのは、一九六三~一九六五年のフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判の開始の直前だったために、さまざまな憶測をかきたてたが、そのときにアウシュヴィッツについてのもっとも重要な目撃証人は永遠に沈黙させられたのである)」

 この部分の資料としては、三つのドイツ語の文献の存在がしめされている。これらをもとにしたシュテーグリッヒの記述は、各箇所の合計で三ページ分になる。

 要約紹介すると、まず、ベイアーは一九六〇年一二月にハンブルグで逮捕された。そのちかくで材木の切りだしの仕事にやとわれていたというから、戦後の一五年間以上も森林地帯に身を隠していたらしい。ニュルンベルグ裁判にはかけられていない。そのために無視されやすかったとも考えられるが、それだけでは説明しきれない問題点がおおい。

 第一の問題点は、アメリカの戦争避難民委員会(WRB)の報告の仕方にある。この報告は、ニュルンベルグ裁判における検察側の告発の下敷きとなったものだが、ホェスの後任の二人の司令官については、なぜか、まったくふれていない。一九四四年、つまり、ベイアーが身を隠す前の現役司令官時代に作成された報告だということになっているが、それがまずあやしい。

 第二の問題点は、ベイアーの死因である。直後に「毒殺」を疑う声がでているのに、当局は解剖による検死をおこなわず、火葬を強行している。

 第三の問題点は、ホェス「告白」、およびホェスとベイアー、そのほかの責任者の上下関係からでてくる。

 もしも「ホロコースト」物語が本当だとすれば、最高の地位の命令者はヒトラー総統であろう(ゲーリングだという説もあるが、否認したまま死刑を宣告され、絞首刑の執行直前に自殺)。だが、虐殺を実行する組織は親衛隊だから、その総司令官のヒムラーも知っていなければならない。もしもヒムラーから、最終期には傍系となる政治部のホェスをとおして命令が極秘に伝達されたと仮定しても、現場の収容所司令官をぬきにして命令が実行されるはずはない。その一人だったはずの最後のアウシュヴィッツ司令官が、ベイアーである。つまり、ホェスのほかに最低限、ヒトラー(またはゲーリング)、ヒムラー、ベイアーは、極秘計画を知っていなければならない。

 ところが、ヒトラーは愛人と一緒に自殺してしまった。ヒムラーも「自殺」とされており、ベイアーも「不審の死」をとげたのである。ヒムラーの場合は、イギリス軍に尋問されている最中に、「一人で部屋にいた時、カプセル入りの毒を飲んで死んだ」とされている。結果として「死人に口なし」となった。

 以上のように消去法で考えてみると、「ホロコースト」計画が本当なら絶対に知っていなければならないヒムラーとベイアーが、なぜかともに、不審な死にかたをしている。そして、最終期には傍系で、すくなくとも一九四三年から四五年のことは、知らなくてもいいはずのホェスの「告白」のみが生きのこっていることになるのだ。

 ベイアーというミッシングリンクの意味について、わたしはとりあえず、つぎのような問題点を設定してみた。。

(1) リヒアルト・ベイアーはもともと、議論の余地なしに、アウシュヴィッツ収容所についての第一級の目撃証人である。同時に、もしも収容所における犯罪的事実が立証された場合には、現地の最高責任者として、実行犯の最高刑を課せられるべき立場にあった。

(2) 「ガス室を見たことはないし、そんなものが一つでも存在するなどということも知らなかった」というベイアーの主張が、そのまま被告側の供述として一九六三~一九六五年のフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判に提出されたならば、検察側は、それをくずすための反証となる証言や物的証拠をそろえなければならなかったはずだ。

(3) もともと、ニュルンベルグ裁判の中心となった国際軍事裁判の法廷では、ゲーリングをはじめとするナチス・ドイツの首脳陣が、ニュアンスに相違はあっても一様に、絶滅政策を知らなかったと主張していた。それなのに、ホェスの「告白」のみが実地検証抜きに採用されたわけである。だが、ベイアーの否認は、被告の首脳陣の否認よりも格段に直接的であり、ホェスの「告白」を足元からくつがえす効果をもっていた。

(4) 以上のような裁判上の不備をおぎうためにこそ、一九六三~一九六五年のフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判が設定されたはずであるが、なぜかその開始直前に、ベイアーは急死した。結果として、「アウシュヴィッツについてのもっとも重要な目撃証人は永遠に沈黙させられ」たのである。

 以上のような決定的に重要な問題点の材料を、クリストファーセンの回想録やシュテーグリッヒの著作は指摘していることになる。

 なお、その後、一九九二年発行の『アンネ・フランクはなぜ殺されたか』の巻末一覧に、「リヒアルト・ベア」がふくまれているのを発見したが、その説明の「アウシュヴィッツ第一収容所長」は舌たらずである。ベイアー(ベア)は、その地位からアウシュヴィッツ全体の司令官に昇格している。しかも、それ以外の記述は「一九六三年、裁判の前に自殺」だけである。


(17)「歴史上もっとも恥ずべき法の名による茶番狂言」という批判