『亜空間通信』925号(2004/12/31) 阿修羅投稿を再録

憲法9条・救国トリック説(昭和の三傑)WiLL2号記事で筆者の旧友・堤堯に三国志空城計を指摘

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『亜空間通信』925号(2004/12/31)
【憲法9条・救国トリック説(昭和の三傑)WiLL2号記事で筆者の旧友・堤堯に三国志空城計を指摘】

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転送、転載、引用、訳出、大歓迎!

 本日(2004/12/31)の本通信の経過は、結構ややこしい。年越しの「大つごもり」、大晦日向きの題材である

 「ナチ・ガス室はなかった」記事で大騒ぎとなった『マルコポーロ』廃刊事件の渦中の編集長、花田紀凱が、月刊誌、WiLLの責任編集者となり、さる11月25日に、その創刊号が、出版社からの謹呈として、わが家に宅急便で送られてきた。

 目次を見ると、大学の演劇の仲間だった学友の堤堯が、「ある編集者のオデッセイ・文藝春秋とともに」と題する連載(第41回)を寄稿している

 わが古巣の日本テレビと文藝春秋は、徒歩10分ほどの距離だったから、卒業後にも、堤とは、時折会っていた。

 共通の友人は何人もいるが、やはり学友で、ボクシング・ヘヴィー級チャンピオンのモハメッド・アリを日本に呼んだ「呼び屋」の康芳夫とは、双方ともに、非常に親しい関係である。『マルコポーロ』廃刊事件の直後にも、堤と会って、この事件がいかに文藝春秋を揺るがしたかについて、彼が細部は言わないから、それだけになお重く感じる短い情報交換をした。

 雑誌の創刊号に連載の41回目が載るのは異例だが、それまでは『編集会議』誌に寄稿していたものを、WiLLに引き継いだのである。堤は、『マルコポーロ』廃刊事件を決定的な契機とする退社の事情に加えて、「週刊文春」の元編集者の先輩としても、直系の後輩の花田紀凱の新しい仕事に、肩入れしているのである。

 偶々、このWiLLの創刊の日の翌日の11月26日に、ワールド・フォーラムの例会、「マルコポーロ廃刊事件と「出版の自由」弾圧の背景―ホロコースト神話は何故生まれたか?―」が設定されていた。講師には、「ナチ・ガス室はなかった」記事の筆者、内科医・西岡昌紀と、花田紀凱が予定されていたが、花田は欠席した。新雑誌発刊と同時だったから、超多忙だったのであろう。仕方がない。その分、客席から私が、文藝春秋の「お家騒動説」や廃刊の号に創価学会特集(季刊『真相の深層』2,3号に復刻)があり、廃刊事件の表面的な仕掛け人、サイモン・ウィゼンタール・センターとノーベル平和賞を狙う池田大作の緊密な関係などを紹介した。

 今月、12月の25日には、やはり謹呈で、WiLLの創刊2号が届いた。第42回のゴシック・リードには、「憲法9条の発想者は誰か?」とある。敗戦後の日本の政治、軍事の基本的な問題である。

 早速、読み進むと、記事の最後に堤堯の略歴が記されていて、彼が、最近、『昭和の三傑―憲法九条は「救国のトリック」だった』を、集英社から発刊したことが分かった。WiLL創刊2号には、「絶賛発売中」の広告が載っている。

 堤の経歴に関しては、以下のアマゾンの電網宝庫の書籍広告を借用する。単行本ー281p(2004/04)とあるから、今年の春、4月の新刊書である。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4797671114/reviews/250-8140897-6231419
昭和の三傑―憲法九条は「救国のトリック」だった
堤 堯 (著)

内容(「MARC」データベースより)
「憲法第九条」は日本製だった。日本国民が「アメリカの手駒」となることを防ぐための当時の歴代首相の「知恵」とは? 鈴木貫太郎、幣原喜重郎、吉田茂をキーマンに、戦後を総括する歴史ノンフィクション

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
堤 堯
1961年、東京大学法学部卒。同年、文芸春秋入社。「諸君!」、「文芸春秋」編集長、「週刊文春」編集局長、三誌を束ねる第一編集局長、ついで出版総局長を歴任。常務、常任顧問を経て退社。以後、新聞、雑誌に執筆活動を展開中

「昭和の三傑」とは、以上から明らかなように、鈴木貫太郎、幣原喜重郎、吉田茂、敗戦直後の三代の首相のことである。

 鈴木貫太郎に関しては、以下の電網報がある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、慶応3年12月24日(1868年1月18日) - 昭和23年(1948年)4月17日)は、第42代内閣総理大臣

 大阪府堺市の幕臣・久世家の飛び領地で生まれた。日露戦争に第四駆逐隊司令として参加。海軍次官・連合艦隊司令長官から侍従長を歴任。二・二六事件で襲撃され、瀕死の重傷を負うも難を逃れる

 1944年に枢密院議長に就任。1945年4月7日に組閣の大命を受け、終戦事務に奔走する。8月14日にポツダム宣言を受諾するが、近衛師団の一部将校が降伏阻止のために反乱を起こし、私邸を襲撃される。8月15日に無条件降伏を表明した後、総辞職

 幣原喜重郎に関しても、以下の電網記事がある。

1872 - 1951
[ しではら・きじゅうろう ]

首相、外相、外務次官、駐米大使、ワシントン会議全権、衆議院議長、進歩党総裁、岩崎弥太郎の女婿。

エピソード 権力は人を若返らせる。 終戦直前、吉田茂が和平工作に幣原をかつぎ出そうとしたとき、 彼は「非常にやせて生気がなく、がくがくとあごをならし、手もふるえ、誠に老齢そのもの」の状態で、遣いの者をうろたえ驚かせた。 ところが、その後、首相の座につくや、あごの音はやみ、手のふるえも止まり、すっかり若返って、激務をこなした。 天皇の人間宣言も、首相自らの手で書かれた。権力が彼を若返らせたのだ。

・ 大阪府出身。東京帝大卒業後、外務省入省。
・ オランダ公使、外務次官など歴任後、アメリカ大使に就任、ワシントン会議に全権として参加。
・ 加藤(高)内閣で外相となり、以後、憲政会、民政党内閣の全期間にわたり外相を務める。
・ この間、「幣原外交」とよばわる国際協調外交を推進する。
・ だが、ロンドン軍縮条約の締結後、満州事変で、その外交路線は完全に破綻する。
・ 軍国主義化の波の中、完全に「忘れられた人」となるが、吉田茂らの尽力で中央政界に復帰。
・ 戦後、首相としてGHQの求める諸改革に着手。また、天皇の人間宣言は自ら起草。
・ マッカーサーによれば、新憲法の戦争放棄の理念は彼の着想に基づくという

 吉田茂は、憲法制定の時の首相であり、9条に関しては、以下のわが亜空間通信に掲載したような答弁をした。いわゆる曲者である。以下は、2年前の2002年の敗戦記念日の前日の8月14日のわが通信である。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/aku336.html
WEB雑誌『憎まれ愚痴』/『亜空間通信』336号(2002/08/14) 阿修羅投稿を02.12再録

815右も左も聞け詔書「太平ヲ開カムト欲ス」吉田茂9条説明審議録(拍手)

[中略]

く質問=野坂参三・日本共産党〉

1.戦争には、侵略された国が自国を防衛する「正しい戦争」と他国を征服・侵略する「不正の戦争」とがある。したがって、憲法は「戦争の放棄」でなく「侵略戦争の放棄」とすべきだ。2.日本の過去の戦争は侵略戦争ではないのか。

く答弁=吉田総理〉

●「国家正当防衛権による戦争は正当なり」とする考えは「有害である」。戦争の多くは「国家防衛の名において行なわれた」のだから、「正当防衛を認める」ことは「戦争を誘発するゆえん」になる。

●戦争放棄条項は、「国際平和団体の樹立」によってあらゆる侵略戦争の防止を期している。正当防衛による戦争があるとするなら、侵略する国があることが前線になる。したがって、国際平和団体が樹立された場合には「正当防衛権を認めることそれ自身が有害である」。[後略]

 さて、このWiLLの連載記事の本文では、1960年「安保騒動」や1970年代の全共闘と三島由紀夫の関係(本通信では割愛)などを記した後に、マッカーサー元帥への「戦力放棄」条項の提案者を、幣原喜重郎だとしている。

 しかし、堤は、この「奇想天外のトリック」に関しては、さらに「幣原ひとりの発案だったのか」と問い掛け、「史料を読み解くほどに、鈴木貫太郎、幣原、吉田ーー三代宰相の合作のフシがある」とするのである。

 しかも、その発想の源を、堤は、以下のごとく、「貫太郎が好んで語った歴史上の逸話」に求めている。

 徳川家康が三方ヶ原の戦いに敗れ、生涯最大の正念場を迎えた折に案出した奇想天外なトリックである。

 武田信玄の騎馬隊に蹴散らかされた家康は、岡崎城めざして遁走する。馬上、恐怖のあまり脱糞した。城に逃げ込んだ家康は一計を案ずる。押し寄せた敵将が見たものはーー 城門を広々と開け放ち、奥に大きなかがり火、城内なにごともなかったかのように宴の真最中、笑いさんざめく声がする。守兵の影は見えない。

 疑心にかられた敵将は、馬首をめぐらし引き揚げる。

 家康は、この時の恐怖のあまり脱糞した情けない敗残の姿を、わざわざ絵に描かせて、掛け軸として残し、子孫にその苦難を伝えている。有名な話である。だから、ははん、なるほど、と誰でも思うだろうが、私は違う。あれれ、と思った。

 以下は、堤に書き送った手紙の一部である。

堤 堯 様

WiLLの寄贈を受けています。

「文芸春秋とともに」「ある編集者のオデッセイ」、第42回を拝読。

一昨年、三島由紀夫に関する新しい本を出した「いいだもも」の話を聞いたこともあり、防衛大学校中退、1960年安保闘争経験、などから、非常に興味深く、面白く読みました。

ただし、家康の岡崎城の奇計に関しては、即座に、8歳の北京からの引き揚げ者の子供として読んだ『三国志』を想い出しました。お調べ下さい。

同封の季刊『真相の深層』(既刊を全部送った)は、『マルコポーロ』廃刊事件に関する真っ正面からの反撃です。

2004年12月28日
木村書店代表
木村愛二

 こういう時には、インターネットが非常に便利である。以下の検索が、すぐにできた。

三国志、城、 "開け放ち" の検索結果 約 106 件中 1 - 27 件目 (0.17 秒)

三国志「空城の計」★劉備たちすでに亡く、魏への進軍を繰り返す諸葛亮孔明の有名エピソード。

蜀の将軍・馬謖は、命令を破り、大敗を喫し、要地・街亭を失うこととなる。(ここまで『失街亭』)諸葛亮は西城に駐屯して、街亭の陥落を聞く。司馬懿が、勝利に乗じて攻めてくることを察知する。しかし、城中には、すでに精鋭部隊はおらず、応戦することは難しかった。そこで、危機の中、「空城之計」を仕掛けることとした。つまり、城門を開け放ち、城頭に座り、琴を手にして酒を飲むこととした。

間近まで迫ってきた司馬懿の大軍は、そのような状態を見て、伏兵を疑う。二人の息子は突撃を求めるが、諸葛の策略をおそれた司馬懿は、軍を退却させた。

やがて、趙雲の援軍が到着し、西城は事なきを得るのであった。

※《三国志演義》九十五回に見える。一名「撫琴退兵」。諸葛亮(老生)と司馬懿の歌いぶりが見所。

 別途、平凡社刊『世界大百科事典』には、「くうじょうけい(空城計)」の項目がある。

 私は、本当に8歳の頃、北京からの引き揚げの時、学校は休みだったから、吉川英次郎の小新聞連載小説の何巻もの長編小説、三国志を、当時の細かいルビを頼りにして、全部読んだのである。

 その次第は、以下のごとく、1960年7月に、タイプ印刷の同人誌で短編小説に仕立て、2003年9月には、それを、電網に発表した。文中、「チカラさん」は、実在の人物でもあったが、その言葉などはフィクションである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/profile-boya01-1.html
1946年、北京から引揚げ船で送還された“少年A”の物語
時代の始まり

SPES(東京大学文学部英文科学生同人誌)1960年7月号初出
 時代の始まり ― 少年“A”の物語  征矢野愛二郎

(その1)僕等は侵略者の子供達だった

 2003.9.2 

 僕は東京行の汽車に乗っていた。それは敗戦の混乱が最早、無秩序の故の生気さえも失って、大人達の眼の中には絶望か、さもなくば、薄汚い欲望しか見出せなくなっていた時期であった。ごたごたしたホームを一生懸命に走って、やっと見つけた座席は、後から乗り込んだ復員服の若者に割りこまれて、肘掛けに胸を押しつけねばならぬ狭さになった。だがこれは、僕が小さかったのだから仕方がない。離れて坐っていた母も、妹をあやしながら、そうなのですよ、と頷いていたのだった。

 しかし、その小さな僕が傍目もふらずに読みふけっていた本に眼を止める大人達の虚ろな表情はどうだっただろう。もしその中の誰か一人でも、あの本について、それとも僕の熱心さについて、一言でも口を開いてくれたなら、僕は昂然と頭を上げて何かを答えたに違いない。それがもし、大人達の興味を引かなかったとしても。

 その本は三国志だった。そして僕にとっては、チカラさんの遺品でもあった。

「中隊長、大きくなったらこの本をやるからな。これを何度も読んで三国志の英雄達に負けない立派な大人になるんだぞ、ええか。」

 チカラさんはこう言って僕の頭を撫で、自らもその英雄の一人であるかのように雄々しく胸を張り、太い眉を上げるのだった。

 そのチカラさんは死んでしまった。だが僕は何巻もの重い本を持ち帰ったのだ。

 というわけで、私は、「昭和の三傑」の内の誰か一人ぐらいは、この三国志の空城計を知っていたに違いないと思うし、家康の「奇計」の背後には、本人か、軍師か、家臣のだれか、三国志の故事を知っていて、惨敗の危機に直面した際、即座に、応用した可能性ありと考える。

 よって、本日(2004/12/31)、「日本国憲法9条、戦力放棄の淵源は三国志の故知、空城計にあり」とのわが新説を、ここに発表するものである。もっとも、正確には、『三国志』ではなく、その小説化の『三国演義』、『三国志通俗演義』、『三国志演義』などとすべきところである。

 因みに、史記、漢書、後漢書とともに中国の「正史」と位置付けられる『三国志』は、平凡社刊『世界大百科事典』によれば、西晋の陳寿(233-297)の著であり。魏志30巻、蜀志15巻、呉志20巻からなる。魏、蜀、呉の三国の時代は、184-280であり、その頃には、『魏志東夷伝』の中の『倭人伝』で、始めて文字に記録された日本は、「東夷」そのもの、「東洋鬼」の島国であり、まだ無文字の野蛮国であった。

 以上。


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