ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために ― 論証と資料
サイモン・ウィゼンタール ~いかさま「ナチ・ハンター」~ 2
マーク・ウィーバー著(1994年版リーフレットより)
経歴詐称と卑劣なデッチ上げ
[実態にそぐわない評判]
サイモン・ウィゼンタールは生ける伝説である。1980年 8月にはホワイトハウスの正式な式典で目に涙を浮かべたカーター大統領が、この世界随一の「ナチ・ハンター」に議会の決議による金メダルを贈呈した。1988年12月にはレーガン大統領が、彼を今世紀の「真の英雄」の一人だとして賞賛した。
彼は西ドイツの最高の勲章の授与者であり、世界で最も重要なホロコースト組織の一つ、ロサンゼルスのサイモン・ウィゼンタール・センターは、彼の名を頂いている。
彼は、1978年に晩年のローレンス・オリヴィエが制作したファンタジー映画『ブラジルからきた少年たち』と、1989年 4月にベン・キングスリーが制作したテレビ向け映画『我々の中の殺人者たち/サイモン・ウィゼンタール』の中で、へつらいの言葉によって描き出されている。
ウィゼンタールの評判は実態にそぐわないものだ。「ホロコースト復讐の天使」として広く知られるこの男は、真実をなおざりにする無謀さに関しても実に豊富な記録の持ち主である。
彼は戦争中の経歴についても嘘をついているし、戦後の「ナチ狩り」の業績についても虚偽の発表をしており、いわゆるドイツの残虐行為についても卑劣なデッチ上げ話を広めている。彼は明らかに道徳観念を欠いている。
詐欺的名称「ナチ・ハンター」
ウィゼンタールの「ナチ・ハンター」としての世界的名声は、まったく事実に反している。彼の30年間以上の「ナチ戦犯」探しにおける最大の功績は、アドルフ・アイヒマンの居場所発見と逮捕に果たした役割だということになっている。
アイヒマンは戦争中の親衛隊のユダヤ問題担当部門の統括責任者だった。彼は1960年にブエノスアイレスでイスラエル情報部員に誘拐され、世界中のメディアの注目を浴びた裁判の後にエルサレムで絞首刑に処せられた。
しかし、アイヒマンを捕らえたチームを率いていたイスラエル当局のイセル・ハレルは、ウィゼンタールは逮捕に関して「絶対的に無価値」だったと明言している。ハレルは、「ウィゼンタールが逮捕以前に提供した情報はまったく価値がなく、それどころか時には誤導さえするマイナスの価値のものだった」と語っている。ハレルは、イスラエルの国内および国外の保安機関、モサドとシンベトの双方のトップを歴任している。
さらに、有力なシオニスト組織であるブナイブリスの反中傷同盟の総合顧問、アーノルド・フォスターは著書『旧弊な男』の中で、ウィゼンタールはイスラエル機関がアイヒマンを逮捕する直前に、かれの所在位置を日本にしたりサウジアラビアにしたりしていたと記している。
ウィゼンタールが演じた最も見せ物的な事件の一つは、シカゴのフランク・ウォラスという男を巻き添えにした。1974年12月10日付けの手紙で彼は、ウォラスが戦争中にポーランドのチェンストホーバとキエルツェで、「ユダヤ人をゲシュタポに引き渡した」と告発した。この手紙に刺激された合衆国政府は、ウォラスに対する捜査と法的キャンペーンを矢継ぎ早に行った。ワシントン・ポスト紙は、この事件の顛末を1981年5月に特集しているが、その題は「ナチ党員と間違えられた男/裁判官、報道機関、検察局の魔女狩りが、いかにして無実の市民を戦争犯罪人に仕立てたか」であった。このアメリカ法律家協会が版権を持つ長文記事には次のような指摘がある。
「1977年1月、合衆国政府はシカゴ市民のフランク・ウォラスを、第2次世界大戦中のポーランドで残虐行為を犯した疑いで告発した。それ以降、この定年で引退していた工場労働者は、自らの無実を証明するための裁判費用として6万ドル以上の借金を抱える羽目に追い込まれた。彼は法廷に座り、ナチ占領下のポーランドで生き延びた11人のユダヤ人が次々に証言するのを聞かされた。それらの目撃証言によると彼は、子供、高齢の女性、若い女性、せむし、その他の人々を殺したというのだが、……
圧倒的な物的証拠は、彼がナチ党員の戦争犯罪人ではなくて、ポーランドにいたことさえないことを示している。
……ヒステリア状態に達した憎しみと嫌悪の雰囲気の中で、政府は無実の人を迫害したのだ。
1974年に有名なウィーンの『ナチ・ハンター』こと、サイモン・ウィゼンタールは、ウォラスを『戦争中にポーランドのチェンストホーバとキエルツェのゲットーでゲシュタポの命令に応じて何人ものユダヤ人を引き渡したシカゴに住むポーランド人』だとして告発した」
換言すれば、サイモン・ウィゼンタールのウォラスについての「報告」なるものは、実際には何の根拠もない単なる空騒ぎの噂にしかすぎなかったのだが、この「ナチ・ハンター」は先頭に立って彼を告発し、葬り去ろうとしたのである。
1978年4月、この事件が審理されていた時期にウィゼンタールはシカゴを訪れてインタヴューに応じ、ウォラス事件を自分の手柄だとして誇った。「いかにしてナチ・ハンターはウォラス発見を助けたか」というのが日刊紙、サンタイムズの大見出しであった。ウィゼンタールはそのインタヴューで、彼が「今までに人違いをした事件は一つもない」と語り、「私がそのようなミスをするのを待ち望んでいる人が何千人もいることを知っている」と付け加えた。
「キエルツェの虐殺者」として誹謗中傷され、肉体的にも襲われたりした男は最終的に、自分が戦争中のドイツで平和な農場労働者として暮らしていた事実の立証に成功したのだが、それはひとえに、心身ともに消耗し果てる裁判闘争の末であった。このウォラス事件に関するウィゼンタールの無責任で勝手気ままな振る舞いは、彼の調査者としての肩書きの信頼性を永久的に傷付けるに充分なものだったはずだ。ところが、かれのテフロン加工の鉄鍋のような世評は、それさえもしのぎ切った。
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