『最高裁長官殺人事件』

第一章 《お庭番》チーム出動

 奥多摩に向かうパトカー2台に検案車が1台後続していた。

 1台目のパトカーには田浦と浅沼に長崎記者。2台目には鑑識課員が2名と写真係りが1名。検案車には監察医と補佐員が分乗していた。長崎は自分のカメラバッグをかつぎ込んだ。浅沼は素早く私服の背広に着替え、刑事気分を出していた。

 現場に着くと直ぐに、所轄署の刑事が田浦に発見者の井口を紹介した。

「先ほど電話で話しました田浦です。おかげさまで、この種の遺棄死体事件としては、異例の早さで捜査に取りかかることができます」

「いえ、当然のことをしたまでで」

 テクニシャンこと井口辰雄は言葉少なに答えた。しばらく前から、一刻も早く仲間と合流したい気持ちの方が強くなっていた。対戦相手であるブラック・ガン軍の隊長、マスターこと草刈啓輔の台詞ではないが、その日のサバイバル・ゲーム〈本邦初演、世紀のクイーン作戦〉は都合9回の対戦を予定していた。まだ後半には間に合うのだ。

「もう私はよろしいでしょうか」

「はい。そうですね。結構です。どうも長時間拘束してしまって申しわけありません」

 田浦はすでに控えてあった井口の連絡先を確かめ、再び礼をいった。井口が立ち去ろうとすると、警察官たちが一斉に声をあげた。

「ごくろうさんでした!」

 井口は気を良くしてニッコリ笑った。

 

 現場の鑑識活動は順調に進んだ。

 採取された死体の指紋を受け取った地元の刑事は、ただちにパトカーで所轄署に飛んだ。指紋もコンピュータ化されており、オンラインで全国どこからでも照合できるようになっている。

 血液検査は死体の解剖と一緒に監察医に依頼し、東京都監察医務院で行なう。血液型は、従来からの赤血球によるABO型とRh型のほかに、白血球による〈ヒト白血球抗原〉略称HLA型まで調べることができる。

 HLAはABOやRhと較べものにならないほどに複雑であり、いまだ解明途上である。HLAの遺伝子には、A,B,C,DR,DQ,DPの1つの〈座〉があり、分かっているだけでもAが約24種、Bが50種以上、DPが約6種など、極めて種類が多い。HLA遺伝子の組み合わせは、その種類別の順列組み合わせの数字だけあるわけだ。一致する確率は理論上、両親が同じ兄弟で4分の1、まったくの他人では1万分の1以下となる。ただし、遺伝子の地理的民族的分布の差という問題もあり、調査した集団によって実際の数値は大幅に違ってくる。HLAの違いが大きいと、臓器移植の際に激しい拒絶反応が起きる。それを軽減するために医学的な研究が発達したのだが、中国残留孤児の親子鑑定などにも応用されている。

 現場近くまで乗りつけたと思われる車の轍からは綺麗な石膏型が採れた。左右の車輪の間隔も正確に測られた。

 背広の裏にはネームがはいってなかった。しかし、ブランド名の布切れが縫いつけられていた。ローマ字で〈シックス・ポインツ〉。サイズはA6であった。

 長崎記者は写真を撮りながら、記事の原稿を考えていた。

「身元は直ぐ割れそうですか」と聞く。

「うん。材料はあるな」田浦刑事は軽くうなずく。「しかし、指紋が記録にないと、あとは足で稼ぐ仕事になるかもしれない」

 浅沼巡査は自分の手帳を出して、〈シックス・ポインツ〉のデザインを書き写す。

「先輩、これ、僕にやらしてくださいよ」

「これって、なんのことだ」

「背広のメーカーと販売ルート探し」

「なに馬鹿いってんだ。お前は捜査員じゃない。ここにいるのも内緒なんだぞ」

「そりゃ分かってますよ。だけど……」

「まあ、非番の遊びは禁止できないけど、……捜査の邪魔だけはするなよな」

 浅沼は少し頬をふくらませたが、すぐにニコニコした。要するに捜査の邪魔にさえならなければ良いという意味だ。なんといわれようと、自分がひと仕事できればと思った。

 期待していた指紋の照合の結果は該当者なしと出た。しかし、それで浅沼はかえって張り切り出した。身体中が力んで見える。

「先輩、新宿を通ってくださいよ」

「なんだ」

「ちょっと遊んでいきます。先輩は本庁でしょ」

「こいつ、洋服屋をのぞくつもりだな」

「ご想像にまかせます」

「浅沼さん、浅沼さん」長崎が急に猫なで声で割り込んだ。「どうせ遊びとしてしか認められないんだ。なにか分かったら僕だけに教えてよ。記者会見で発表されちゃったら、スクープにならないからね」

「ずるいことを考えますね」といいながらも浅沼は満更ではない。「スクープですか。本当にそうなりますかね」

 田浦が渋い顔をした。

「いや、そりゃまずい。おれが特定紙だけを優遇したと勘ぐられて、記者クラブで袋だたきになる。まずいな。……こりゃあ、無理してでもただちに捜査員を大量動員。浅沼巡査の抜け駆けを許さないようにしなくちゃ」

「先輩、そんな無茶な。人手不足でしょ。相談もせずに勝手な命令を乱発したら、皆にそっぽを向かれますよ。ねえ、長崎さん、そうでしょ」

 浅沼はやっきになって、田浦の考えを変えさせようとする。

「ハハハハッ……」長崎は笑う。「浅沼さん、大丈夫、大丈夫。田浦さんのは、意地悪癖の冗談ですよ。私も一緒に新宿で降ります。私が調べるのは自由でしょ、田浦先輩」

「まあ、勝手にしろ」

 田浦刑事は寝不足の首を振り振り、仕方なさそうに舌を打った。

 

 浅沼巡査と長崎記者が新宿でパトカーから降りたのは、もう午後4時過ぎであった。

「長崎さん、新宿なら私にまかせてください。ここの交番勤務が最初の仕事でしたからね」浅沼巡査は張り切る。「あの背広は高級品ではありません。安サラリーマンの私らは、こういうことには詳しくなるんです。大新聞の記者は高給取りだから、長崎さんも仕立てばっかしでしょ」

「うん。まあね」

「下々の取材もしなけりゃ駄目ですよ。クラブ発表だけじゃ真相は分かりませんから」

「馬鹿いえ。ちゃんと足で稼いでるよ」

 とはいうものの長崎の旗色は悪い。浅沼はますます調子に乗る。

「メーカーは無名ですね。デパートや安売りの流通センターは、下請けに作らせても、宣伝費をかけた自分のとこのブランド名を入れさせます。ああいう無名のブランドのままの商品は、このあたりの小さな店にしかぶら下がっていないんですよ」

 2人は早速、駅前の横町の洋服店から回り始めた。十数軒回って、いささかくたびれた頃に、とうとう〈シックス・ポインツ〉を置いている店が見つかった。

「ヤッタアーッ……」浅沼がすっとんきょうな声を出した。店員が面食らっている。だが、いざ質問しようという段になると、言葉が出ない。先のことまでは考えていなかったのだ。「ええと……」生まれて初めて私服で警察手帳を示す浅沼の頭にカアッと血が昇った。ギクシャクする。非番だし、捜査員でもないのだから、後ろめたさもある。「うん。この背広を着た死体が見つかってね、身元を洗ってるんだけど……。あれだよね、背広買った人の名前なんか控えてないよね」

「そうですね。まずないですね。うちらはデパートと違って、宅配はしませんしね」

「そうだよね。弱ったな。せっかくメーカーが分かったのに……」

 そこへ、奥で話を聞いていた店長が出てきた。メーカーの連絡先が分るという。2人はほっとした。まだ先がある。メーカーから卸し売りのルートを聞き出せれば、それだけ捜査の地域的範囲を絞ることができる。もう5時を過ぎたが、仕事をしているだろうか。

 メーカーはアーバン蓮見㈲。電話をすると、まだ残業で仕事をしているという。場所は江東区。早速タクシーで飛ばした。はたらいていたのは4,5人だが、フル操業なら2,30人ぐらいの縫製工場で、隅っこに事務室がある。

「ご免ください。ちょっと、うかがいたいことが」

 浅沼巡査がミシンの音に負けないように大声を出した。1人だけデスクに向かっていた60歳前後の男が渋々立ち上がり、社長の蓮見だと名乗った。事情を話すと、

「そのとおりです。うちの製品は、自前のブランドで出すときは小さな店ばかりですから、まず、同じことです。買い手の名前は分かりません。卸しのルートだけですね」

「そうですか。やっぱりね」

 浅沼は、がっかりした。ところが、

「ただね……。もしかして、あの分だとすると、役所に控えがあるかもしれない」

「えっ、なんですか。あの分ってのは」

「この春に残品を寄附したんですよ。中国から帰ってきた孤児へのプレゼントにね」

「えっ……。それはちょっと、詳しく聞かせてくださいよ」

 今度は長崎記者が身を乗り出した。

 社長はこの話になると満更ではないらしく、2人を事務所に通した。

「お茶を差し上げて」と奥に声をかける。

 長崎は聞き役に徹することにした。これは面白い記事になるかもしれなかった。

 オーナー社長の蓮見紘太郎は満州生まれで、55歳。戦後に11歳の孤児の引き揚げ者として日本に帰り、裸一貫から今日を築いた。両親に死に別れて命からがら日本にたどりついた身なので、残留孤児の話は他人ごとではない。自分にも、遠い親戚を頼りに洋服店に住み込み、辛い思いに耐えてきた経験がある。いっそ1人1人に洋服を新調して励ましてやりたいところだが、繊維不況の昨今、経営は楽ではない。そこで考えたのが、前年の売れ残りの背広の贈呈であった。できれば1人1人に金文字のネームを入れてやり、なにか記念の文句でも書き加えたかったが、そこまで手間をかける余裕はなかった。

 蓮見社長は工場を指差しながら、

「なにしろ今も残業で追い込み中。それでもなかなかってのが中小企業の現状ですよ」

「ネームがはいっていれば、1発で身元が割れたのに」浅沼はつい口走ったものの、あわててあやまる。「済みません。こちらの都合ばかり考えてしまって」

「つまり、背広を贈呈した相手については、役所の担当者でないと分からないということですね」と長崎記者。

「そうです」と蓮見社長。

 中国孤児問題については、厚生省援護局に中国孤児等対策室が設けられており、関係資料はそこに集中されている。しかし、もう遅かった。

「役所は終了だ。しかし、待て待て……、良い方法があるぞ」長崎記者は指をパチンと鳴らした。「まずだね、さっき撮った被害者の写真がある。そしてだ。社にもどれば新聞の切り抜きファイルがある。新聞写真では不鮮明になっちゃうけど、元の写真そのものも項目別に整理されてる。較べてみて、似ている孤児がいるかどうか、だ。やれるだけやってみよう」

 浅沼は、この長崎の提案を聞いて、ひとまず田浦に報告することにした。

 

 田浦は2人を新宿で降ろしてから、真っ直ぐ本庁にもどった。

 課長の自宅に電話報告を入れる。口癖の悪たれをブツブツつぶやきながら捜査報告書を書き上げる。苦手のコンピュータにも報告書の要点を打ち込む。記者クラブでの発表用にコピーを取って広報に回す。自分でもコピーを読み直してから時計を見ると、昼勤の終了時間だ。あとは夜勤のデスク当番が来るのを待って、引き継ぎをするだけだ。

 ところが、帰り支度にかかろうと思って、椅子に座ったまま背伸びをしたところへ、浅沼が現われた。急ぎ足ですり寄ってくる。顔は脂ぎって薄汚れ、疲労で窪んだ目がギラギラ輝いている。〈これはヤバイ〉と横を向いて、とぼけようとするところへ、

「先輩、大変なことが分かりました。いや、分かるかもしれません」

「なんだ、今頃……。おれは、お前の遊びになんざ、つき合ってられねえぞ。泊まり明けのうえに丸1日勤務がやっと終了だ」

「先輩……。先輩に花を持たせようってのに、それはないでしょ」

「花を持たせるだって。へん、花が聞いて呆れるぜ。なにが分かったってんだ」

「あの背広のメーカーが割れました」

「ほう、割れたか。困ったな」

「困ることはないでしょ」

「困るよ。おれはもう今日の報告を出しちまったんだ。明日にしろ。いや、おれは明日は休みだ。今夜のデスクにいえ。……いやいや、お前さんの火遊びにまでは、責任持てねえな。引き継ぐわけにもいかねえ」

「そんな……。しかも、大変なことになりそうなんですよ」

「大変……か。本当かね。まあ、しようがねえな」ついに田浦は座り直した。「かいつまんで要領良く説明してくれよ」

「はいッ」浅沼は張り切る。「〈シックス・ポインツ〉のメーカーと直接取引をしている店が見つかって……。メーカーのオーナー社長の蓮見紘太郎さんは旧満州生まれ。戦後に孤児の引き揚げ者として日本に帰り、裸一貫から今日を築きました」

「おい、おい。立志伝まで聞く必要はないよ」

「いえ。それがおおありなんで。あの背広、中国残留孤児へのプレゼントのひとつだったのかもしれないんですよ」

「なんだって。それじゃあ、仏は、その、なんだ、中国残留孤児ってことか」

「はい。その可能性があるってことなんです」

「なんてこった。本当なら……」

「ああ、やっと真剣になってくれましたね」

「馬鹿、まだ本当かどうか分かりゃしないだろ」

「はい。それで今、長崎さんが新聞社にもどって調べているんです」

 浅沼は隣の椅子を引き寄せて詳しい経過を報告した。しかし田浦は聞き終わると、あっさり結論づけた。

「なんだ。要するに、まだ可能性だけだな」

「冷たい返事。がっかりしちゃいますよ」

「馬鹿。これぐらいでがっかりして刑事が勤まるか。写真だけじゃ決め手にならんよ」

 そうはいいながらも田浦は、背広のメーカーの身元と中国残留孤児の可能性についての報告を追加し、ターミナルに打ち込んだ。