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「アメリカだったら当然でしょうね」
鶴田は浅黒い細面の生真面目な顔に眉根を寄せ、いかにも弁護士らしいお説教口調で語る。年の頃は40歳前後であろうか。
「軍の法務将校としての経歴も当然含まれます。アメリカでは、大統領が最高裁判事に任命しようとする候補は、上院の過半数の支持を必要とします。反対党はあらゆる資料を提出させて、些細な判例上の問題点まで徹底的に追及します。日本では事実上、総理大臣の一方的な指名ですから、まったく事情が違います」
鶴田は、全日本法曹民主化協議会の事務局長である。ちょうど、最高裁判事の国民審査運動の資料作りなどをしているところだった。
全日本法曹民主化協議会という名前だけは大きいが、独自の事務所はない。鶴田が所属する新橋法律事務所が、そのまま連絡先になっていた。達哉は、電話で教えられたとおりに新橋駅の烏森口を出て、いまだに戦後のマーケット風のままの商店街を抜け、小さな雑居ビルにたどりついた。事務所は3階である。エレベーターがないので階段を登ると、2階から3階にかけてダンボール箱がぎっしり並んでいた。事務所のフロアは机が6つはいるのがやっとの狭さ、壁は本棚でギッシリだった。
「これが今度できたばかりの『全裁判官経歴一覧』です。加盟団体には2割引きで5600円にしています」
のっけにそういわれたので、達哉は、あの階段のダンボール箱の中身がこの本だったのかと気づき、早速買い求めた。鶴田の話は、この経歴一覧作りの苦労から始まって、最高裁判事の国民審査の裏話に及んでいた。
「日本の裁判所は、……国民に知られていません。最高裁判事の顔を写真で見た記憶のある人ですら、1パーセントにも満たないんじゃないでしょうか。ところが国民審査の投票は、×印をつけない限り、信任の扱いになってしまいます。ほとんどの投票者は、分からないから白紙のまま投票箱に入れているんです。それがどうして信任だといえますか。この国民審査法は、憲法の本文を裏切る詐欺行為以外のなにものでもありませんよ。17世紀のイギリスに俳優兼劇作家のマクリンという人がいまして、〈法律は奇術の一種である〉という警句を残しています。まさに、その典型ですね」
『全裁判官経歴一覧』によると、弓畠耕一の戦争中の身分は陸軍法務官であった。2年間で見習士官から大尉へのスピード出世である。
「最後はポツダム特進でしょうね」
達哉がつぶやくと、鶴田は即座に聞き返してきた。
「なんですか、それは」
〈やはり、まだ若いな。こちらも1本取れる〉達哉は内心満足しながら、その説明をした。達哉の先輩には、酔うと決まって、〈おれはポツダム兵曹だ〉といい出す業界記者がいた。それで最初に知ったのだが、8月10日のポツダム宣言受諾通告直後、軍は一斉にお手盛り階級特進をやってのけた。退職金や軍人年金を引き上げるためである。〈ポツダム兵曹〉殿はそれが唯一の自慢種だった。大尉ならなおさら立派な軍歴だから隠すことはない。
「最高裁は長官が元陸軍法務大尉で、判事に元海軍法務大尉とか中尉が合わせて6人もいました。海軍が多いのは、前の首相の下浜さんが元海軍主計中尉だったことと関係がありそうです。6人すべて下浜首相の任命です」
この経歴調査の直接のきっかけは、下浜首相が任命するメンバーへの反発だったという。いわゆるタカ派が続々登場するので、調べてみたら〈海軍〉閥もしくは旧軍法務官オンパレードの状況だったのである。
「3権分立は言葉だけのものになっています。これでは完全に政権党の別動隊ですよ」
キッパリした口調でそういい切る鶴田に、達哉は疑問をぶっつける。
「実は、私も不思議に思っていたんですが、……最高裁判事の略歴は、すでにコンピュータで調べてみたんです。ところが、今おっしゃった5,6人も、弓畠耕一長官と同じで、戦争中が空白だったんです。皆が一斉歩調というのは不自然ですね」
「理由は簡単です。出所が同じだからです。『司法大鑑』という本が出典になっています。法曹会という司法関係者の団体が出版しているんですが、原稿は各級の裁判所の人事課から出ています。最高裁は人事局人事課です。だから、同じ基準になるのは当然です」
「なるほどね。私は2.26事件の裁判ぐらいしか知りませんが、法務官というのは、司法資格、戦前なら高等文官試験の司法科合格というのが必要だったんでしょ。立派な法律家の経歴ですよね。階級も将校だし……。戦後に司法試験を通って裁判官になった人の場合は、司法研修所を出てすぐの判事補から経歴に記入されていますから、バランスとしてもおかしいですね」
「さあ、正確なことは分かりませんが、ともかく戦後の司法については、戦争犯罪の追及がなかったのが基本的な問題点だといわれています」
鶴田はつと立ち上がった。
「ちょっと失礼」
達哉は、鶴田が長話を避けたがっているのかと思い、〈お忙しいところを……〉といいかけたが、そうではなかった。鶴田は奥の本棚から3冊の大型本を抜き出してきた。
「これは、弁護士としても有名な橋場大作さんの資料集です。橋場さんは海軍の法務中佐だったんですが、これは橋場さんが戦後も隠し持っていた資料なんです。しかし、談話の部分ではフィリピン方面軍での〈軍律会議でゲリラ十数名全員を死罰に処した〉とか〈ゲリラに対しては司令部も厳罰方針だった〉などと語っているのに、それに当たる資料や判決文は収録されてないんです。日本軍内部の事件の判決文はあるんですが、占領地での現地人に対する判決文は残ってないのでしょう。その説明はありませんが、私は、その分を焼き捨てたのだと思います」
鶴田は『軍律会議関係資料』と『軍事警察』という資料集も広げて、達哉に要所を指摘した。南京大虐殺で有名な柳川兵団の法務官が残した「法務部陣中日誌」も収録されていた。それらにも同じ傾向が見られるのだった。
「それにしても」達哉は相槌を打った。「東京裁判が終わるまでは、関係者は生きた心地がなかったでしょうね。少しでも資料を隠し持っていたというのは、度胸のある方じゃないですかね。それに、自分の仕事へのなんらかの思いがあったんじゃないでしょうか」
「いずれにしても司法界は、戦中戦後の実態が充分に解明されていない点では最右翼といって良いでしょう。それと……」
鶴田は眉根を寄せて腕を組んだ。
「なにも証拠資料がなくて、かえって問題なのが、憲法第九条の存続か改訂かをめぐる見解です。これは現行憲法の最大の争点なんですが、弓畠耕一はこの問題ではアンケートへの回答をしておらず、論文でも触れていません。態度表明を逃げているといわれていますが、最高裁でこの問題を含む事件を担当するときには正体を現わすでしょう。噂では弓畠耕一の人脈に憲政党幹事長で元検事総長の清倉誠吾がいることから、隠れタカ派と目されています。清倉誠吾は右派の法律家を集めた憲法研究会のボスです。西ドイツに見習って日本も実状に憲法を合わせなければ、国論が割れたまま青少年の法意識が混乱する、と主張しています。弓畠耕一も、彼の法社会学の理論を延長すると、同じ結論に到達するはずなんです」
「つまり、理論的には改憲論に荷担する可能性が高い、ということですね」
「そうです」
鶴田はキッパリいい切る。
「アンケートへの回答を逃げているのは、かえって怪しい証拠と見るべきでしょう。……あっ、そう、そう、アンケートといえば……」
立ちあがった鶴田が引っ張り出してきたのは、アムネスティ・インタナショナルの死刑制度に関するアンケートへの回答集であった。
「弓畠耕一は東京高裁長官時代に微妙な文学的回答をしています。〈死刑判決は、いつ開くか分からないタイムカプセルのようなものだ。死刑囚にとって、この世は煉獄である。執行が延期されていても、すでに罪は定められ、罪人は罰せられ続けている〉……タカ派の厳罰主義と見られていた人なので、これは意外だと当時噂にのぼったものですよ」
達哉は次に、最高裁の図書館に行くことにした。弓畠耕一自身が書いた論文や判決の原文に目を通してみたかったのである。
〈3年をかけて1974年4月に完成。地上5階、地下2階……〉
智樹のヒミコで呼び出して見たばかりのデータバンクの資料要約だが、日付を容易に記憶できたのは、ちょうどその時分に最高裁と関わりを持っていたからである。
1970年代のはじめに、最高裁が司法修習生の思想調査をして裁判官への任官を拒否したり、現職裁判官の再任を認めなかったりする事例が続発した。青年法律家協会、略して〈青法協〉への加盟が法の中立を犯すというのが最高裁事務総局の見解であった。達哉は、この件での最高裁への抗議デモを取材したことがあるのだった。その頃の最高裁は移転前で、霞ヶ関の堀端、警視庁の向かい側にあった。今は法務省が使っているが、東京駅と似た名建築の赤レンガのビルである。取材のついでに図書館を利用した経験もある。
今の最高裁が〈石の砦〉といわれるのも無理はない。鉄筋コンクリートを花崗岩で覆っているのだが、わざと表面を磨かずに、自然めかした岩肌を露出している。シルエットはいやに角張っている。古代的とも中世的ともつかないが、やはり〈城郭〉という感じがする。威圧感がある。権力の砦というデザインである。
「図書館に行きたいのですが」
とガードマンにいうと、守衛の詰め所を指差された。しかし、守衛の返事はつれなかった。達哉の背広の襟を見ながら、
「弁護士さんか大学の先生でしょうか」
「いえ、もの書きです」
「一般の方は利用できません」
「えっ、前に利用したことがありますが」
「前のことは知りませんが、今はできません」
「そんな勝手な」達哉の持ち前の意地っ張りが、ムクムクと頭を持ち上げてきた。「理由を聞きたい。はいらせてもらえますか」
「はい。それでは一応、図書館の受付で聞いてみてください」
守衛は達哉に、面会の申込書に記入するよう求めた。
「ここに面会の相手のサインと判をもらってきてください」
図書室の受付には、貴族の執事を思わせる白髪混じりの無表情な中年の係員が塑像のように座っていた。達哉は最初と同じ頼みを繰り返す。
「図書館を利用したいのですが」
「資格をお持ちですか」
その声はいかにも冷たく、不心得者をたしなめるかのように機械的に響いた。達哉は、その声のくぐもり具合で、あらためて最高裁の巨大な洞窟の構造を実感した。吹き抜けの天井がやたらと高い。空気も心なしかひんやりとよどんでいる。〈あの世の入口みたいだな。そうだ。ここは閻魔の庁の入口だったんだな〉と思いつつ、
「いえ、もの書きです。日本の裁判制度について勉強しているんですが」
「利用できる方は、司法資格をお持ちか、大学の教授ということになっています」
「前に利用したことがあるんですがね。そのときには、そんな制限はありませんでしたよ。なにか新しく規則でも作ったんですか」
「一応、図書館利用に関する事務要領、というのがあります」
「それはなんですか。最高裁の規則制定権に基づく規則ですか」
「いいえ、そんな大袈裟なものではないと思いますが」
「見せてもらえませんか」
「外部の方にお見せすることはできません」
達哉の胸の中をスウッと冷たいすき間風が吹き抜けた。
〈こん畜生奴!〉……ふと、いたずら心が起きた。
「残念でした。あなたと論争しても仕方ないので、図書館はあきらめましょう。ところで、来たついでにうかがいますが、何年か前に東京高裁の判事がここの正面ホールで飛び下り自殺をしたでしょ。あれは、どのあたりになりますか」
達哉は高い天井を見上げながら、持ち上げた右手の人差し指をぐるりと泳がせた。すると、塑像のような受付の係員の上半身が、急にぐらりと揺れた。手がわなわなと震えている。青鬼のように土気色だった顔に、サッと赤みがさした。係員は声を荒らげた。
「あなたはなにをおっしゃりたいのですか。なんの目的で来たのですか。出てってください。すぐに出てってください」
達哉は、係員の突然の態度の変化に驚いた。そして、自分でも意識せずに声を張り上げて、こう尋ねていた。
「あの判事さんは、あのとき、この図書館に来ていたんですか」
「関係ありません。あの事件と図書館とはなんの関係もありません」
係員の声は、悲鳴に近かった。
その声は巨大な空洞に何度もこだました。なにごとかと驚いたガードマンが、革靴の足音をカッカッと響かせて飛んできた。
困ったことになるかと心配したが、今度は、受付の係員の方がオドオドしている。
「なんでもない。なんでもない」と繰り返して、ガードマンを引き取らせた。
達哉はもう一度、静かに尋ねた。
「正面ホールを見たいんですが、どう行けば良いんですか」
係員は無言で、たった今飛んできたガードマンが立っている方角を指差した。
「あそこで聞いてください」
ガードマンに尋ねると、今度は、面会の申込書を見せろという。見せると、目的が違っているから、もう一度外へ出てはいり直さないと駄目だという。再び受付で今度は広報課に取材を申し込む。すると、広報課員が出てきて、まずパンフレットを寄越した。
パンフレットでは、正面ホールではなく、ただ、大ホールという名称になっていた。
「もっとも、ホールというのは、ここしかありませんから」
広報課員は迷惑そうな顔をしながらも、そう説明し、つき添ってきた。
大ホールの広さは890平方メートル、約270坪である。採光用のレンズ型の窓が教会のステンド・グラスを思わせる。右手には小さな青銅の像が立っていた。ギリシャ神話に由来し、ヨーロッパではどこの裁判所にもあるという正義の女神像である。持っている秤が正義の象徴だというのだ。
「日本の庶民感覚だと、桜吹雪の入れ墨なんでしょうがね」
ヘソ曲がりと知りつついう達哉に、広報課員は苦笑で応えるばかり。さらに追い打ちをかけて、
「ハハハハッ……。そうもいかないでしょうがね。しかし、これじゃあ、まるでヨーロッパの植民地の裁判所みたいですよ。それで……、海老根判事が墜落したのは、どのあたりですか」
「………」
広報課員は突然、石のように黙りこくった。固い沈黙は達哉が通用門を出る最後まで続いた。