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「長官の消息が判明するまで漫然と待っているわけにはいきません。一応、最悪の事態を想定して動いてます。殺人事件と仮定して、捜査の常道は押さえておきませんとね」
警視庁特捜課の小山田昌三警視は、所轄署採用の警官からたたき上げたベテラン刑事だから、いつでも原則を忘れない。
「周囲にも気づかれてはいけないという特殊な状況ですから、要点を絞った捜査活動にならざるを得ません。まずは仕事上で恨みを買うようなことがあったかどうか。この点は最高裁事務総長と秘書課長に洗ってもらいました。被害者が裁判で、その種の粗暴な犯人を裁いたという事実はなさそうです。人事問題で恨まれることはあったかもしれないが、相手は裁判官ですから、手荒なことはしないだろうといわれました。もっとも、私どもとしては裁判官だけを特別扱いにするわけにはいきませんが……」
小山田はここでひと息入れ、ニヤリと白い歯を見せた。
「次に本来なら、被害者の遺産を相続する家族のアリバイを確かめることになっています。先入観で捜査が偏らないように対象者全員に当たります。いや、こんなことは皆さんの前であらためていうことではありませんが、一応、確認のため」
「いえいえ、結構ですよ」
議長役の秩父冴子審議官がにこやかに受ける。
「大事なことです。初心忘るべからず。皆さんも小山田デカ長から直々の訓示を待っていたところですよ、ね。これがないと気が引き締まりません」
《お庭番》チームだけの打ち合わせである。お互いに何度か一緒に危険な仕事をした仲だから、気心は通じている。性格に違いはあるが、仕事にかけてはいずれ劣らぬ一匹狼の職人肌で、事実をゆるがせにはできないという共通点があった。
冴子の元にNTTに依頼しておいた最高裁長官官舎の電話盗聴テープが届いた。それを聞いたあと、弓畠耕一の息子の唯彦からの電話の内容が議論の焦点になっていた。
「どうやら」小山田は先を急ぐ。「息子さんは長官になにか頼んでいたらしい。奥さんは〈まだですか〉といいました。確かになにかありますね。2人がわざと言葉にしないキーワードは、お金……。息子さんの身辺調査です」
小山田は用意してきたコピーを配る。一同素早くめくって斜めに目を通す。
「悪い材料ともいえますが、これだけで嫌疑をしぼるのは考えものです。……説明にはいってよろしいでしょうか」
「どうぞ、どうぞ」
司会役の冴子も小山田の気迫に押されて遠慮気味。小山田の捜査状況報告は警視庁の刑事部でも名物扱いであった。独特の節回しとブラック・ジョークが利いていて〈小山田講談〉とか〈小山田漫談〉とか呼び習わされていた。《お庭番》チームでもすでに数回の実演を経験している。
「ええと、……弓畠唯彦。47歳。早稲田大学政治経済学科卒業と同時にNHK入り。NHKには大型汚職事件の度に、〈あの方の息子さんも〉といわれるぐらい著名人の2世がたくさんおられまして……」
早速のブラック・ジョークである。常に世の中を下から見る癖の小山田の軽口には、キャリア組のほかの3人をギクリとさせる鋭さがあった。小山田はそれを充分承知のうえで、時折、1発放っては一同の顔をニヤリと見回すのである。
「つい後ろを振り返ってしまいますよ」
絹川が半畳を入れる。
「この部屋の中ならなにをいっても結構ですよ」
部屋の主の冴子が胸を張る。
「続けます。唯彦は報道局政治部に配属され、国会記者となる。そのときの上司は現会長の岡由太郎、通称〈岡っ引きの与太〉または〈オカヨタ〉。本人は〈時々ヨタを飛ばすからだろう〉ととぼけるが、警察ネタをつかむのがうまかったのと与太者風の強引さが命名の理由らしい。オカヨタは、政治家に取り入り、著名人の二世を手なずけ、悪評ふんぷんながら現在の地位を得るに至った。その間、弓畠唯彦は3年前に高知支局に配転。どさ回り配転の原因に酒乱癖と上司への反抗を挙げる同僚もいるが、当方の内部資料によれば、マリファナ乱交パーティー参加で逮捕され、オカヨタが警視庁と取り引きして貰い受けている。2年前には、高知市の郊外で自家用乗用車を運転中、信号待ちのタクシーに追突。高知県警のテストで、呼気1リットル中0.7ミリグラムのアルコールを検出。追突されたタクシーは空車で双方とも負傷はないが、タクシー運転手、57歳の訴えによると、〈事故の直後に双方が車から降りた。話し合おうとしたら、いきなり胸倉をつかまれた。警察に行ったら仕事ができないようにする、おまえの会社も潰してやる、などと脅かされた。酔っ払っているのはひと目見て分かったが、柄は悪いし、口調もヤクザっぽいので、てっきりどこかの組のものだと思った。示談にするにしても相手が悪いと思い、困っているところへパトカーが来たので助かった〉。パトカーは、たまたま現場を目撃したタクシーの無線通報により、急行したものである」
「いやはや、大変なお坊っちゃんですね」絹川が合いの手を入れた。「しかし、その事故は中央紙に出ましたか。私はマスコミ関係の事件に興味があって、昔から切り抜きをしてるんですが、気がつきませんでしたね」
「いえ、まったく報道されていません。一応、事件報道関係のデータベースでも確かめました。地方紙にも載っていませんでした。県警は記者クラブで発表したんですが、新聞も放送も、報道を見合わせたようです」
「例の、マスコミ仁義って奴ですね」
「そういうことらしいです」
「記者クラブ仲間の相身互い。それで、警察の方は詳しく調べていますか」
「調べています。これも、警察と記者クラブの相身互いがありまして、警察は一応事実をすべて握っておく必要があります。そうしておけば、今度は警察の不祥事があったときに、いやあ、あのときは記事にしなかったね、といえる関係になります」
「ハハハッ……。どこも同じ風景ですね」
「ところが、後日談があるんです」
小山田はコピーをめくって一同に示した。
「預金はこの三星銀行だけです。1年前から毎月月末に25万円の自動振り込みが現われ始めました。相手は事故の被害者です。現地所轄署に頼んで、被害者から聞き出してもらいました。罰金とか、追突したタクシーの修理費や慰謝料は知れたもんでした。しかし、事故直後にはなんともなかったタクシーの運転手が、1年後に鞭打ち症になりまして、仕事ができなくなった。労災保険の手続きを取ったものの、この1年の遅れが響いてなかなか埒があかない。憤慨した同僚がNHKの支局に乗り込んで弓畠唯彦に補償を求めたところ、意外にも素直に応じ、休業補償に相当する金額、毎月25万円を完全治癒に至るまでの約束で支払い続けている」
「なるほど。経済的動機、……もしかすると父親への頼みというのは、そのための援助かもしれませんね」
冴子がまとめにかかった。
「だけど、先刻の電話の話しっ振りは、親を誘拐してとぼけてるって感じではないですね。ちょっと無理があるんじゃないかな。しかも、本人は高知にいるんでしょ」
絹川が疑問を投げかけるが、小山田の報告はまだ続いた。
「最後の話は、出がけに分かったばかりです。三星銀行の預金口座には、1ヶ月前に2400万円余りの振り込みがありました。振り込み人はNHK」
「えっ……」
一同膝を乗り出す。
「NHKセンターの人事部に友人と称して電話を入れました。すると、〈お辞めになりました〉という答えなんです。2400万円余りの金は、まず間違いなしに退職金ですね。本人は1ヶ月前から東京にもどっているんです。NHKの同僚だった男が社長をやっている音楽プロダクションがあって、そこにはいったらしいんですね。場所も電話番号も教えてくれました」
続いて智樹が、達哉から電話連絡を受けたばかりの最高裁での一件を簡略に報告した。達哉との協力関係は前からのことなので、一同は承知していた。
「係員の動揺があまりにも異常だったというのが風見の報告ですが、弓畠耕一の関係事件資料と、自殺した高裁判事、海老根毅の資料を調べられませんか。それと、最高裁図書館の蔵書なんですが、……あそこは国会図書館の分館になっていますので、その部分のデータベースはあります。しかし、最高裁独自の持ち出し禁止資料があるらしいんですね。それが分かれば……」
「絹川さん、どうでしょう」と冴子。
「いいですよ」と絹川。
「しかし、影森さんのお考えはこういうことでしょうか。つまり、海老根判事が最高裁の図書館でなにかを調べていた。その資料に長官失踪の秘密を解くカギが隠されているのではないかという……」
「あくまで仮定の話ですがね」
「だとすると、なにかあったとしても、すでに秘匿された可能性が高いですね」
「はい。しかし、それ以前に作られたリストがあったとすれば、そう簡単に差し替えることはできないでしょう」
「はい。それでは」
絹川は軽く引き受けたが、ほかにもなにかまだ腑に落ちないことがある表情。そういうときの癖で、針金細工を思わせる右手が宙に浮き、太極拳のようにゆるやかな動きを見せ始めていた。
「絹川さん、なにやら、腹に一物、手に荷物……みたいですが」
冴子に指摘されて、絹川は自分の手の動きに気づき、ニヤリと照れ笑い。
「いやね。その、……息子さんなんですがね。色々と問題はあるにしても、一番身近な直系親族であることには変わりない。だから、協力を求めてもおかしくはないでしょ」
「東京にもどっていることですし……」
小山田が乗り出した。
「そういうことなら、私が直接当たっても構いませんね」
「そうですね」と冴子。「ことは急を要していますから、ご異議なければ」
音楽プロダクション〈クレセントG〉の事務所は、新宿コマ劇場のすぐそば、雑居ビルの2階にあった。
弓畠唯彦は小山田が差し出した名刺を見て、一瞬ギクリと固い表情を見せたが、隣の喫茶店で話をしようと丁重に誘った。
「どうも、こんなところで済みません」
「いえいえ、こちらこそ突然お訪ねして……」
小山田はとまどっていた。予想と違って大変に人当たりの良い人物である。酔っ払って年上のタクシー運転手を脅すようなヤクザ記者とはとうてい思えないのだ。顔写真で見た父親とも似ていない。父親は丸顔で浅黒いが、唯彦は細めの卵型で色白である。穏やかな物腰。猫をかぶっているのか、それともなにかの間違いではないかと、目をこすりたくなるような気分であった。どう切り出そうかと迷っていると、唯彦が、
「コーヒー……ホットでいいでしょうか」
「はい。結構です」
「ホット2つ」と注文して、「早速ですが、どういうご用件でしょうか。ちょっと急ぎの仕事を控えていますので、前置きはいりませんから、ご遠慮なくどうぞ」
と催促する。小山田は腹を決めて、単刀直入に本題にはいった。
「実は、……長官が行方不明でして、今日で4日目になります」
「えっ」声をひそめる唯彦。「しかし、昨晩母に電話したばかりですが……」
「はい。しかし、ご夫人からの連絡で、目下、小人数で秘密裡に調査中なんです。ついてはご協力をお願いしたいのですが」
「もちろんですが……」
「なにか心当たりのことはないでしょうか。なんでも結構です。今のところ、手がかりは中年の女性の電話があって出かけられた、ということだけなんです。思い出せることがあったら、なんでも構いません」
「いやあ、弱りましたね。私はこのところ父とは直接会ったことも、電話で話したこともないんです。恥を申すようですが、ちょっと……」
「一応、身上調査はさせていただきました」
「そうですか。警察庁の全国オンラインの犯歴データベース……」
「はい」
「金融機関の信用調査の方も……」
「はい。最近の特別な出費の理由も」
「犯罪の裏に金と女。捜査の基本ですね」
「ハハハッ……。良くご存知で……」
「そちらで全部知っていらっしゃれば、かえって気が楽です」
唯彦の肩がすうっと下がり、「フウッ……」低く溜息を漏らす。やはり構えていたのだろうか。膝を組んで楽な姿勢を取る。
「親爺とは、敬してのち、自ら遠ざかるに如かず、という感じでしてね。分かりますか」〈遠ざかる〉の〈か〉に力がはいっていた。〈遠ざける〉のいいかえをわざと強調しているのだ。
「分かりますよ」
「ご存知のとおり、私は失敗が多い人間です。完璧居士の親爺とは子供の頃から肌が合いませんでした」
「よく叱られたとか……」
「いえ、……声に出して叱るということは、ほとんどありませんでした。態度で分かるのですが、それがかえって恐ろしかったですね」
小山田は思い切って肉迫することにした。自分の方も本音をさらけ出す〈口説き尋問〉は、小山田警視こと、元デカ長刑事の最も得意とするところだった。
「裁判官という職業もそうなんでしょうかね。私らの世界では、警官と教師の子供はぐれやすいといわれていますが。おっと失礼、ぐれるなんて申し上げて」
「いえいえ、結構ですよ。私も危うく前科者の烙印を押されかけたんですから」
「警官と教師の共通点は、むっつり助平ともいわれていましてね。職業柄、二重人格の偽善者になりやすいんです。それが子供にも響くんでしょうね」
「今風にいえば、親子関係のストレスが溜まりやすい職業だということでしょうか。裁判官の場合はもっと内にこもって隠微になるのかもしれませんね。そのうえに、私の場合には学歴コンプレックスもあります。親爺は昔のいかめしい名前でいうと東京帝国大学出身の司法官ですが、私は私立大学出の無資格人間です。私よりは妹の方が勉強家でしてね。私が2度落ちて諦めた東大に現役で受かって、教養学部、これも学内での成績が良くないとはいれない学部らしいんですがね、そこで国際関係論を専攻してから外交官試験に合格しました。司法試験と外交官試験はエリート資格の典型ですから、私は家庭内で典型的な秀才2人からはさみ打ちに合ったわけでして、ハハハハッ……」
「それは大変な目に合われた。いや、失礼」といいつつも小山田はつい大笑い。「ハハハハッ、ハッハッ……」
「ところで」唯彦は腕時計を見る。「そんなことで、お役に立てそうもありませんが」
「いやいや、最近のことでなくても、ヒントになることがあればなんでも聞きたいんです。ほれ、……先ほどの、金と女、その次に怨恨ですね。古い話になにか意外なヒントがあるかもしれませんから」
「別に逃げるわけではありませんよ。親が行方不明とあっては、本当なら仕事も放り出して、協力どころか先頭に立たなければならない立場です。そうですね」唯彦は手帳を取り出した。「今晩、いかがでしょうか。6時ならなんとかなります」
「結構です」
「それじゃまた。6時頃に事務所をのぞいてもらえませんか」
喫茶店を出てから、小山田は唯彦の後ろ姿を見送った。
フォーマルな背広だが、当然、仕立て物であろう。ぴったりと体に合っている。歩き方もしなやかで、俳優の演技のようだった。唯彦の姿が〈クレセントG〉の事務所がある雑居ビルの階段に消えるのを見やりながら、小山田は自分自身を相手につぶやいていた。
〈なに……。演技だと。妙な言葉がひらめいたものだな、デカ長刑事さん〉