第3章:神話の政治的利用
電網木村書店 Web無料公開 2000.4.7
第2節:
フランスのイスラエル=シオニスト・ロビー 2
[悪辣な法律に潜むフランス人全体の奴隷化]
この悪辣な法律が残した爪痕の一つは、ジャック・シラクが一九九五年七月一六日の日曜日に行った発言である。この発言は、国民の統一を解消し、かつ放棄する共謀のための、われわれの歴史の中での、重大な瞬間として記録されるべきである。その時、わが共和国の大統領は、こう言明したのである。
《占領者の犯罪的な狂気を、フランス国民とフランス国家が補佐した》
この発言は、フランスに対して二重の犯罪を犯している。
●まず最初に、[ナチス・ドイツに協力した]ヴィシイを、フランス国家として語り、ヴィシイに正統性を与えた。
●さらにはフランス国民を、占領者に奉仕した奴隷的な指導者たちと混同することによって、フランス国民を卑しめた。
これと同じ方法で、シオニズムの考え方を公式化するために擁護したのが、ベルナール=アンリ・レヴィである。彼は、著書の中で、つぎのように記している。
《これがフランス文化のすべてである。……われわれの過去の下劣な歴史を、一人、一人が、自ら証言するのが、われわれの最も大切なフランスの伝統なのである》
彼は、フランスを
に変えたのはフランス人自身であり、その を、狩り立てて出し切るべきだと説くのである(ベルナール=アンリ・レヴィ『フランスのイデオロギー』81)。当然のことながら、このようにフランス国民を卑しめる議論は、CRIF(フランス・ユダヤ人団体代表評議会)の指導者たちから熱狂的な喝采を受けた。彼らが表明したのは、
であった。恥ずかしいことに、フランスのすべての党派の指導者たちが、公共的機関である『フィガロ』やら『ユマニテ』やらの紙上で、このシラクの裏切りを承認してしまった。
これは、フランスの統一と、すべての人々のレジスタンスの伝統への裏切り行為なのである。
ドゥ・ゴールは、一度たりともヴィシイを国家と見なしたことはない。彼は、『回想録』[日本語訳題は『ド・ゴール大戦回顧録』]に
と記し、 (同前)と表現し、こう語っている。《私は、敵に無条件降伏した政体に正統性はないと声明した》(同前)《フランス固有の政府は存在しなかった》(同前)
ドゥ・ゴールは、一九四〇年三月二八日にイギリス政府と結んだ協定を引用して、すべての分離停戦を否定(同前)し、つぎのように明快に語っている。
《ヴィシイに位置する組織は、それが名乗っている名称(国家)とともに、フランス憲法に反しており、侵略者への屈服に他ならない。……この組織は、フランスの敵の道具でしかなく、道具としてのみ存在を許されているものである》(同前)
ドゥ・ゴールは、戦争中、一貫して、この態度を維持した。一九四一年九月二三日にフランス国民委員会を創設する布告の中で、彼は、こう宣言している。
《一九四〇年一〇月二七日および一一月一二日布告とともに、一九四〇年一一月一六日の付帯宣言を踏まえて、以下のように現局面を判断する。
戦争が続いている結果としての状況下、国民代表の集会や表現の自由が、すべて妨げられている。
フランス共和国の憲法および法律は、首都および全領土内で、敵の活動によるよりも敵に協力する権威の簒奪者によって、これまでと同様に今後も蹂躙され続けるであろう。
多くの証拠によって示されているように、フランス国民の圧倒的多数は、暴力と裏切りによって強制された政体を受け入れるどころか、自由フランスの権威に対して希望を寄せ、ともに戦う意志を表明している。……》(同前)
ドゥ・ゴールは、このように、フランス国民と奴隷根性の指導者たちとを、別個の存在として考え、連帯責任を否定した。
《ヴィシイの指導者たちを個人として非難することによって、フランスを、国家の放棄でしかない政治的策略から分離したのである》(同前)
パリで市民の蜂起を思い起こしながら、彼は、こう書いている。
《敵の勢力圏内にいようとも、われわれの勢力圏内にいようとも、誰一人として知らぬ者はなかった。四年間の圧制も、首都の心を屈服させることはできなかった。裏切者どもは、健全さを失わない身体の表面の、みすぼらしい泡にしか過ぎなかった。パリの街々、家々、工場、アトリエ、事務所、造船所は、銃殺、拷問、投獄、レジスタンスの英雄的な戦いと引きかえに、その自由を取り戻し得たのだ。》(同前)
《最悪の事態に立ち至った時にも、わが国民は、自らを見捨てなかった。》(同前)
以上の歴史的事実を、シラクは、わずかな言葉の中で、シオニスト指導者たちが牛耳るメディアに取り入るために、売春宿の主人よろしく否定して見せたのである。この有様は同時に、彼が、すでにシオニスト・ロビーの餌食となったアメリカに、さらに隷属することを示している。彼は、さらに、シオニスト・ロビーの圧力に屈して、[欧州同盟結成に向けての]マーストリヒト条約への反対を取り下げた。フランスの崩壊と、“国際通商機構”を焼き直したGATT[ガット]というアメリカの強制命令への服従が、こうして確認された。ここに至って、第三世界との関係の根本的な変革によるフランスの独立と、再生の可能性は、ついに破壊された。
[反ユダヤ主義の妖怪で世論を煽る常套手段]
従来と同様に、シオニストは常に、反ユダヤ主義の妖怪を持ち出しては煽り立て、イスラエルに対する絶え間ない脅威が存在しているのだから、イスラエルには援助が必要なのだと、世間に信じ込ませ続けている。イスラエルの不当な請求に仮面を被せるためには、新しい挑発行為を重ねる努力も怠らない。手口は、いつも似たようなものである。[レバノン侵略で]サブラとシャティラの虐殺が起きた時、作家のタハル・ベン・ジェロームは、つぎのように記した。
《別の場所で同時に発生することが、何度も繰り返されると、ついには重要な兆候として理解されるようになる。現在、人々は、ヨーロッパにおける反ユダヤ主義的な暴行事件が何に奉仕し、その種の犯罪が誰の得になるのかを良く知っている。それは今、パレスチナやレバノンの民間人の住民に対する計画的な虐殺を、巧みに隠蔽する役割を果たしている。この種の暴行事件が、ベイルートでの流血の惨事に、あるいは先行し、あるいは続いて起き、あるいは同時に発生していることが確認できる。このテロリストの作戦は、彼らが追求している政治的な目的を、直接的または間接的に成し遂げる能力を見せており、現在までのところでは完璧に、その目的を果たしている。その目的とは、パレスチナ問題についての理解が、いささかでも高まり、同情を呼び始める度毎に、その関心を、そらすことである。この種の組織的な作戦によって、事件の意味が逆転し、犠牲者の方が逆に、残忍な殺人者やテロリストに仕立て上げられている。パレスチナ人を“テロリスト”に仕立て上げることによって、彼らから歴史を奪い、その結果として権利を奪っているのだ。
八月九日のロジェル街での虐殺事件が起きたのは、ありとあらゆる種類の爆弾の豪雨が、ベイルートに降り注ぐ数時間前ではなかっただろうか?
ベヒル・ゲマイエルの暗殺事件が起きたのは、イスラエル軍がベイルートの西部地区に侵攻してから、二時間後のことではなかっただろうか?
しかも、この侵攻作戦は、その一方で、ヤセル・アラファトの法王訪問という画期的なニュースを、片隅に押しやってしまったのである。
カルディネット街で爆弾を仕掛けられた車が爆発し、その翌日には、ブリュッセルのユダヤ教会堂の前で銃撃戦が始まったのは、サブラとシャティラのパレスチナ人キャンプで、史上空前の虐殺が繰り広げられたのと、時期が合致するのではないだろうか?》(『ル・モンド』82・9・22)
われわれは歴史の前例から、教訓を引き出さなくてはならない。世論を型にはめ、人種中心主義の霊感による“情報”で飽和状態にするための組織的な努力が、反ユダヤ主義を育てたのだ。
《ベルリンでは、劇場も、ジャーナリズムも、その他もろもろも、すべてユダヤ人の事業だった。『ベルリナー・ターヘブラット』はドイツで最も重要な日刊紙だった。それにつぐのが『フォジッヘ・ツァイトゥング』だった。前者の持ち主はモッセ、後者の持ち主はウルシュタインで、ともにユダヤ人だった。社会民主党の主要な日刊紙、『フォルヴァェルツ』の編集長はユダヤ人だった。ドイツ人は、新聞のユダヤ人所有を非難した時に、“ユダヤ人新聞”と呼んだが、それは、紛れもない事実だった》(『イスラエルとユダヤ教』93)
[カルパントラ事件の“モンタージュ”と沈黙]
この種の策略の内でも、最も新しいメディア利用の実例が、カルパントラ事件である。
一九九〇年五月、カルパントラのユダヤ人墓地で、墓が荒らされた。遺体の一つが串刺しにされた上で、別の墓に移されていた。
内務大臣のピエール・ジョクスは、直ちに声明を発した。
《このような“人種主義的憎悪”に満ちた犯罪を犯した人物については、警察の捜査が必要ないほど明らかである》
ところが、五年も経って、何十人もの捜査官が掛かりっきりだったというのに、検察官も、警察官も、いまだに誰一人として、この卑しむべき行為を犯した人物について、正確に語ることができないのである。
確かなことは、ユダヤ人墓地が荒らされことと、その後に、“モンタージュ”が行われたということである。なぜなら、数日後に、問題のジェルモン氏の遺体が、串刺しにはされてなかったことを、捜査官が確認したからである。そこでさらに問うべきであろう。誰が、そして、何のために、“モンタージュ”をしたのだろうか? “モンタージュ”された報道は、事件の恐怖を増幅し、世間の憎悪を煽り立てたが、その結果として、誰が得をしたのだろうか?
ティミショアラでは、遺体置き場から遺体を運び出して、写真を撮るという手口が使われた。その写真が世界中に報道され、大量虐殺と称された事件に対する怒りと憎しみを駆り立てた。
評論誌、『エスプリ』の前編集長、ジャン・マリー・ドムナフは、『ル・モンド』の一九九〇年一〇月三一日号に「カルパントラに関しての沈黙」と題する一文を寄せた。
《カルパントラのユダヤ人墓地での冒涜的行為の発生以後、すでに六か月が過ぎた。……六か月経ってもまだ、誰が犯人だったのか分からない。しかも、さらに不安な実情がある。というのは、活字メディアも、音声・映像メディアも、当時はこぞって、この忌むべき事件をスキャンダルに仕立て上げ、何十万人もの街頭デモに火を付け、世界中にフランスの汚名を轟かせたにもかかわらず、以後は、捜査状況を継続して追及せずに、沈黙を守っているからである。国会議員の誰一人として、道徳的または知的な問題の権威の誰一人として、政府当局を詰問していない。カルパントラ事件は、どうやら決定的に、誰が犯人なのか、実際にどんなことが起きたのか、まるで分からないままに、この国の暗い伝説の一つになってしまったようだ。誰しもが、今後、カルパントラについて語ることができず、または、あえて語ろうともしなくなるであろう》
ジャン=マリー・ドメナフが告発した奇妙な“カルパントラに関しての沈黙”は、事件発生当初のメディアの大騒ぎ振りとは、実に対照的である。
一九九〇年五月一四日のデモに関して言うと、警察発表で八万人、主催者発表で二〇万人が、パリの街頭をデモ行進した。ノートルダム寺院の大鐘が、このデモ行進を称えて鳴り響いた。
だが実際には、誰一人として、カルパントラの卑しむべき行為の仕掛け人を知らなかったのである。そうだとすれば、一体、皆は、誰に対して抗議をしていたのだろうか?
誰に対して? 事件の捜査によってのみ、その名を語り得るのだが、捜査当局は何も語っていない。
それでは、誰が得をしたのだろうか?
この疑問への解答は明白である。デモ行進の先頭には、イスラエルの国旗が、輝かしく翻っていたのである。
この奇妙な“国民共同戦線”によるデモ行進の真中で、ジョルジュ・マルシェ[共産党書記長]は、これ見よがしにフランソワ・レオタール[共和党党首]と握手していた。このデモ行進と握手は、結果として、相手が誰であろうとも、すべての国際法の上にイスラエルを置こうとする教義に疑問を投げ掛ける者に対しては、全世界規模の攻撃を加えることを許すものであった。大法師のシトルクは、演説の中で、このデモ行進の意味を定義していたが、つぎのようなことまで大声で語ったのである。
《余計な発言を放置してはならない。“見直し論者”の教授たちや、無責任な政治家に、教訓を与えなければならない。》(『ル・メリディオナル』90・5・14)
カルパントラの卑しむべき事件の真相に関しては、まるで結論が出ていないのだが、実は、捜査官に対して示唆されたすべての手掛かりの内、たった一つだけ排除された事実がある。ところが、この、ある人物に命ぜられた沈黙こそが、実は、最も真実に立脚した手掛かりだったのである。
その人物こそが、最も必要かつ不可欠な証人となり得たのであるが、なぜ彼に対して、沈黙を守ることが命令されたのであろうか?
《カルパントラのユダヤ教会堂の守衛で、墓地の鍵を預かっているクハナ氏は、フェリクス・ジェルモン氏の遺体の第一発見者の一人であるが、われわれと話すことを拒んでいる。〈たとえ、あんたが警視総監だろうとも、私は、何も話すなという命令を受けている〉。長老会議の議長が、彼の発言を禁止したのである。〈彼がテレヴィに余計なことを話すかもしれないからだ〉というのが、フレディ・ハダド博士による弁明である。彼自身も、あの卑しむべき事件を思い出させないように沈黙を守っている。アマル法師の対応振りも、まったく同様である》(『ヴァル・マタン・マガジン』95・4・15)
なぜ、カルパントラの法師は、墓を再び神聖にする儀式を行わなおうとしないのかという問いに対して、
と答えたのだろうか? なぜ長老会議の議長は、 と答え、なぜ市長は、 (以上、同前『ヴァル・マタン・マガジン』95・4・15)と答えたのだろうか?なぜ、どのフランスの日刊紙も、……そっくりそのままだった……前例を、思い出さなかったのだろうか?
実は、一九八四年三月二日の夜中にも、まったく同じやり方の“墓荒らし”が、テル・アヴィヴ近郊のリスホン・レツィオンにあるイスラエル人の墓地で行われていたのである。そこでは、一人の女性の遺体が掘り出され、ユダヤ人墓地の外に捨てられていた。この時も同様に、世界中のユダヤ人社会全体が、“野蛮な反ユダヤ主義の行為”であるという声明を発した。数日後、イスラエル警察による捜査の結果、この下劣な行為の真の意味が明らかになった。
カルパントラと同じように見苦しい扱いを受けた遺体の主は、テレサ・エンゲロヴィッツ夫人で、ユダヤ人の妻だったが、キリスト教徒の血筋だった。ユダヤ教徒の統一主義者たちは、彼女の遺体がユダヤ人墓地に存在することは、墓地の純潔を汚すことになると考えており、すでにリスホン・レツィオンのラビが、その発掘を請求していたのだった。
なぜ、どのフランスの日刊紙も、この類似点を、思い出さなかったのだろうか? ジェルモン氏は、その遺体が、同じように夜中に掘り出され、串刺しという陰惨な“モンタージュ”の対象とされたのだが、彼も同じく、キリスト教徒と結婚していたので“有罪”だったのである。だから、彼の遺体は、その隣の、同じくカトリック教徒と結婚していたので有罪だったエンマ・ウルマ夫人の墓に、移されたのである。
なぜ、誰も、イスラエルで起きたことを、思い出さなかったのだろうか? イスラエルでは、彼らが建国する以前のパレスチナは“荒れ地”だったということを、イスラエル人に信じ込ませるために、ブルドーザーで、何百ものパレスチナ人の町が、家も、塀も、墓地も、墓も含めて、すべて破壊されたのである(前出『イスラエル国家の人種主義』)。
エルサレムのヘブライ大学で、“民主主義の日”の翌日、ユダヤ人の学生たちが、正しい質問を提出した。
《エルサレムのアルゴン通りとテル・アヴィヴのヒルトン・ホテルが、破壊されたイスラム教徒の墓地の跡に作られることを知っていながら、なぜ、あなた方は抗議をしないのか?》(『イスラエル社会主義組織の学生たち/マッペン』)