第2章:二〇世紀の諸神話
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第2節:ニュルンベルグの正義の神話 4
(a)書証‐2
ヴァンゼー会議の書証(一九四二年一月二〇日)
《しかるべき[entsprechender:訳注1]方向を目指して最終的解決の過程にあるユダヤ人は、その労働力を活用するために適当な経路により東部に移送される。大きな労働部隊に編成され、性別によって分けられ、労働が可能なユダヤ人は主要な労働区域で道路建設に当たる。結果として疑いもなく相当数が自然減少するであろう。
最後まで生き残るものは疑いもなく最も丈夫な部分だから、しかるべく[entsprechend]待遇されなければならない。なぜならば、彼らは自然の選択を代表するものであり、彼らの解放は(歴史の経験が示すように……)新しいユダヤ人の発展のための胚種をなすと考えなければならないからである》(トロント裁判記録)
訳注1:「絶滅政策を示唆」と解釈される最も曖昧な表現の部分なので、ドイツ人のシュテークリッヒ判事の大著『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』に引用されたドイツ語原文と英訳を比較対照し、説明を参照した。
アーヴィング……
(同前)ヴァンゼーの覚書き紙片[書証]は、一九四二年一月二〇日に開かれた会議の議事録である。そこには、ユダヤ人問題の解決に関係する行政部の事務官と、実行に当たる部門の責任者が出席していた。だが、この書証では、ガス室も、絶滅も、まるで問題になっておらず、出てくるのは東ヨーロッパへのユダヤ人の移送のことだけなのである。
この議事録は、その上に、[この書証をヴィルヘルムシュトラッセで提出した首席検事]ロバート・M・W・ケンプナー氏の著書、『アイヒマンと錯誤』に掲載されている写真を信用するならば、偽造記録のすべての特徴を備えている。印章がない。日付がない。署名がない。安っぽい形式の紙に、普通の機械[タイプ]で打ったという特徴、などなど[訳注1]……
訳注1:前記シュテークリッヒ判事の著書、『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』によると、これらの特徴に加えて、当時のドイツの公式の議事録では、担当官庁名入り用箋を使用し、ファイル用の連続番号を入れ、会議の参加者が肉筆で署名する習慣だったが、それらがすべて欠けている。
とにかくそこには、ガス室の問題は出てこない。
この議事録のフランス語版では、ドイツ語原文の
の意味は、 と訳した上で、“消去”という用語が"絶滅"[extermination]を意味するという説明を加えている。イギリス語版でもロシア語版でも同じことが起きている。[文化は“根こそぎ除去”、ユダヤ人は“絶滅”]
ところで、ドイツ人は、彼らが・生存圏・と呼ぶ場所からユダヤ人を追い出す決定を、いくつかの同じ意味の別の表現、たとえば、“Ausschaltung”(排除、追放、消去)、またはとりわけ、“Ausrottung”(根こそぎ、根絶やし)などと語ることを好んでいた。この最後の言葉が、絶滅[extermination]と訳されているのだが、[ラテン語源のexterminationはドイツでは使わないので、ゲルマン系の]ドイツ語で、それに当たるのは、Vernichtungである。
「実例」……ヒムラーは一九四三年一〇月四日に、ポーゼンにおける上級軍団司令官(武装親衛隊師団の将軍たち)相手の演説で、こう語った。
《Ich meine jetzt die Judenevakuierung, die Ausrottung des Judischen Volkes……Das judische Volkes wird ausgerotten. etc …》
この後に続く部分で、彼は自分の考えをさらに正確にしているが、そこでは彼は、Ausschaltungという言葉を使っている(ニュルンベルグ裁判記録)。この部分を訳せば、つぎのようになる。
《私は今、ユダヤ人を追放し、ユダヤ人を根こそぎにしようと考えている。などなど……》
ところが、[絶滅論者の]ビリグ氏は、『アイヒマン文書』の三五頁で、この部分を、《私はユダヤ人を追放し、ユダヤ人を絶滅しようと願っている》(同前)と訳し、その上で、
(同前)と説明しているのである。「別の実例」……ローゼンバーグは、一九四一年一二月一六日のヒトラーとの会談のノート(ニュルンベルグ裁判記録)で、
という表現を用いている。一九四六年四月一七日の法廷で、アメリカ人の弁護団長、ドッドは、これを (同前)と訳した。ローゼンバーグは抗議したが受け入れられなかった。しかし、ナチの演説の中にはしばしば、 という表現が出てくるのだが、これは常に、 (たとえば『第二次世界大戦の歴史評論』参照)と訳されている。ユダヤ教(Judentum)とユダヤ民族(das judische Volk)が関係する場合にのみ、“Ausrottung”という言葉は、絶滅を意味し、そのものの全体というだけでなく、それを構成する個々人のすべてを対象とすることになっているのである。一九四二年一月二〇日に開かれたヴァンゼー会議は、三分の一世紀にもわたって、そこでヨーロッパのユダヤ人の“絶滅”が決定されたと称されてきたのだが、一九八四年以後には、“見直し論者”の最も残忍な敵の文章の中ですら、その姿を消してしまった。この点に関しては、彼ら自身も同じく、彼らの歴史の“見直し”をせざるを得なくなっている。なぜならば、一九八四年五月に開かれたストゥットガルト会議で、この“解釈”が、明確に放棄されたからである(『第二次世界大戦の期間に置けるユダヤ人の殺害』)。
一九九二年には、イェフーダ・バウアーが、『カナディアン・ジューイッシュ・ニューズ』の一月三〇日号で、従来のようなヴァンゼー会議の解釈は“馬鹿気ている”(silly)と書いた。
最後には、反見直し論者の正統派歴史家の一番最近のスポークスマン、薬剤師のジャン=クロード・プレサックが、この正統派の新しい見直しを追認した。彼は、一九九三年に出版した著書、『アウシュヴィッツの火葬場』の中で、つぎのように記している。
《ヴァンゼーの名で知られる会議は一月二〇日にベルリンで開かれた。もしも、ユダヤ人の東部への“追放”という行為が、労働による“自然”の消去を呼び寄せる計画だったとしても、誰一人として、そこでは工業的な消去については語っていない。その後の数日または数週間にわたって、アウシュヴィッツの所長は、会議の終りに採用が決まった装置の研究を要請するような電話も、電報も、手紙も、何一つ受けとっていない》(同書)
彼は、この同じ本の『要約年表』の中でも、
と記している。絶滅は訂正された。追放であった。
同じように注目すべきことは、この本の目的が絶滅理論の“立証”に設定されているにもかかわらず、ヴァンゼー会議以後の記録についての議論がまったくない点である。[絶滅理論の信奉者たちの]これまでの説によれば、事態は、ヴァンゼー会議以後、より決定的になったはずなのである。なぜなら、ハイトリッヒに宛てた一九四一年一月三一日日付けのゲーリングの手紙の中の・最終的解決・が意味するものは、“絶滅”であり、ヨーロッパの外への移送ではなかったというのだからである。
トロント裁判でのエルンスト・ツンデルの弁護士、クリスティーは、ヒルバーグの本の六五一頁のつぎの部分を引用している。
《一九四四年一一月、ヒムラーは、あらゆる種類の実務的な理由から見てユダヤ人問題は解決したと決定した。同月二五日に、彼は、すべての殺害装置の撤去を命令した》(ニュルンベルグ裁判記録『クルト・ベッヒャー証言』)
ヒルバーグは、これがヒムラーの命令ではないことを知っていた。
《ベッヒャーは多分、この証言を記憶にもとづいて行ったのであろう。だから彼には、ヒムラーが使った言葉通り正確に伝える必要はなかった》(トロント裁判記録)
またしてもヒルバーグは、ヒムラーがこう語ったと、ベッヒャーが語ったと、語っているのである。……(同前)
ユダヤ人問題の“最終的解決”は、戦争が終らないと解決しないのであって、その証拠となるのは一九四一年夏の『茶色の文書』(Braun Mappe)である。“ユダヤ人問題の解決に向けての命令”の節には、つぎのように正確に記されている。
《東部の占領地域におけるユダヤ人問題に関する措置は、戦争終了後にユダヤ人問題のヨーロッパにおける全般的な解決策が見出だされるまで、実施してはならない》(『ニュルンベルグで提出された東部諸国のユダヤ人虐待』)
[軍需産業の重要任務が課せられていた集中収容所]
以下に述べる焦点の明確化は、決して、ヒトラーの犯罪の軽減を認めることではなくて、最も頑強な絶滅理論の賛成者でさえも無視し得ない明白な事実の指摘でしかない。
ヒトラーは、スターリングラード以後、戦争の最後の二年間、窮地に追い込まれていた。同盟軍の爆撃によって、彼の軍需産業の拠点は破壊され、輸送網は寸断されていた。
彼は、工場を空にしても新兵を動員せねばならず、戦争遂行への致命的な強迫観念に駆られながら、捕虜やユダヤ人を絶滅するどころか、逆に、彼らを工場の作業台に並ばせ、非人道的な条件の下で働かせなければならなかった。[絶滅論者の]ポリアコフでさえも、彼の著書『憎悪の日読祈祷書』の中で、この気違いじみた矛盾を強調している。
《彼らをたとえば、一時的な居留地に囲い込んで重労働に従事させる方が、より経済的である》
ハンナ・アーレント夫人も同様に、この[絶滅]作戦は狂気の沙汰だと指摘する。
《建築資材が欠乏し、物資の供給に苦しむ戦争の最中に、巨大で高価な絶滅計画の設備を作り、百万単位の人員の輸送を組織するに至って、ナチは、有害なまでに役立たずな方向に直進した。……このような[絶滅]作業と、軍事的な強い要請との間の明白な矛盾は、すべての計画に気違いじみた幻想の雰囲気を与えた》(ハンナ・アーレント『全体主義的組織』72)
それにしても、さらに異常に思えるのは、ポリアコフやハンナ・アーレントのような鋭い感覚の持ち主までもが、この点に関しての「ア・プリオリ」の下で意識朦朧となり、彼らの非現実的な仮定自体を、再検討しようともせず、記録と事実に立ち戻ろうともしないことである。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ複合収容所には、ファルベン産業(化学)、ジーメンス(輸送船)、ポートランド(建設)の強大な工場があった。モノフィッツ(アウシュヴィッツに隣接する収容所の一つ)では、一万人の収容者と、一〇万人の民間労働者と、千人のイギリス人の捕虜が働いていた(『ポーランドにおけるドイツの犯罪』46)。
一九四二年から一九四四年の間、アウシュヴィッツの三九か所の衛星収容所の内、三一の収容所で収容者を労働力として使用しており、その内の一九収容所ではユダヤ人が主力だった。
一九四二年一月二五日には、ヒムラーが、集中収容所の総監たちに向けて、つぎのような命令を下していた。
《一〇万人のユダヤ人の受入れ準備をされたい。……近々、集中収容所には、重要な経済的任務が課せられる》(ニュルンベルグ裁判記録)
一九四四年五月には、ヒトラーが、ジャガー[戦闘機]の建造とトット機関[自動車道路と電気関係のナチ党中央機関。トットは創設者の名]の労働者として、二〇万人のユダヤ人を役立てろと命令した。
一九四三年一二月一八日付けの親衛隊WVHA[財務・管理本部]の命令では、良く働いた収容者……ユダヤ人も同様……に対して、ボーナスの支給を命じている(『アウシュヴィッツ博物館センター資料』62)。
以上のように、そこには、いささかも、“気違いじみた幻想”などは存在しておらず、その真反対の無慈悲な現実主義が支配していた。しかも、このことこそが、“絶滅論者”の理論に対する補足的な反証を構成するのである。