『偽イスラエル政治神話』(11)

第2章:二〇世紀の諸神話

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第1節:
シオニストによる反ナチズム運動の神話 2

[取り引き相手のナチを救ったシオニスト]

 ハレヴィ判事は、アイヒマン裁判の際に、カストナーが、彼の取り引き相手だったナチを救うために裁判の邪魔をしたと指摘した。ニュルンベルグ裁判でのカストナーの証言によって、ヒムラーの手先で騎兵将校のクルト・ベッヒャーが処罰を免れていたのである。

 判事は明言する。

《カストナーの証言には真実がなく、誠実さが見られない。……カストナーは法廷での証言で、ベッヒャーのために裁判の邪魔に入ったことを否定した際、意識的に偽証をしている。その他にも、彼は、重大な事実を隠していた。ベッヒャーのための彼の出廷手続きは、ユダヤ機関および世界ユダヤ人評議会の要請によるものだった。……カストナーを出廷させる推薦状が、彼自身によるものではなくて、やはり、ユダヤ人機関および世界ユダヤ人評議会によるものだったことは、明白である。……だから、同盟国は、ベッヒャーを釈放したのである》

 アイヒマン裁判の終了後、イスラエルの世論は沸騰した。日刊紙の『ハアーレツ』の一九五五年七月一四日号では、モシェ・ケレン博士が、《カストナーは、ナチとの協力に関して告発されるべきだ。……》と書いた。だが、夕刊紙の『イディオット・アハロノート』(55・6・23)では、それが不可能だという事情を、つぎのように説明していた。

《もしもカストナーが裁判に掛けられたなら、その審議の場で暴露される事実によって、統治機構全体が国民の目の前で崩壊する危機を招くだろう》

 暴露されると危険を招く事実とは、カストナーの行動が彼の独断によるものではなくて、まさしくその審議が行われていた時期に閣僚の椅子を占めていた別のシオニストの指導者との、同意の下に行われたという経過であった。カストナーの発言と醜聞の破裂を避ける唯一の場面転換は、カストナーが姿を消すことだった。彼は実際に都合良く、裁判所の階段の上で暗殺されて死に、その後、政府が最高裁に、彼の名誉回復の請求を行った。この請求は認められた。

[ロンメル戦車軍団と呼応する協力作戦を提案]

 シオニストとナチの政治的協力関係は、一九四一年にその絶頂期を迎えた。その当時、シオニストのもっとも過激な集団、“レヒ”(“イスラエル解放戦士団”)を率いていたアブラハム・シュテルンが死んで、その跡を継いだ三頭政治の一角をイツァク・シャミールが占めた。そのシャミールは、《道徳的観点から見て許し難い犯罪、すなわち、イギリスに敵対し、ナチス・ドイツのヒトラーとの同盟を唱導するという犯罪》(『ベン=グリオン/武装した予言者』)を犯していた。

 グエヴァのキブーツのメンバーで、著名な労働組合指導者、エリーゼル・ハレヴィ氏は、テル・アヴィヴの週刊紙『ホタム』(83・8・19)の掲載記事で、以上の犯罪の存在を証明する文書を暴露した。その文書には、イツァク・シャミール(当時はイェゼルニツキと名乗っていた)とアブラハム・シュテルンの署名が入っていた。届け先はアンカラのドイツの大使館であり、その時期にはヨーロッパで激戦が続き、ロンメル元帥が率いる戦車軍団がすでにエジプトに侵攻していた。文書の特筆すべき部分は、つぎのようである。

《われわれはあなた方と同じ考えだ。ではなぜ、お互いに協力し合わないのか?》

『ハアーレツ』紙は一九八三年一月三一日号で、「秘密」と記された手紙を紹介した。その手紙は、アンカラに派遣されていたヒトラーの使節、フランツ・フォン・パペンが、彼の上司宛てに出したもので、シュテルン集団のメンバーとの接触を物語っていた。添付のメモは、ダマスカスにいたナチの秘密情報部員、ヴェルナー・オットー・フォン・ヘンチッヒによるもので、シュテルンとシャミールの密使との合議が記されていた。特筆すべき部分は、つぎのようである。

《イスラエルの解放運動と、ヨーロッパの新しい秩序とが共同作戦を行うことは、イギリスを孤立させ撃破するために、あらゆる協力関係を結合して活用することの重要性を強調した第三帝国の総統、ヒトラーの演説の内容と一致する》

 これらの文書は、エルサレムのホロコースト記念館(ヤド・ヴァシェム)に収められており、分類番号はE234151ー8である。

 実際にシュテルン集団の司令官の一人だったイスラエル・エルダッド氏は、テル・アヴィヴの日刊紙『イディオット・アハロノート』の一九八三年二月四日号に掲載された記事の中で、彼らの運動体とナチス・ドイツの公式の代表との間での合議があったのは確かだと断言した。

 彼は、彼の仲間がイスラエル解放戦士団(シュテルン集団)を代表して、ドイツの考え方にもとづくヨーロッパの新しい秩序との利害の一致と、パレスチナのユダヤ人の熱望をナチに対して説明したことは確実だと、率直に認めた。文書の題名と主要な内容は、つぎのようである。

《パレスチナ民族解放戦士団(NMO、イルグン・ツェヴァイ・レウミ)のヨーロッパにおけるユダヤ人問題解決とNMOのドイツ側に立つ戦争への積極的参加の基本原則》

《ドイツの国家社会主義国家の指導者の演説から察すると、ユダヤ人問題の根本的な解決のためには、巨大な人口からなるヨーロッパのユダヤ人の移送(Judenreines Europa)が必要になってくる。

 このヨーロッパのユダヤ人の巨大な人口の移送は、ユダヤ人問題を解決するための基礎的な条件であるが、その条件を満たす方法は、この巨大な人口をパレスチナ、すなわち、歴史的な境界を持つユダヤ人国家に配置すること以外にない。

 ユダヤ人問題を決定的な手段で解決し、ユダヤ民族を解放することこそが、“イスラエル解放運動”(レヒ)とその軍事組織、パレスチナ解放戦士団(イルグン・ツヴァイ・レウミ)の、政治的活動と長年の戦いの目的である。

 NMOは、ドイツ内部のシオニストの活動に対するドイツ政府の好意的な立場と、シオニストの移民計画を熟知しており、つぎのように評価している。

(1)ドイツの考え方にもとづくヨーロッパの新しい秩序の建設と、レヒに体現されているパレスチナのユダヤ人の掛け値のない熱望との間には、共通の利害が存在し得る。

(2)新しいドイツと再生するヘブライ国家(Volkisch Nationalen Hebraertum)との間の協力は可能である。

(3)国家的かつ全体主義的で、ドイツと協定で結ばれる歴史的なユダヤ人国家が確立するならば、将来において、ドイツの中東での立場を維持し強化するために役立つ。

 ドイツ政府が、以上の民族的な熱望を承認するという条件の下で、“イスラエル解放運動”(レヒ)と、パレスチナ民族解放戦士団(NMO)は、ドイツ側に立つ戦争への参加を申し出る。

 イスラエル解放運動の協力は、ドイツ総統のヒトラー氏が最近の演説の中で、その重要性を強調したような、イギリスの孤立化と撃破に向けての、あらゆる交渉と同盟の強化の方向に添っている。

 その組織構造と世界観に基づいて、NMOは、ヨーロッパの全体主義運動と緊密に連携している》

(この文書の原本はドイツに保存されており、デヴィッド・イスラエリ著『一八八九年から一九四五年の間のドイツの政策の中でのパレスチナ問題』の付録として収録されている)

 この問題に関して十数本の記事を載せたイスラエルの報道によれば、ナチは一度たりとも、このシュテルン、シャミール氏とその仲間の提案を、真剣に検討していない。

 談合自体は、同盟軍の部隊が一九四二年六月、ナチの秘密情報部のダマスカスの事務所そのものの中で、アブラハム・シュテルンとイツァク・シャミールの密使、M・ナフタリ・ルーベンチックを逮捕したために、中断の憂き目を見た。集団の他のメンバーは、一九四一年一二月にイツァク・シャミールが“テロリズムと敵であるナチとの協力”を理由にイギリス当局に逮捕されるまで、接触の努力を続けていた。

 以上のような過去は、イツァク・シャミールが首相となり、現在もなお、最も獰猛にヨルダンの西側の占領継続を主張する有力な“反対勢力”の頭目であることを、いささかも妨げない。なぜなら、これが現実なのであって、シオニストの指導者たちは、互いに内部で競いはするものの、唯一の征服者、唯一の主人になるために、パレスチナのすべての現住のアラブ人を、テロリズム、土地徴用、退去命令で追い払うという人種主義の目的追求に関しては、まったく同じなのだからである。

[人種主義者が夢見た強力なユダヤ人国家の建設]

 たとえば、ベン=グリオンは、つぎのように公言した。

《ベギンは確実にヒトラー型だと思う。彼は人種主義者で、イスラエルの統一という夢のためには、すべてのアラブ人を打ち殺す覚悟を決めており、その神聖な目的の実現に向けて手段を選ばない心構えをしている。》(『メナヘム・ベギン、人となりと伝説』79)

 こう語ったベン=グリオン自身も、アラブ人との共同生活の可能性を信じたことはなかった。彼にとっても、未来のイスラエル国家の国境の中にいるアラブ人が、少なければ少ないほど結構なのである。彼は、明確な発言はしないが、彼の動き方や言葉遣いが発散するものは明瞭である。たとえば、アラブ人に対する大規模な攻勢は彼らの攻撃を粉砕するだけでなく、国内におけるアラブ人口を最大限度に減少させるだろうと、などと言い、さらには、こうも語っている。

《……彼[ベギン]の人種主義を告発するのは容易だが、それなら同時に、シオニスト運動全体の経過をも裁かなければならない。それは、パレスチナにおける純粋なユダヤ人だけの実在を原理として成り立っているのだ》(前出『ベン・グリオン/武装した予言者』)

 エルサレムのアイヒマン裁判では、検事総長のハイム・コーヘンが判事に対して、つぎのように念を押した。

《あなたがたの哲学と一致しないのなら、カストナー[前出のナチとの協力者]を非難しても構わない。……しかし、それは対敵協力と、どんな関係があるのか?……われわれシオニストは伝統的に、パレスチナへの移民を組織する際にエリートを選別してきた。……カストナーは、それ以外のことをしていない》(同裁判記録)

 この高位の司法官は事実上、シオニスト運動の不変の教義を主張したのである。その目的は、ユダヤ人を救うことにではなく、強力なユダヤ人国家の建設にあったのだ。

[パレスチナ移住を強制してユダヤ人をテロで殺害]

 一九四八年五月二日には、“難民”問題を担当するクラウスナー法師が、ユダヤ人アメリカ協議会に、つぎのような報告書を提出した。

《私は、彼らをパレスチナに行くよう強制すべきだと確信する。……彼らにとって、アメリカの1ドルは最上の目標である。“強制力”という言葉で、私は、一つの計画を提案する。……それはすでに役立っている。しかも、つい最近にもである。それはポーランドのユダヤ人の集団移動にも、歴史的な“出エジプト”にも役立ったのだ。……

 この計画を実現するためには、“難民”に便宜を図る代わりに、可能な限り不便な思いをさせなければならない。

 ……つぎの段階の手続きとしては、ユダヤ人をハガナ[ベン=グリオン指揮下のテロ部隊]に呼び出して痛め付け、出て行けがしに扱うことだ》(『イスラエルの値段』)

 このような誘導や、さらには強制の方法は、手を変え品を変え、様々に工夫された。

 一九四〇年一二年二五日には、“ハガナ”(司令官はベン=グリオン)のシオニスト指導者たちが、ヒトラーの脅迫を受けたユダヤ人を救出してモーリシャス島に運ぶというイギリスの決定に抗議し、イギリス当局に対しての憤激をかき立てるために、その輸送に当たるフランスの貨物船、パトリア号がハイファ港に停泊した際、ためらいもなく爆破し、その結果、乗組員のイギリス人と一緒にユダヤ人二五二人が死んだ(『ジューイッシュ・ニューズレター』58・12)。

 イェフーダ・バウアーは、彼の著書、『ユダヤ人は売られたのか?』の中で、このハガナによる“破壊活動”の真相を確認し、被害者の名前を記した。

 もう一つの実例を挙げると、たとえばイラクの場合、ユダヤ人の共同体(一九四八年の人口は一一万人)は、この国に根付いていた。イラクの大法師、ケドゥーリ・サッスンは、つぎのように断言する。

《ユダヤ人とアラブ人は、千年にわたって同じ法的権利と特権を享受してきた。お互いに、この国の中での別々の集団だなどと考えたことはなかった》

 ところが、一九五〇年になるとバグダッドで、イスラエルのテロリストの暗躍が始まった。イスラエルへの移住手続き書類への署名を面従腹背で逃れようとするイラクのユダヤ人に対して、イスラエルの秘密情報機関は、そういうユダヤ人に自分が危険な立場にいるということを納得させるために、ためらうことなく爆弾を投げ込んだ。……シェム・トヴのシナゴグへの攻撃の際には、三名の死者と一二名の負傷者が出た。これが、“アリ・ババ作戦”という別名が付けられた集団移住の始まりだった(『ハオラム・ハゼー』66・4・20&6・1、『イディオット・アハロノート』77・11・8)。

[反ユダヤ主義者が友人、反ユダヤ主義国は同盟国]

 こうした経過の背景にある教義の一つは、テオドール・ヘルツルが定義をすり替えて以来、綿々と続いてきたもので、ユダヤ人を宗教ではなく人種として分ける教義である。

 イスラエル国家の基本法(憲法ではない)の第4条では、“帰還規則”(一九五〇年度五七一〇号)を定めており、そこでのユダヤ人の定義は、《ユダヤ教徒の母親から生れたか改宗した者》(人種基準と信仰告白基準)である(クライン『ユダヤ人国家』)。

 これは、テオドール・ヘルツルが創設した教義の直系そのものである。彼は、この問題に固執しており、早くも一八九五年の『回想録』で、ドイツ人の相談相手、シュパイデルとの対話を記している

《私は反ユダヤ主義を理解する。われわれユダヤ人は、われわれの咎ではないにしても、様々な国家の中に異質の集団として残ってしまったのだ》

 この彼の『回想録』には、いくつかのさらに明瞭な記述がある。たとえば、こうである。

《反ユダヤ主義者は、われわれの最も確実な友人となり、反ユダヤ主義の国は、われわれの同盟国となるであろう》

 この両者の間には実際に共通の目標として、世界規模のゲットーへのユダヤ人の集中があった。眼前の実情が、テオドール・ヘルツルの理屈に材料を与えたのである。

 敬虔なユダヤ教徒は、多くのキリスト教徒と同じく、毎日のように、《来年はエルサレムで》と祈っている。彼らは、エルサレムを、ある限定された場所としてではなく、神と人間との契約、およびその契約を守る個人的な努力の象徴にしてきた。ところが“帰還”は、異国で生じた反ユダヤ主義の迫害の刺激によってしか、引き起こされないのである。

 ベン=グリオンは、一九四九年八月三一日、イスラエルを訪問したアメリカ人の集団に対して宣言した。

《確かに、われわれは、ユダヤ人国家を創設するというわれわれの夢を実現はしたが、まだその出発点に立っているだけである。現在のイスラエルには、まだ九〇万人のユダヤ人しかおらず、大多数のユダヤ人は、いまだに外国にいる。われわれの今後の仕事は、すべてのユダヤ人を、イスラエルに導くことである》

 ベン=グリオンの目標は、一九五一年から一九六一年の間に、四百万人のユダヤ人をイスラエルに移住させることだった。実際に来たのは八〇万人だった。一九六〇年の移民は三万人しかいなかった。一九七五から七六年には、移民よりもイスラエルから他国への移住者の方が増えた。

 ルーマニアの場合のような大規模な迫害のみが、ある程度の“帰還”の後押しになった。

 ヒトラーの残虐行為でさえもが、ベン=グリオンの夢をかなえることに成功しなかったのである。

 ナチズムの犠牲者として一九三五年から一九四三年の間に外国へ亡命したユダヤ人の内、パレスチナに定住したのは、わずか八・五%だった。アメリカは一八万二千人(七%弱)、イギリスは六万七千人(二%弱)を受け入れた。圧倒的多数、具体的には七五%がソ連に逃れた。(『イスラエルへの岐路』&『イスラエルに背くシオニズム』に収録されたユダヤ人問題研究所の記録)


(12)公式の歴史家による歴史のごまかし