聞き書き『爺の肖像』9

●9 引揚収容所2

 爺本人の「引揚収容所」時代に戻ろう。

 半世紀前の大学生時代に爺が書いた『時代の始まり』という短編がある。“戦争が終って新しい時代が始まる”という気負いは感じられるが、この題名では何の話か分からない。後にインターネット公開する際に「1946年、北京から引揚げ船で送還された“少年A”の物語」という副題をつけている。“少年A”は、妹尾河童の『少年H』のもじりである。

 余談ながら『少年H』は山中恒氏他から間違いが多いことを指摘され厳しい批判を浴びている。

 『時代の始まり』は創作であるが、爺の実体験に基づく部分が多い。そこから再構成する。

 家を追われた爺は、

 この記述から、一家は北京西郊収容所へ向ったものと推測される。移動の際、爺の母はやがて収容所で生まれることになる妹を宿していた。辛い行程であったろう。

 収容所の生活はどうであったか。

 収容所の水はきれいでおいしかった、とある。万寿山から流れてくる水であった。しかし水は美味しいが、収容所で支給されるトウモロコシの粉の食事はまずかった。アメリカでは家畜用だという噂であった。一家は万寿米を靴下に詰めて持ち込んでいた。

 その米もいずれは尽きる。荒地とクリークに囲まれた収容所の鉄条網越しに、監視の中国兵の眼を盗んで小舟で渡ってくる中国人と物々交換して、米や高粱を手に入れることになる。

 監視兵に見つかりそうになると、小舟はさっと逃げる。こちらの品物だけ渡して食料は受け取れないこともあった。

 敗戦以来、学校もなくなってしまった子供たちの日課は「遊ぶこと」であった。

 収容所に着物姿の右翼風の男がいたのを覚えている。壮士を気取ったその男は、どこから手に入れるのか上等のタバコを吸っていた。その空箱を男が捨てると、子供たちは争って拾った。上等の空箱は上等のメンコになるのだ。

 やがて遊びにも「飽き」がくる。子供たちは、俄か仕立ての学校で近所の男性から英語を教わることになり、「サンキューベリマッチ」と繰り返していると、その右翼風の男が吐き捨てるように言った。

 「戦争に敗けてサンキューベリマッチもないものだ。」

 その言葉は爺の胸に突き刺さった。後年、爺の言動に「反米的」と受け取られる部分があるのは、このあたりの体験からだろうか。

 翌年2月、妹が生まれ、「民代」と名付けられる。「民主主義」から「民」の字をとって、民主的で平和な世になるようにとの願いをこめて、父が命名したのだ。

 それまでさんざん「日本は絶対戦争に勝つ」と言っていた父の変わりように、爺の3歳上の兄は皮肉をこめて言い募るのだが、父に返す言葉はなかった。

 父だけではない。敗戦を境に、殆んどの大人がそれまでの価値観を失った。代るものを見出せないまま、混沌が続いていたのだ。

聞き書き『爺の肖像』10 引揚げ