聞き書き『爺の肖像』2

●2 幼年時代

幼少期

 爺が1942年に北京に行くまで過ごしたのは北九州小倉、両親が共働きで建てた家は後に「建物疎開」で取り壊された。(前回分)

 どんな家であったのかは、幼少の爺の記憶に定かでない。おぼろげな記憶を辿ると、「平屋であった」「庭があった」「両親と兄と弟と5人で住んでいた」・・・・

 近くを流れていた「いとうづ川」は小さな川であった。漢字で「到津川」と書くのだとは幼い頃の爺は知らなかった。

 子供たちはその土手で、小さな蛇を捕まえて尻尾を持って石に打ち付けて遊んだのだという。今も昔も子供の無邪気な残酷さに変わりはない。

 その蛇は水辺に多く棲む「やまかがし」であった。

 一般におとなしく、毒は無いとされてきたが、実は毒蛇である。

 毒蛇と認識されるようになったのは、1970年代に死亡例が確認されてからであり、爺の幼少時代は、接触し易さから子供がもてあそぶことが多かったと思われる。

 建物疎開で取り壊されたのは、爺が家族と共に東京に出て来てからのようである。取り壊されるのを見た覚えはないと。

 年表に当ると、当時の政府が、京浜・中京・阪神・北九州の主要都市を防空都市に指定し、疎開計画を決め、建物疎開が始まったのは1943年(昭和18年)9月21日とあるので、爺の記憶とは符合する。

 一度東京に来たのは、父の赴任先の北京に向うためだった。

 具体的な順路はさっぱり覚えていないが、当時の朝鮮まで船でゆき、そこから陸路で北京に向った。

 北京駅に到着して、駅の大きさに驚いたこと。出迎えた父に手を引かれて外に出ると、物乞いがずらりと並び一斉に「シンジョウ」「シンジョウ」と口にしたことが印象に残っている。

 父によると、「シンジョウ」は中国語ではなく日本語「進上」だという。

 北京に着いた爺は、中国人の富豪から接収した大きな屋敷に、父の会社の数家族と共に暮らした。浅野セメントの社員寮である。中国人のお手伝い(姑娘=クーニャン)がいるのが当時の日本人の普通の生活水準だった。

 中国人一家が屋敷の門番として住み込んでいた。子供たちに国籍の意識はなく、門番の子供と社員の子供たちとは一緒になって遊びまわった。

 幼稚園年齢だった爺は、北京の幼稚園に転入した。歓迎の出迎え儀式で歌を歌ってくれたのを聞いて

 「いばっとるなあ」

 と言ったのだと、家族から聞かされたのが記憶となって残っている。威張っている、という意味ではなく、大げさだと思っただけらしいのだが。

 ここで、爺の母の補足を。

 母は名を「たつの」と言った。「龍野」である。が、爺の記憶では「たづ子」と名乗っていた。父と相談して、通称を「たづ子」としたという。

 母は、丙午生まれであった。

 「丙午年生まれの女は、鬼となって家族を苦しめる」とか「亭主を食い殺す」という根拠のない迷信は根強く、1966年(昭和41年)の丙午年には出生数が極端に落ちた。

 まして昭和10年代に、「丙午」で「龍」では「強すぎる」と名を変えたのであろうと推察される。

 丙午から逆算して、爺の母は1906年(明治39年)生まれであった。

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(爺から昔の話を聞きだすのは、馬の骨の折れる仕事です。)

聞き書き『爺の肖像』3 北京の日本小鬼子