聞き書き『爺の肖像』4

●4 敗戦

幼少期

 前回記したように、北京の冬は寒かった。

 1938年生まれの絵本作家、佐野洋子はこう書いている。

〈北京の冬は寒かったので、窓は二重のガラス窓になっていた。私は家の庭に面しているその窓から、外の景色を見たという記憶はない。

 とても寒い日の朝、私は窓にかけ寄った。

 二重窓の内側の二十センチ四方くらいに区切られたガラス窓に、氷がはりついて、様々な模様をつくっていた。模様は一つずつのガラス窓にまったく別々の模様をつくり、精巧な連続模様のレースのようだった。何かの花か、あるいは葉っぱか、あるいは六角形の雪の結晶の形が、寸分の狂いもなくびっしりつながり合って、窓の向こうは何も見えない。〉
(『私の猫たち許してほしい』1990.8.28 ちくま文庫版より引用)

 佐野洋子は他にも北京での子供時代を書いているが、そのどこかに「幼稚園」の思い出が書かれている。

 〈いよいよ幼稚園に入ることになり、通園したものの、嫌な男の子がいたため、たった1日で「自主的」に幼稚園に行かないと決めた。それ以後毎日一人で楽しく遊んでいたのだが、ある日、遠足に行く幼稚園生が列をなして歩いていた。その時、洋子は「しまった」と思った。幼稚園に行かないということは遠足に行けないということなのだ・・・〉
(記憶による引用につき不正確。出典忘失)

 戦争中は真っ暗な日々だったかというと、子供たちにはそうでもない。少なくとも北京は爆撃されてはいないし、表面的に中国人は従順で、占領者として生活は安定している。父が休みの日には万寿山に連れて行ってもらい、山あり谷ありの行楽地で楽しい1日を過ごすことができたし、冬には近くの公園の大きな池が凍ってスケートに興じた。

 だが、戦争を遠くの出来事に感じていた子供たちの「幸福」な日々はやがて終わりを告げる。

 「大日本帝国」が、第二次世界大戦の敗北を渋々認め、無条件降伏の受諾を通告した時、爺は8歳の少年であった。

 夏休み期間中だったが緊急召集が掛かったのであろう。1945年8月15日には、北京の日本人専用の国民学校3年生として、なぜか薄暗かった記憶の講堂で、「整列!」、「前へ習え!」、「気を付け!」、直立不動の姿勢でビッシリ、整然と並び、「あの奇妙な声」の、何を言っているのか全く分からない、雑音まじりのラディオ放送を聞きいた。

 そして、「チン」というのが天皇のことであり、日本が無条件降伏したのであり、戦争に負けたので、これは敗戦であると教えられた。

 講堂での光景は、その後に何度か聞き、敗戦の「詔書」の印刷の実物を読んだりした記憶と一緒になって、おそらくは編集し直されたものが鮮明な映像記憶となって残っている。

 校庭では若い教員が机や椅子を壊して燃やしてた。煙りが高く立っていた。プールにも机や椅子の壊れたのが浮かんでいた。校庭の巨大な焚き火は、もしかすると命令を受けて書類を湮滅していたのかもしれない。この種の湮滅作戦は確かに各所で徹底的に実施されたのだ。

 プールの風景の方は理由が分からないので、やけっぱちの八つ当たりだったのかもしれない。ずっと気になっているのだが、北京の国民学校の同窓会は開かれたことがないので、確かめる機会がない。泳ぎたいのにこれでは泳げないなあと思ったことを覚えている。

 以後しばらくの間、一家は前述の通り、外出を禁じられ、セメント工場の技師の父親が働く北支那開発会社の社宅の重い扉の内に閉じ籠もることになる。

注:爺の書いた元の文章の中には、「浅野セメント」あるいは「北支邦開発公社」の「社宅」という表記が出てくるが、半官半民の「北支邦開発株式会社」に「浅野セメント」から出向し、その北京における「社宅」であろうと思われる。

聞き書き『爺の肖像』5 北支邦開発