聞き書き『爺の肖像』14

●14 東京へ

 爺は小学5年生で東京へ引っ越した。東京といっても当時は都下と呼ばれた北多摩郡の外れの調布町のそのまた外れの多摩川べりの、長屋とでも言うべきバラック社宅であった。

 引っ越したのは父の仕事の都合である。当時の父の勤務先は日本セメント(1947年に浅野セメントから改称)で、その東京本社への異動であった。[日本セメントは1998年に秩父小野田(1994年に秩父セメント、小野田セメント合併)と合併して、現太平洋セメントとなる。]

 爺は引き揚げ時にも小学生ながら吉川英治の『三国志』を後生大事に抱えて読んでいたが、調布市の小学校に転入してからも、当時のベストセラー、ザラ紙印刷の粗末な製本の『大地』(パール・バック)の分厚い3巻物を読み通した。

 「北京の郊外の「大地」の広さの実感を持っていた私は、さらに、『三国志』の歴史の近代版とも言うべき『大地』によって、中国大陸の歴史の概略の実感を得た」と爺は後に書いている。

 早熟というか先走りというか、いっそ知ったかぶりの生意気といいたくなるような小学生らしからぬ子供であったが、その一方で教師に「喧嘩太郎」と呼ばれるように、口より先に手足が出る悪ガキでもあった。

 近所には隣国人(韓国・朝鮮人)が住んでいた。当然のように群れての喧嘩になる。バッチキ(バッチギ)を食らう…… そうした喧嘩は爺の「懐かしい」思い出となっている。

 戦後の物資不足はまだ続いていた。

 爺は学校に通い本を読み喧嘩をするかたわらで、屑鉄を拾ったり電線が切れた(実は敗戦直前に児玉機関の提案で大規模な戦略物資回収が行われていた)電柱によじ登って残りの短い銅線をペンチで剥がしたり、兎を飼ったり魚を突いたり夜間の仕掛け針で鰻や鯰を捕ったり家庭菜園を耕したりして、小遣い稼ぎだけでなく家にも食料を補給し、薪割り飯炊き風呂炊き兎の餌の草刈りなど、ありとあらゆる仕事をした。

 食糧確保のために働かなければ飢えてしまう当時では当然のことであったし、振り返れば半分遊びの楽しい思い出でもある。

 こんな光景もあった。

 戦後の一時期まで、東京の郊外にも鋳掛け屋が回ってきた。電気仕掛けのドリルならぬ、棒に糸を巻いて引っ張ると鋭い針が回転して瀬戸物に小さな穴を開けるローテク機械で、開けた穴に秘伝のおそらくは動物の腸とか何かを引き延ばして干したような糸を通し、まだまだ使えるように縫い直してくれたのだった。当時はまだ 小学生だった爺は、魔法でも見るように、じっと眺めていた。

 楽しい話ばかりでもない。

 《 今の京王閣競輪場は当時、進駐軍用のダンスホールになっていた。いわば準基地の街であった。夜毎の嬌声。朝の小学校の校庭に捨てられていたコンドームの白濁。アメリカ兵のかっぱらいの酷さをこっそり話す土産物屋の女の子の泣きべそ顔。〈キスしてもいいわよ、ってのは英語で何ていうの?〉と大声で先輩に教えを請う年頃の娘。〈僕を軽蔑しない?僕の姉さん、オンリーなんだよ〉と物陰で打明ける気弱な友。……》
(『煉獄のパスワード』から引用)

 という事実も存在した。

 ちなみに「キスしてもいいわよ」は「キス、オーケー」とは爺の解説。


 とりあえずここまでです。
材料が揃ったら、再開いたします。m(_ _"m)ペコペコ