●8 引揚収容所
さて、敗戦の後、暫くは居宅から外出することが出来なかったが、やがては追い立てられて収容所に向うことになる。爺の記憶によると、北京市内の元兵舎などを転用した収容所を数回移動している。
「敗戦時関東軍は民間人を見捨て芸者を連れてまっ先に逃げた」という俗説がある。真偽のほどはここでは検証しないが、その説が生まれる要因はある。即ち軍隊と芸者衆は統制が取れていて情報伝達が早かった、というものである。
引揚の記録を読むと、各地の民間人には引揚命令が出ていることを知らない人もいて、ノンビリと買い物に出ているところを、血相を変えた人にどやしつけられ、正に出発する列車に引きずられて行こうとして、子供はどこ?と慌てふためいた、という話もある。
民間人でも、会社に所属しているなら会社が指揮を取ったようである。
『北支邦開発株式会社之回顧』(槐樹会刊行会、昭和56年10月1日発行)から引用する。
《 敗戦後北京の街で著しい変化があったのは、広陽(広場の間違い?)という広場で日本人が野球を始めたことと、日本人の売り食い生活に反応した屑屋の繁昌であった。
(中略)
終戦の年を終え、昭和21年になると、ぼちぼち引揚が開始された。総指揮を執ったのは、横浜正金銀行北京支店長加納久朗氏であって、立派な采配ぶりであった。(略)CL182と引揚の隊名が決ったのは、4月の中旬であった。(略)
4月25日、昔の開発訓練所に近い西直門駅を、陽光に暴露された、無蓋の貨物列車が出発した。これが、私たちの182大隊であった。
天津貨物廠が、船待ちの宿舎であった。広い倉庫の空間をそれぞれ占拠して、三度三度のメシアゲを待つ身分となった。待つこと数日、出発の朝になって、(以下略)》
(船橋 破魔雄「私の追憶」)
引揚げ邦人の集結場所に「北京西郊収容所」がある。爺の記憶にはその名前はない。北支邦開発株式会社独自の集結所があったのか、あるいは記憶にないだけで「北京西郊収容所」に集結したのか。
「草川 俊」の『北京西郊収容所』(光風社文庫)には「収容所内の華北交通の天幕村」があったことが書かれている。華北交通とは北支邦開発株式会社の関係会社である。
「八木哲郎」は、北京で敗戦を迎え両親を亡くし15歳で引き揚げてくる。『天津の日本少年』(草思社)にこう書いている。少々長くなるが引用させていただく。爺も収容所から貨物列車に詰め込まれて溏沽(タンクー)に着きLSTに乗っている。ほぼ八木氏と同じ経路を辿っていると思われる。
《昭和二十一年二月十五日、青木徳三郎という、父と同年配ぐらいの支店長代理の人と若い社員が社宅を訪ねてきた。》
《「きみたちは第十三大隊に編入されて帰国することが決まった。そのためにひとまず西郊に集結する。出発は二月十八日午後三時、会社のトラックで迎えに来る。それまでに、手荷物は衣類、布団だけにしてまとめておくように。きみたちには会社の人二人と付添婦をつけて内地に送り届けることになった。お父さんとお母さんは会社で責任をもって面倒をみるから心配しないように」》
《昭和二十一年二月十八日、その日は私の満十五歳の誕生日だった。私はこの日のことを一生忘れないだろう。 朝から集結の準備をはじめた。家具はあらかた売ってしまったから、部屋のなかにはほとんど何も残っていなかった。》
《私の掌に数枚の紙幣が残ったとき、私は八木省蔵一家が崩壊したのを知った。きょうだいで外出着に着替えて待っていると、トラックが予定の時間かっきりにやってきた。》
《ガソリン・トラックは北京の街を疾駆して行った。いくぶん荒れたように威勢のいい社員の人たちが代わる代わる私たちを元気づけてくれた。もう怖いことはなにもないように思えた。西直門を出るとどこまでもつづく一本道だ。一路西郊へ。トラックは冬の原野を矢のようにつき進んでいった。》
《北京から西へ約四十キロ、見渡すかぎり寂しい原野のなか、旧日本軍の施設と思われる地域のなかに、帰国の順番を待つ日本人たちが集結している一帯があった。私たち第十三大隊が収容されたのは公民館のような木造の建物で、大勢の人たちが広い床にアンペラを敷いておのおのわずかな空間をつくり、共同生活をしていた。まさに難民だった。》
《昭和二十一年三月末、私たちの引揚第十三大隊はいよいよ故国に引き揚げることになった。
私たち兄弟の帰るべきところは東京だったが、東京は一面の焼け野原だと聞かされた。二子石の家も八木医院も無事かどうかわからない。そこで引揚当局は帰国先のはっきりしない者はとりあえず本籍地まで帰すという措置をとった。三井の人たちは引揚当局の言うとおりに私たちを本籍地である熊本に連れて帰ることに決め、九州出身者に付き添いを命じた。》
《出発の日、私は首に白い更紗でくるんだ両親の遺骨を提げた。》
《大隊は集合し、隊長の指示をうけて何台かの無蓋トラックに分乗した。私たちグループ以外にも数家族が乗り合わせた。トラックが走りだした。》
《西直門の駅から有蓋の貨物列車にまるで家畜のように詰めこまれ、床に座ると立錐の余地もなくなった。(略)途中の駅で何度も何度も長い時間止まり、ガタゴトと通常かかる時間の何倍かの時間をかけて、すっかり夜が明けたころ、やっと天津の北停車場に着いた。》
《そこには米軍がつくったカマボコ型の兵舎が何棟も建てられていた。私たちはこのカマボコ兵舎の一棟に押しこまれた。》
《ここに三日ほどいただろうか。一人あたり三百円の新円を受け取った。旧紙幣の肩に切手のような印紙が貼ってあった。とにかくひさしぶりの日本の紙幣だった。 いよいよ出発の日、私たちは米軍の兵隊から一人ひとり、大きな自転車の空気入れみたいなものを両袖から挿しこまれてDDTを噴射され、体じゅうが真っ白になった。》
《ここから溏沽に行くわけだが、今度は無蓋車だった。わずか一時間ちょっとで行けるはずの溏沽だが、貨車が途中で何度も止まり、いつ発車するかはわからない状態だった。》
《ようやく溏沽の埠頭にたどり着いた。目のまえに米軍の上陸用船艇LSTが横づけされていた。
おびただしい引揚者と復員兵が長い行列をつくってタラップのまえに並んだ。》
《乗船が開始された。突然ボリュームいっぱいに日本の歌謡曲が流れだした。「湖畔の宿」だった。》
《出航のドラが鳴った。》
《船が桟橋を静かに離れはじめると、船じゅうの人がデッキに出て右舷に鈴なりになったので、重みで船が危険なほど傾き、船員があわてて人びとを左舷に散らした。人びとが大陸に最後の訣別(決別)をしようと右舷に寄ったのである。》
ここまで『天津の日本少年』(八木哲郎 草思社)から抜書き引用。
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ブログ『愛爺の憂鬱な日々』掲載(2010.2.16~2010.6.4)を再録・訂正
投稿者 愛爺 日時 2010年4月 6日 (火) 14時41分