ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
電網木村書店 Web無料公開 2000.1.7
序章 疑惑の旅立ち 3.
または「未確認情報」による「戦時宣伝」物語のあらすじ
「ホロコースト記念館」の民族教育は根底からくつがえる?
興味深いことに、『シンドラーのリスト』紹介記事(『ニューズウィーク』日本語版94・2・16)の末尾にも、「なかなか消えないホロコースト否定説」という見出しのかこみ記事がそえられていた。まさに意外な副産物といいたいところなのだが、このかこみ記事の趣旨は「ホロコースト」肯定の立場(以下、国際的慣習にしたがって「絶滅説」とする)であり、つぎのような
している。「ユダヤ人の死は自然死だった。ガス室はシラミ退治のための施設だった。果てはヒトラーのユダヤ人抹殺計画を、国際世論を味方につけようとするシオニストの作り話だとする説まで飛び出した」
だが、そこには同時に、「ホロコースト」見直し論者の主張が一応はおりこまれている。さらには、「世論調査によれば、今もアメリカ人の二五%近くがホロコースト(ユダヤ人大虐殺)は虚構である可能性があると考えている」というデータや、「今でも反ユダヤ主義者などが、欧米をはじめ世界中で活発にホロコースト否定説を展開している」という記述などには、
がふくまれている。もしもこの「ホロコースト」を見直せという主張のほうが正しいのならば、『シンドラーのリスト』のテーマそのものまでが、まっさかさまにひっくりかえる可能牲がある。「ホロコースト」の真偽は、とくに現在のイスラエルにとっては、近世のキリスト教世界における「天動説」から「地動説」ヘのコペルニグス的転換のような決定的大問題である。
だが、科学が発達した現代といえども、もしくは逆にいうと、科学の技術的側面のみに偏重し、最新技術を駆便するマスメディアが極度に商業的に発達した現代ゆえにこそ、むしろ、情報操作のメカニズムもその極に違し、誤報の発生度もたかまっている。
ここでは一例だけ、「ホロコースト」の聖地、アウシュヴィッツにちなんで、おなじポーランドにかかわる同時代の歴史的事件を思いだしてほしい。現在のベラルーシとの国境に近いロシア領、スモレンスグ郊外の「カチンの森」で、「数千人のポーランド軍将校」(『ポーランド現代史』)が虐殺ざれ、埋められていた事件の場合、戦後にソ連軍当局がドイツ軍将校の「自白」調書を作成した。「証言」もなされた。それがそのままニュルンベルグ裁判で認定され、以後四十余年、公式的にはナチス・ドイツの犯行だとされてきた。だが、ベルリンの壁の崩壊後、ソ連のトップがみずから事件を自軍の犯行だったとみとめたのである。
「ホロコースト」には「記念館」もある。イスラエルはもとより、現在、さまざまな反発をよそにしてアメリカ全土につざつぎと建設中とつたえられる「ホロコースト記念館」には、かならず、大虐殺の現場として「復元」された「ガス室」がある。わたしは、湾岸戦争の時期のテレビ・ドキュメンタリーで、エルサレムの「ホロコースト記念館」の映像を見た。密閉されたコンクリート造りの部屋に、青白い照明がなげかけられ、シュー、シューと低くささやく不気味な効果音がながれていた。ユダヤ人、またはユダヤ教徒の子どもたちは、幼児のころから「ホロコースト記念館」で、こうした民族の歴史の「実物教育」をうけて育つのだ。
南アフリカのオランダ系入植者は、新参のイギリス系入植者におしだされて北進したさいの「トレッキング」で、現地のアフリカ人からのはげしい抵抗をうけた。そのときの幌馬車隊の死にものぐるいの戦いの浮き彫りをならべた「記念館」による民族教有が、つい最近までつづいたアパルトヘイトの精神的土台となっていた。
日本でも、日露戦争後の「三国干渉」を「民族的屈辱」として子ども心にうえつける教育がおこなわれ、それが「東洋平和のためならば」という勝手気ままな侵略の精神的土台となった。日露戦争のさいの旅順港閉鎖作戦の死者は「軍神」にまつつあげられ、上海事変のさいには、鉄条網爆破用のパイプがみじかすぎたという上官の失策で死んだ工兵隊員が「肉弾三勇士」とよばれた。死者の名による「聖戦」の続行という「心理作戦」は、死をおそれ、死を厳粛に受けとめざるをえない人間のよわみにつけこむものだ。考えようによっては極悪の政治犯罪である。
「ホロコースト記念館」の民族教育は、「ガス室」の恐怖を幼な心にうえつけることによって、ユダヤ人の持殊な歴史的立場を教えこみ、結果として、現地のパレスチナ人から土地をうばうことになんらの心の痛みをも感じない「国民」をつくりだしてしまう。こういう教育は、はたして正しいことなのだろうか。
そういう教青をつづけてきたシオニスト、またはイスラエルの国家指導者たちを、わたしは、いささかも信用する気にはなれない。その気持ちは、戦前の「神国日本」教育にたいする気持ちとおなじである。そういう相手にたいしてはまず、すべてを疑ってかかることが必要だ。もともと科学的精神の基本は「すべてを疑え!」なのである。