ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
電網木村書店 Web無料公開 2000.9.9
第3部 隠れていた核心的争点
第6章:減少する一方の「ガス室」 7
「非常にむずかしい問題」を連発するクラクフの誠実な法医学者
クラクフの研究所を探すのは、英語の研究所名と地図だけがたよりにしては、そんなに困難な作業ではなかった。ところが、研究所にたどりついて下手な英語のジョークをとばしたのだが、本当に「百年に一度のハップニング」によって三時間の市内放浪を余儀なくされてしまった。というのは、まず最初に英語が通じない市の警察本部で聞き、大体の位置がわかって探しはじめ、途中で見かけたアメリカの領事館にとびこんで親切に教えてもらえたのに、なんと、「角の茶色の古いビル」だったはずの建物が「改装中」でピカピカのオレンジ色にあたらしく塗りかえられ、看板がはずされていたからだ。
おまけに、会見の予約もしていないのだから仕方ないのだが、問題の調査の担当者は仕事の都合で会えないという結果だった。しかし、わざわざ足をはこんだ効果はあった。英語が話せるという理由だけで応対してくれた研究員が、担当者の氏名と電話番号を教えてくれたし、わたしが名刺を託して「帰国してから国際電話をかける」というと、かならずそう担当者につたえると約束してくれた。
教えてもらった担当者は、ヴォイチョフ・グバウワ博士とイアン・マルキェヴィッチ教授だった。
実際に帰国してから国際電話をかけてみると、どちらもほかの勤務場所と兼任のパート・タイムで、なかなかつかまらない。四度目にやっとグバウワ博士と話せた国際電話の結果は、ピペルとの質疑応答の場合と基本的におなじようなものだった。要するに、「研究所の名で医学専門雑誌に発表するのが妥当だと判断した」という趣旨の、日本の役人の国会答弁と似たような逃げの返事しかえられなかったのである。だが、わたしはおどろきはしなかった。予想通りの対応だったからだ。
グバウワの応対ぶりは、しかし、誠実であった。かれは何度も、「われわれにとって非常にむずかしい問題」だといった。「医学専門雑誌に発表」した理由は、調査の費用が「ある科学者の組織」からでているからという説明であった。わたしは、「みなさんの立場はわかっている」とつげたうえで、一応、ふみこんだ質問を発した。ロイヒター報告とおなじデータがでているのなら、おなじ結論、つまり「ガス室」とされてきた建物または部屋では、「ガス殺人」(ガッシング)は実行されていないという結論に到達するのではないか、という趣旨の質問である。これにたいしては、前述のピペルの解釈とはちがう答えがかえってきた。「残留の反応がでた箇所とでない箇所があるのは、現場が深い水につかったりする場所[昔は沼地]だからかもしれない。長年大量の雨にも打たれている。結論をだすのはむずかしい」という趣旨である。
意外なことにかれは、わたしの名刺で住所がわかるから資料を送るという。そのうえに、「研究所に招待して説明したい」という申し出もしてくれたのだ。もしかすると、「日本人」の反応が研究所としても気になりだしたのかもしれない。わたしは、その申し出に感謝したうえで、こちらのほうで仲間と連れだってふたたびアウシュヴィッツにいく計画をしているから、それが決まったら連絡するとつたえて、この電話取材を終えた。
翌一九九四年の一月五日に航空便がとどいた。クラクフの研究所の専用封筒のなかには、英訳の論文の抜き刷りと、裏にごく簡単なあいさつをしるしたグバウワ博士の名刺がはいっていた。
掲載誌は『法律学の問題』(94年36号)で、論文の題名は「アウシュヴィッツとビルケナウの元集中キャンプのガス室の壁にふくまれるシアン化合物の研究」である。内容は専門誌むけの文章だから、前出の『歴史見直しジャーナル』(91夏)よりもくわしく、一般むけの『ロイヒター報告』にくらべると格段にむずかしい。雑誌の発行日付けは記載されていないが、この論文の受理の日付が一九九四年五月三〇日になっている。クラクフのチームの調査がおこなわれたのは一九九一年だから、三年後の詳細報告ということになる。全体の構成からいうと、ロイヒター(一九八八年)と前述のルドルフ(一九九三年)の二つの調査報告を強く意識した論述になっている。チームの調査にくわわった博物館側のスタッフは、ピペルともう一人の技術者だけだった。ピペルがわたしに語った「人を殺す場合は短時間」という論拠は、この論文にもしるされていた。とくにくわしい鑑定内容は、『ロイヒター報告』にはないもので、シアン化合物の残留にあたえる「水の影響」である。それによると、「かなりの量のシアン化合物が水にとけこむ」ということである。完全になくなるわけではないらしい。また、「犠牲者がガスを吸わされた火葬場」と分類されている調査箇所のなかに、かなりの残留をしめす部分がある。これを論拠にロイヒターとルドルフの調査結果への同意を留保しようとしているようであるが、正確な位置関係はしめされていない。これには消毒室がふくまれているのではないだろうか。収容所の復元図や実際に見た状況からいうと、消毒室、シャワールーム、サウナ、死体安置室、火葬場などは近接して設置されている。
もうひとつのあたらしく提出された問題点は、見直し論者の一部が従来、シアン化合物と同一視してきた「壁の青いシミ」に関しての異論である。同論文によると、「青いシミ」はすべての消毒室に出現しているわけではない。もしかすると、一部の消毒室の壁のコーティングとしてつかわれた塗料の色素なのではないか、というのである。
これ以上のことは専門家の研究に待つしかないので、わたしはただちに同論文をコーピーして内外の研究者に送った。その後、アメリカのウィーバーから礼状がとどき、わたしが送ったコピーによってフォーリソンほかの「ホロコースト」見直し論者が、はじめて同論文の存在を知ったことがわかった。巻末資料に収録した「化学士」ゲルマル・ルドルフの論文「ロイヒターに対抗する鑑定/科学的詐欺か?」は、同論文の分析である。クラクフの半日のさすらいの旅が、いささかなりとも国際共同研究の促進に役立ったとすれば、苦労の甲斐があったというものだ。
ビルケナウの火葬場については、すでに論文の存在を紹介したが、建造時の設計図はのこっている。ただし、一部の部屋の用途について、見直し論者の「死体安置室」説と絶滅論者の「ガス室」説との基本的な対立があり、さらに絶滅論者のなかに「ガス室」への改造説があるといった状況のようである。米軍が撮影した航空写真までを材料にして、議論がつづいているというから、勝手な憶測をのべるべきではないだろう。
この法医学的調査研究にかんする問題の政治的構造は、さきに論じた「東方移送」による「ホロコースト」神話維持の場合と、非常に良く似ている。『ロイヒター報告』がでたから、それには別の窓口で応じる。データは専門雑誌にのせる。この発表がさきの例の「新聞投書」とおなじ位置づけである。しかし、公式の結論はださず、一般むけの発表はしない。世間一般には、大手メディアが報道しないから、知られることはないという、まさに典型的な二〇世紀的コミュニケーションの構造なのである。
さて、この第三部では、わたしが「核心的争点」だと考える「チクロンB」と「ガス室」をめぐる諸問題を、「再審」にむけての「新証拠」提出という想定で洗いなおしてみた。複雑な事実経過と現状をも紹介しながらの作業なので、わかりやすくできたかどうかについては、読者の批判を待つしかない。
大筋を中間的に整理してみよう。
まず、「チクロンB」は「大量殺人」に十分なだけのシアン化水素(気化状態は「青酸ガス」)を発生する。しかし、毒ガス一般とおなじく、その使用には危険がともなう。安全性と同時に経済効率も重要な問題だから、当時すでに「消毒」のために、密閉した無人の部屋の内部で缶のふたを開け、チップを金網に移し、温風を循環させて時間短縮と濃度の均等化をはかり、最後には、沸騰点以上の温風を吹きつけてシアン化水素を完全に蒸発させてチップを無毒にする装置までが工夫され、外国にも輸出されていた。「ホロコースト」物語には、そういう当時の技術水準が反映されていない。
「ガス室」にも、そういう当時の技術水準の最先端をいく工夫が見られなければならないが、そのような痕跡はまったくない。「ガス室」は、しかも、ニュルンベルグ裁判の当時には、ほとんどすべてのナチス・ドイツ収容所に存在したかのように思われていた。ところが、一九六〇年ごろには、西側には「ガス室はなかった」という「事実上の定説」が成立した。のこるのはポーランドの六か所のみになったが、たったふたつの現存の「ガス室」にも疑問がおおい。ビルケナウの廃墟に「ガス室」があったという主張もあるが、検察側に当たる絶滅論者の間でも、その建造の経過に関して説がわかれている。
『ロイヒター報告』以後、当局側に当たるアウシュヴィッツの委嘱もふくめて、「ガス室」に関する六回の法医学調査がおこなわれている。現存の「ガス室」については、「青酸ガス」が使用されたならば残留しているはずの「シアン化合物」が認められないという点で、すべての調査結果が基本的に一致している。
細部の解明には、公開の共同研究が必要だろうし、その前提条件としては、この問題に関する言論の自由が国際的に保証されなければならない。
以上、第3部では『ニューズウィーク』(89・6・15)の記事をきっかけの題材にしながら、キーポイントを広げてみた。第3部で提出した材料のほとんどは、この『ニューズウィーク』の記事が執筆される以前にあきらかになっていたものである。『ロイヒター報告』がカナダの法廷に提出されたのは、この『ニューズウィーク』の記事が発表される前の年の一九八八年である。カナダはアメリカの隣国でもあり、同じ英語を公用語の一つとし、おたがいに電波メディア報道が国境をこえる関係にある。「ホロコースト」物語とは直接の関係がない日本でならいざ知らず、この種の資料を入手するうえでは格段に有利な立場にいるはずのアメリカのジャーナリストが、なぜ、これらのキーポイントをはずした文章を書くのだろうか。これまた、おおいなる疑問である。