『アウシュヴィッツの争点』(52)

ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために

電網木村書店 Web無料公開 2000.9.9

第3部 隠れていた核心的争点

第6章:減少する一方の「ガス室」 4

「東方移送」による「ホロコースト」神話維持は「二度目の嘘」か?

「事実上の定説」変更のあとに「ホロコースト」の現場としてのこったのは、旧ソ連占領地域の収容所であり、その中心がアウシュヴィッツだった。

 たとえば、絶滅説に立つ比較的にあたらしい著作を例に挙げると、一九九三年に日本語版が出版された『沈黙の遺産』という本では、「絶滅収容所」を、つぎのように説明している。

「ガス室をそなえ、ユダヤ人の大量虐殺を第一の目的に掲げていた収容所。ヘウムノ、アウシュヴィッツ、ベウジッツ、ソビボール、トレブリンカ、マイダネクの全六ヵ所で、すべてポーランドに建設された」

 シュテーグリッヒ判事の著書『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』によると、一九五〇年代までは、アウシュヴィッツはそれほど重視されていなかった。ところが一九六〇年以降、フランクルの『夜と霧』や、それをもとにした映像作品などによって、にわかにアウシュヴィッツの「惨劇」がクローズアップされはじめた。アウシュヴィッツには間違いなしに「ガス室」があったというのだ。

 だが、ホロコースト否定論者はこういう。

「ソ連のいうことをことごとく否定してきた西側諸国の支配者が、なぜアウシュヴィッツについてだけは、ソ連の報告をそのまま認めるのか」

 すくなくとも独自の再調査は必要だろう。

「事実上の定説」変更は、もしかすると、実に陰微な官僚的策略なのではないだろうか。その結果は、ノルベルト・フライの近著、『総統国家』などにも典型的にあらわれている。

 フライは、さきに紹介したブロサット博士が所長のドイツ現代史研究所の若手(一九五五年生れ)専任研究者である。フライは戦後の研究史、または裁判史、報道史の問題点にはまったくふれない。かれは、ダッハウなどのドイツ国内収容所でも「ガス室」処刑がおこなわれたことになっていたという「最初の嘘」を、完全に抹殺してしまう。そしていきなり、最初からすべての事情が判明していたかのように、アウシュヴィッツ収容所群における「ガス殺施設」を登場させる。「東部でこのように殺人機械がフル回転」するという「途方もないことがおこなわれ」、そこへむけて、「強制移送」の「お迎え」がユダヤ人をおそうという「ジェノサイド」の構図を、ものものしくえがきだすのである。実証的な資料研究は皆無にひとしい。

 シュテーグリッヒ判事は、「ホロコースト」神話の「東方移送」にたいして、「だれしもが昔のドイツの格言を忘れているように見えた」という皮肉をはなっている。その格言はつぎのようである。

「一度嘘をついたものは、二度と信用してはならない」

 ところで、新聞への個人投書という手段で「事実上の定説」の変更がおこなわれた一九六〇年という時期には、まだまだ東西の壁は厚かった。西側の絶滅論者のだれしもが、「東部のガス室」の実地検証をせずに、「ホロコースト」物語の「東方移送」に賛成していたわけである。だが、その「東部のガス室」は、西側の「否定されたガス室」とは決定的にちがう特別な構造のものだったのだろうか。だれかが、専門的な比較検討をしたのだろうか。

 現存する「ガス室」は、何度も念を押すようだが、たったふたつだけである。アウシュヴィッツIにひとつと、マイダネクにひとつだ。

 マイダネクの「ガス室」については、すでに紹介したユダヤ人のコールがビデオの映像で、ドアが内側からしか閉められない構造であることを明らかにした。かれは、西側のオーストリアのマウタウゼン収容所の“元”「ガス室」こと、「事実上の定説」では普通のシャワールームのドアの映像と比較して、まったくおなじ構造だということを、だれの目にもわかりやすいようにした。マイダネクの「ガス室」についても、普通のシャワールーム以外のなにものでもないことが、すでに立証されたも同様である。

 アウシュヴィッツIの「ガス室」については、これもすでにフォーリソンによる「戦後の捏造」説が有力になっている。

 これでどうして、「ガス室」による「ホロコースト」物語がまだ維持できているのだろうか。なぜ、おおくの知識人、ジャーナリスト、学者、研究者たちが、いまだに「ガス室」を中心とする「ホロコースト」物語をいささかもうたがおうとしないのだろうか。そのことの方がむしろ、不思議になってくるほどなのである。


(53)科学的で法医学的な世界初の「ガス室」検証が『ロイヒター報告』