憲法調査会の動き
10/23/00公開
11/12/00, 11/13/00, 12/6/00,
12/28/00, 5/21/01, 6/15/01更新
もくじ
1.「衆参憲法調査会」とは
国会法の改正に伴い、2000年1月から国会衆参両院に設置された「憲法調査会」(衆院調査会50名、参院調査会45名)。その目的は、「日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行う」(国会法第102条の6)とされています。
2.「憲法調査会」の活動
法的目的はもっぱら「調査」機関とされましたが、しかし改憲派の議員が中心となって憲法調査会の設置が実現した経緯からもわかるとおり、憲法調査会設置の主な政治的意図は憲法改正にあると言えます。
実際、国会の政党会派別構成比を反映して「改憲」・「論憲」の立場の議員が大半を占める憲法調査会でのこれまでの議論を見ると、国民に憲法改正の必要性を納得させる理由を作り、かつ憲法改正のムードを盛り上げることを調査会の役割と考えているような委員の発言が連発されています。これは、改憲派の委員が非難している「憲法(規範)と現実(政治)の乖離」を自らおかしていることにほかならず、「憲法と現実の乖離」を招いた責任が誰にあるのかを問わず語りに教えています。
それはさておき、「憲法改正の必要性の理由」という点からすれば、衆院憲法調査会の調査が、当初の「日本国憲法の制定経緯」から、6月の総選挙後、現在の「21世紀の日本のあるべき姿」へと移ってきたことが重要です。なぜならそれは、改憲の理由がいわゆる「押しつけ憲法」論から、21世紀の新たな「この国のかたち」を定める「21世紀新憲法」論へと変化しつつあることを示しているからです。
憲法調査会の議事録は、国会のホームページ(国会会議録検索システム)に掲載されています。ぜひ実際に目を通してみるといいでしょう。
3.最近の「憲法調査会」の議論から
(1) 第1回衆院調査会(9月28日)参考人、田中明彦氏(東大教授・国際政治)の意見から
田中氏は、21世紀の世界の特徴として、冷戦の終結、グローバリゼーション、民主化、国際アクターの多様化、性質の違う「域圏」の併存という5つがあるとします。他方で、21世紀にも「近代国家」は「定住している人たちの利益を増進する仕組み」として重要な存在となると言います。
そこで「21世紀の日本のあるべき姿」ですが、「日本人にとって」は、日本国民の安全を守る、繁栄を維持する、価値観を維持することだとします。他方「世界に対しての責任」としては、世界平和の維持、世界経済の成長、地球環境の保全に寄与することだと言います。
憲法改正についての意見ですが、委員からの質問に答えて田中氏は、「憲法のような根本法規については」「最小限度の改正が望ましい」と述べ、憲法9条については「最小限度、第2項を削除する・・・だけ」でいいと主張しました。また、環境権、プライバシー権を盛り込むための憲法改正についても、それらの権利は「重要」だとしながらも、「日本の国民が大事だと思っていることはすべて文章として[憲法典に]書いておかなければいけないということでは必ずしもない」と述べました。
なぜ「最小限度」の憲法改正を主張するのかというと、それは現行憲法を尊重するからではなく、むしろ逆です。田中氏にとっては、戦力不保持を定めた9条2項は、「よく言ってあいまい、悪く言うと国際社会の現実を無視した条項」であり、「変えた方が望ましい」ものです。田中氏によれば、「内閣法制局の解釈で日本国憲法で集団的自衛権の行使ができないのだというふうになるに至ったその理由は・・・9条第2項があるから」です。
9条のもつ規範力に対するいわば「反省」から、憲法の条項には、政府を縛る具体的なことをできるだけ書き込まない方がいいという主張です。つまり、「安全保障等に関することにつきましては、憲法典に余り細かいことを書くというのは・・・世界の情勢の大きな変化ということからすると、かえって効果的、効率的な政策追求をしにくくする」というのです。「できれば、さまざまなものは柔軟にフレキシブルに動けるような形で、法律でいろいろなものが動くという形が望ましい」というわけです。
田中氏は、「憲法典には根本的なことだけ書いておいて、具体的理念、現実的な政策ということは各政党[が]明示し、政権をとったときにこれを実現するというのが・・・民主主義」とも言います。憲法にもとづく政治という立憲主義をできるだけ希薄にするような「民主主義」観と言えます。
田中氏の主張は、現実には、すでにとめどもなく進行している「憲法と現実の乖離」を、「憲法原則の無視・軽視」という批判を受けることなく、より容易に、いっそう押し進める結果にしかならないのではないでしょうか。
(2) 第1回衆院調査会(9月28日)参考人、小田実氏(作家)の意見から
小田氏は、「21世紀のあるべき日本の姿」は、9条を基礎にした「良心的兵役拒否国家」という「長期的展望」をもって考えるべきだという意見を述べました。
個人の「良心的兵役拒否」制度をもつヨーロッパ、そりわけドイツの例をひきながら、小田氏はそれを国家に拡大すべきだと主張しました。そして「良心的兵役拒否」制度の非常に重要な点は、「良心的兵役拒否」をする者は「ただ銃をとらない」だけではなく、銃をとらないかわりに「市民的奉仕活動」をすることが義務づけられていることだ、と言います。
小田氏は、日本とドイツは先の大戦で似たような経験をし、「良心的兵役拒否」制度を支える3つの理念を日本もドイツと共有しているはずだと言います。つまり、(i)戦争は平和を生まないという認識、(ii)核兵器の出現が正義の戦争を不可能にしたという認識、(iii)個人の自由こそ至高で、戦争と個人の自由とは両立しえないという認識です。
戦後、ドイツは再武装しましたが、先の大戦から得た先の3つの認識にもとづき「良心的兵役拒否」制度を生みだしました。他方日本は、戦後「戦力の放棄」、つまり「兵役拒否」を憲法に定め、国民はそれを支持・維持してきました。「兵役拒否」を決めた日本は、しかし、「銃をとらない」こととセットであるべき「市民的奉仕活動」を、国家のレベルで実施してこなかったと、小田氏は反省を述べます。
その反省のうえに立ち小田氏は、「銃をとらない」日本は、そのかわりに世界のあるゆる紛争の平和的解決のために努力して、「良心的兵役拒否」に不可分の「奉仕活動」の義務を世界で果たし、「良心的兵役拒否国家」となるべきだと主張しました。
(3) 第2回衆院調査会(10月12日)参考人、曾野綾子氏(作家)の意見から
曾野参考人は、世界を力による支配という観点からみよ、ということを力説し、国内では道徳教育(奉仕活動の義務化を含む)の重要性を主張しました。
曾野参考人の意見は論理を追うことが困難ですが、要点は、「世界が平和を希求しているということは全くの幻想でございまして、つまり、やりたいのは淘汰であり、勝利であり、力を使って相手をどうやって排除できるかということ」という「現実を正視せよ」という点にあると思われます。これまで「現実を正視」してこなかった日本の「21世紀」の課題は「自立」であり、そのための「産業の確保」と「防衛と外交」を確立せよ、という主張です。その文脈のなかで、(議員の)「先生方」が「選挙のたびに、町の街角、あちらこちらで、皆様方が安心して暮らせる生活をという言葉」は「全くあり得ないこと」であり、「これをおっしゃっただけで、うそということになる」などと批判しました。
直接憲法に触れては、「私ども一般市民が楽しんで・・・読めるように改善していてほしい」と条文表現の注文しかしませんでした。しかし意見の憲法論議への含意は明白で、要するに「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(前文)日本国憲法は「うそ」であり、世界の「現実を正視」していない「無能」な憲法である、ということでしょう。
(4) 第2回衆院調査会(10月12日)参考人、近藤大博氏(日本大学教授)の意見から
「中央公論」の編集者としての長い経験から「戦後論調に日本・日本人の自画像を探る」というタイトルで意見をのべたのが近藤大博参考人(日本大学教授)です。露骨な改憲論ではありませんが、やんわりと改憲の必要性を主張する意見と言えます。
近藤参考人は、かつての丸山真男の「超国家主義の論理と心理」から最近の山田昌弘の「パラサイト・シングルの時代」までの日本ないし日本人について論じた論文などを列挙したうえで、戦後数多くの「日本・日本人論」を歓迎してきた日本人は「常にほかとの優劣をつけたがっている、つけてきた」国民であり、「底流には・・・世界で冠たる国家でなくてはならないとの強迫観念が流れているかのよう」と結論します。そして「かかる民を想定した際の憲法・・・は、簡潔に国家のシステムを律するものの方が望ましい」と主張します。
自分は「憲法学者でも法律家でもないので、個々の条文や条項について言及するのは避けたい」と言いつつ、憲法とは「国家という家の設計図と思えばよろし」く、「環境や住んでいる人間に変化が生じたら、それにつれて家の構造を変える必要があ[り、]それには設計図も変えなくてはならない」と主張し、「設計図はわかりやすくなくちゃならない」ので、「憲法九条の精神を堅持せよ[と言うのだったら]その精神をより平易に表現していただきたい」とのべました。
また「日本人の自画像をどう描けばいいのか」という委員からの質問にたいして近藤氏は、日本人は「余りにも日本人論・・・をやり過ぎた。しばらく自画像を描こうとする作業をやめた方がいい」、「逆に・・・設計図[憲法]の方を先にかいた方がいいんではないか。その方が問題の解決には、また世界へのメッセージを持てる国家になるんではないか」と、早期の憲法改正の必要性を訴えました。
(5) 第3回衆院調査会(10月26日)参考人、市村真一氏(国際東アジア研究センター所長)の意見から
市村氏は日本の軍事力行使のために一項(武力行使の禁止)を含む9条の全面改定を主張すると同時に、「少子化現象」との関係で、「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立[する]」と定めた24条を「なぜ『のみに』と書いたのか」と批判するなど、「21世紀」というよりは復古主義的な「後ろ向き」の意見をのべました。
そうした市村参考人の意見に「大変感銘を受けました」とのべ、「事前に先生の論文をいただいて・・・すべての行に線を引きたくなるような、そういうすばらしい文章でもありました」、「私たちが一番考えなければならない重要なポイントが列挙されております」と諸手をあげて賛同したのが、鳩山邦夫委員(自民)でした。鳩山委員は、「実は日本国憲法の最大の欠陥は、第九条以上に、二四条的なもの、家族とかコミュニティーというものを全く認めないというところではないか」とのべ、とりわけ24条を強く批判しました。
しかし、これには他の委員から直截な批判も出されました。たとえば山花郁夫委員(民主)は、「私は、個人主義というのは決して利己主義と同義ではなくて、お互いの人格というものを尊重し合う、そういう意味合いにとっている・・・決して24条なぞもそんなに否定的に見る必要はないのではないか」とのべ、さらに植田至紀委員(社民)は、市村参考人が「少子化と道徳の退廃」の原因として「男女交際、結婚、出生、育児を当事者だけのことと考えて、コミュニティーの問題と考えていないことの欠陥」を指摘したことにたいして、「非常に逆立ちした議論ではないか」と批判し、「自立した個人がそれぞれの価値観に従って生きることを保障するのが本来的なコミュニティーの役割」であり「個人の自立を妨げている状況こそ問題なのではないか」と反論しました。
市村参考人はほかにも、日本は「一言にして言えば・・・世界にまたとない君主制の国家」と発言したり、「現在の憲法の一番悪いところは・・・前文でございまして、前文は、要するに敗戦後遺症の最も顕著にあらわれておるもので・・・このような前文や憲法のもとでは日本人が誇りと自信を取り戻せないということが一番基本的であります」とのべるなど、強烈な権威主義的・民族主義的な意見を展開しました。
(6) 第4回衆院調査会(11月9日)参考人、佐々木毅氏(東大教授・政治学)の意見から
佐々木参考人は、現在の課題を「官主導」から「政治主導」というキャッチフレーズで表現します。そして、「政治に問われておりますのは、端的に申しまして、政策を中心とした統治能力であろうというふうに考えます。そして、政治主導がこれを提供できるかどうか、これが焦眉の急である」とします。佐々木参考人は、「この政治主導体制の構築は新しく議会制を創造するというような意気込みを前提としたものであるべき」だと「政治主導」の実現を強調しました。
このように「政治主導」の実現を説きつつ、「政治主導というものの一つの成熟形態は、憲法問題を国民の意向を踏まえながら冷静に取り扱うことができる段階に到達したときに、成熟したというふうな言い方ができるかとも思います」、「個別の条項についていろいろ議論するに先立ちまして政党政治が主体的に判断しなければならないのは、政党政治がこうした大問題を扱うのに十分な強さと自信を備えているかどうかという点について判断することであると思います。それゆえ、私は、政治主導による実績が一定程度上げられた段階を前提にして、この重大な憲法にかかわる問題に踏み出すのが上策・・・であるというふうに考える」とします。したがって、佐々木参考人の説く「政治主導」は、実は「改憲を提起できる強い政治」の実現であることになります。そして、「例えば国会にかかわるいろいろな条項について改正を発議するということは、必ずしもこれは国民にとって直接的に重大な影響を及ぼすとは限らない問題でございます。ですから、このような問題から順次憲法問題に取り組むというやり方も考えられる」として、改憲の優先順位を提起します。具体的には、政党条項、国会、とりわけ参議院の性格、中央、地方関係の整理が提起されます。
さらに佐々木参考人は、憲法改正手続(憲法九六条)に関して、「改正発議の現実的可能性がほとんどないところで、あるいはないという前提のもとで憲法論議を繰り返しているという事態は一体いかなる意味を持つのか。あるいは、ひょっとするとマイナス効果も出てこないとも限らない、そういう問題を含んでいるように思いますし、私自身の認識で言いますと、政治全体のよどみというものがその分長続きするということにもなる」として、「したがって、政治と憲法との間によい意味での緊張感を回復するためには、改正発議の条件を今よりも緩和するという問題が一つ考えられるんだ、これは一考に値するテーマだろう」「ただし、もしそういうことを考えれば、直ちに続々と改憲の提案がなされるのではないかという危惧が述べられることは私も容易に想像するところでございますが、逆に、できるようになるということは、それだけの決意と覚悟なしにはできないということでございましょうから、そう事態は単純ではないように思われるわけであります」として、改正手続の緩和を主張しました。
こうした佐々木参考人の見解は、「官主導」を批判する文脈で、具体的内容はともかく一般論としてはあまり反論のでないような「政治主導」を強調しつつ、「政治主導」の望ましいあり方として憲法改正を提起するというある意味で巧妙な議論だといえますし、その脈絡で憲法改正手続の緩和を説く点でも独特です。こうした佐々木参考人の見解は、「政治主導」の名のもとに憲法による政治への拘束という立憲主義を放棄するものであるといわざるをえません。立憲主義のもとでは、「緊張」すべきは「政治」の側でしかありえず、「政治」と憲法とが対等であるかのような「政治と憲法との間によい意味での緊張感」が成立することはあってはならないはずです。また、改正手続を緩和することで逆説的に憲法改正への緊張感が高まるというのも根拠のない期待でしかないでしょう(なお、佐々木参考人の政党条項追加提案に関しては、上脇博之「佐々木毅・東大教授の『政治改革』論と『憲法改正』論の相互関係」を参照してください。)。
(7) 第4回衆院調査会(11月9日)参考人、小林武氏(南山大教授・憲法学)の意見から
とりあえずこちらを参照してください。
(8) 第1回参院調査会(11月15日)参考人、西部邁氏(評論家)の意見から
西部参考人は、まず、「冗談半分」といいながら、現憲法は「自分たち日本国民が内部から内発的に憲法はいかにあるべきかを考えたのではなくて、ありがたく占領国アメリカからちょうだいした」「押しいただき憲法」であり、内容上は個人的自由と技術的合理という価値観に従った「アメリカニズム憲法」だとします。その上で、「人民主権的な性格を色濃く持った現憲法においては、いわばその価値前提というのは歴史の英知と切り離されたいわゆる人権などの普遍主義的な価値観しかここには盛り込まれていない。少なくともそういう傾きの強い憲法である」と批判し、むしろ「長い何百年、何千年という歴史のいわば流れが分泌、成熟、堆積させてきたウイズダム、英知とでもいうべきもの」こそ法の根本前提となるべきだとして、そこから憲法一条の「国民の総意」も「日本の歴史の流れが示す総意」であり、「天皇の地位は日本の伝統の精神に基づくというふうに書かれているのだと解釈すべき」だという独自の見解を展開します。
また、憲法9条については、「第二項の意味は、日本語を素直に読めばというよりも、どこをどう読んでも普通の日本語の理解からいえば、侵略戦争をしないためにいわば陸海空軍その他の戦力はこれを保持しないという文章としか読めない」として、憲法学界の通説を真正面から否定しつつ、「九条を改正する段階には、はっきりと日本国民には国防の義務これありということを明記すべきだ」、「日本国民である以上自国の防衛に貢献する義務これありと、そのことを明記しないで国を建てようというのはやはりとんでもない国民である」と述べました。
さらに、人権保障との関わりでは、「この憲法において大問題なのは、一体この公共の福祉というものの前提なり根拠なりがどこにあるかということが一切明記されていないどころか示唆されてもいない。そうなってしまうと、現憲法の全体的な性格からいいますと、公共の福祉というのはその時々の国民のいわば多数派の人々が欲望することが公共の福祉になるというふうにしか解釈できない。これこそいわば衆愚政治の始まりであります」と罵り、結局、「私はパブリッククライテリオン、公共的基準というのはどこから来るかというと、その時々のいわば生存しているジェネレーションの意見とか欲望が公共の福祉を直接に指し示すものではなくて、・・・その国の歴史のあり方というものが基本的に指し示す方向、それがパブリッククライテリオンとなるのだ」として、「現在世代の議論の内容が、そうした歴史的なことに言及しないような、そういうことに、繰り返しそこから出発し、そこに戻っていかないような議論から公共の福祉が論じられるような戦後の風潮というものは全く嘆かわしい」と慨嘆してみせています。
このように、西部参考人の意見は、「伝統」なるものを前面に押し出した独特のものであり、「真正保守」の面目躍如といったところかもしれませんが、さすがに委員からもこの点については質問が出されました。たとえば、小川俊夫委員[民主]が、「歴史的に培われた基準で公共の福祉というとどうもちょっとわかりにくい。むしろ、そこら辺が、公共の福祉の概念が人権を全くないがしろにしてしまうかのような方向で考えられはしないか」、天皇制についても「一体どこの歴史のポイントを日本の伝統と呼ぶのか」と質問したのに対し(福島瑞穂委員[社民]も「日本の文化、伝統ということもつまみ食いをされている」と指摘しました)、西部参考人は、「伝統とは何かといったら、その慣習の中心部に、どういうものが守るべき慣習であってどういうものが壊すべき、捨てるべき、あるいは軽んじていい慣習であるかということのそうした基準というものを探す、そういう日本のやり方、これが日本の伝統の精神なんだ」、「歴史的慣習の中に含まれている日本人の例えば国際化に取り組むときの英知、あるいは国内のいろんな地域連関というものを見定めるときの英知、そうしたいわば歴史的な英知」だとしつつ、「歴史のバランス感覚に学んだ討論、議論、会話というものを国会を先頭にして展開していく中で、もちろんそれにおいても成功も失敗もあるでしょうが、そういう構え方が今日本国民に必要なんだ・・・、あと具体的にどうするかは私の権限でも能力でもありませんので、それを具体的な状況の中で具体的にどうするかを決めるのが、それが国会の先生方の皆さんのお仕事であって、私は別に逃亡するわけじゃありませんが、そんなことについてどこかの何とか委員会に呼ばれようとも参考人で呼ばれようとも、私は一貫して、そういう具体的なことは私にはわからないから今のんきな知識人をやっているのだというのが私の立場であります」という、無責任な発言で応えました。
このように「伝統」「歴史の英知」を強調しつつ(その具体的内容は語っていませんが)、それを欠いた現憲法は正当でないとする西部参考人の議論は、現在の改憲派の主流が現憲法に込められた国民主権、人権保障、平和主義といった諸原理を一応肯定した上で(もちろんこれらの理解が問題ですが)改憲の必要を説いていることとは距離があるでしょう。もっとも、改憲派からすれば、このような極端な意見を調査会で発言させることによって、より「穏健」な改憲論(「落としどころ」)を探る意図があるともいえます(愛敬浩二[信州大助教授]、朝日新聞・一二月七日、参照)。
(9) 第1回参院調査会(11月15日)参考人、佐高信氏(評論家)の意見から
佐高参考人は、「この[憲法]九十九条というのは、憲法にとっての危険人物のブラックリスト、おのおの方、油断めさるなというふうに国民に注意を喚起している。つまり、憲法というのは権力者が国民に守らせるものではなくて、国民が権力を持つ者に守らせるものである、端的に言えば権力者を縛る鎖であるというふうに私は考えます。危険人物たちは、というか、ここに掲げられているような人たちは、常にすきあらばこの鎖をほどこうとしているというふうに思うわけです。だから、憲法が権利ばかり規定していて義務を課していないというのは憲法そのものの本質を理解していない発言だというふうに私は思います」として、九九条の憲法尊重擁護義務こそ憲法の根幹であるという、立憲主義の本質をつかんだ発言からはじめ、「この憲法というのは、端的に言えば国民がこの九十九条に掲げられているような人間に対して押しつけたものであって、この人たちが押しつけと感じないような憲法は憲法の役に立たないというふうに私は考えます。ですから、今いろいろ押しつけ憲法だと、別の意味からアメリカからの押しつけというふうなことを言うわけですけれども、そういうふうに感じているということは、憲法がその存在価値を発揮していることだというふうに私は考えます」としました(委員とのやりとりの中では、「ある種改憲論者の人たちは押しつけのつまみ食いをしているわけですね。こちらでは押しつけは悪い、こちらでは押しつけはいいみたいな、話のつまみ食いをしているというふうな感じはいたします」とも述べています)。また、憲法九条についても、「憲法九条に基づく平和主義というのは、日本の世界に誇るべき財産だ」と高く評価し、「何物にも増して、この九条こそ世界に輸出すべきなのではないか」としました。
また、「会社国家」である日本は、会社の中に憲法、あるいは民主主義が入ったことがない「憲法番外地」であるとして、「憲法番外地である会社というふうなものがさまざまなところで問題を起こしているというのは、皆さんもう御承知のとおりだと思います。その状況を見ずして憲法の耐用年数が過ぎたというふうなことを言うのは、私は今の日本の会社国家の現実を知らな過ぎる」と批判し、まさに憲法が会社の中に入っていないような日本社会のありようこそ問題であるとします。
こうした佐高参考人の意見は、彼一流の言い回しを使いながら、日本社会に憲法が根付いていないことの問題性を鋭く告発するものでした。
(10) 第2回参院調査会(11月27日)参考人、加藤周一氏(評論家・元上智大学教授)の意見から
加藤参考人は、第一次世界大戦後の世界におけるいわゆる「戦争の違法化」の流れの中に日本国憲法の平和主義を位置づけ、「先取りの考え方」「先取りの憲法」であると評価しました。その上で、自衛のために武力行使が必要だという考え方に対しては、「具体的に自衛の問題を論じるには想定される攻撃、つまり日本に対する攻撃が想定されなければ非現実的、単なるアカデミックな問題になってしまう」として、しばしば主張される中国、ソ連、北朝鮮の脅威も日本の武装を正当化するものではないと冷静に分析します。また、国連による軍事的介入への参加についても、現に湾岸戦争などで実施された大規模な軍事介入は成功しておらず、「国連の安全保障理事会の委託があれば戦争が正当化されるというのは疑わしいですね。そういう意味で、国際的責任を果たすことが直ちに国連マンデートのある戦いに参加するということを意味しない」とします(また、いわゆる人道的介入についても介入が選択的・恣意的であることを批判します)。さらに、戦争抑止のために軍事力が必要だという議論に対しても、経験的にそれが「幻想」であることは証明されたとしました。
このように、加藤参考人は彼一流の合理的思考に基づいて、「今後の日本の行き先としては、先取りの憲法は世界で早く徹底した平和主義をとったから先取りというだけではなくて、日本の将来にとって有効な政策を憲法が先取りしているというふうに私は考えます。ですから、変えるよりも変えない方がいい。なぜならば、憲法にあらわれていることを実現することが日本の将来を開くのであって、憲法を変えて現在の現実に近づけることが将来を開くんじゃない」と明確に改憲に反対する意見を述べました。
また、委員との質疑においても、現在の国際情勢の中で憲法九条を改正することは「プラスがなくてマイナスだけが多くなる」と冷静に指摘しました。
(11) 第2回参院調査会(11月27日)参考人、内田健三氏(評論家)の意見から
内田参考人は、「憲法を千古不磨の大典などというのは思いこみが強すぎるのではないか」、「改憲だ護憲だというすさまじい対立の数十年は既に終わった」として、「論憲、大いに結構であるというのが私の基本的立場」という「論憲」論を主張しました。その上で、岸内閣時に設置された憲法調査会と、中曽根内閣期の土光政治臨調、臨教審などの行財政改革をとくにあげて、「政治はやはり十年先、二十年先を見通した変革というものをしなければならないものである・・・この五十年の歴史というものをよく点検する必要があるのではないか、そしてそれを踏まえて、ここまで来たこの段階の改革というものは何であるのかということを議論すべきである」とし、「幸い、この国会で久しぶりに設けられました憲法調査会というものは、超党派の会であり、しかも改憲であるとか護憲であるとかイデオロギーの角突き合いをする調査会ではないよという合意のもとに出発しているのでありますから、その本来の趣旨を徹底して委員の皆さんがおやりになることが私ども国民のためにもありがたいことである」と公述を締めくくりました。
内田参考人は委員との質疑の中でも、「私は何も、何もかも憲法に盛っていかなきゃならぬということはないと思っていまして、それは、この憲法全体がどうしてもここは我慢ならないから変えようというところまでこの御議論が行けばその上で変えればいいことであって、憲法の条章を一々ああだこうだ言っていじくり回すことには反対ですね。不磨の大典ということはあり得ないけれども、そうかといって憲法の条章を何かちょっと不都合なことが起こればすぐ変えるというようなことではなくて、それはやはり憲法の範囲内において法律でどこまで是正できることであるかということを考えていくのが第一義的な問題だと思っております」と発言していますから、これらの発言だけから見ると一応純粋な「論憲」派ということになるでしょう。しかし、内田参考人はいわゆる二一世紀臨調で「戦後憲法体制の包括的な検証にまで踏み込んだ今世紀最後の国民的議論を推進する」役割を持った「国の基本法制検討会議」の代表をつとめる人物ですから、いくら「論憲」と言っても「お里が知れる」というものです。また、公述においても「私は、以上のような憲法制定の当時と、それから十五年たった後の岸憲法調査会というもののいわば失敗といいますか、竜頭蛇尾に終わったということと、そして新たに中曾根時代になっての改革論というものをよく研究する必要がある」と述べていますから、実際には、「論憲」を通じて「失敗」から学び、今度は改憲が成功するようにちゃんとやれ、と改憲派にエールを送る役割を果たしているといえるでしょう。
(12) 第5回衆院調査会(11月30日)参考人、石原慎太郎氏(東京都知事)の意見から
石原参考人は、「ナショナリスト」らしく「国家の持っている自律性、つまり個性の発露」「国家の主体性、自律性」を強調しました。そして、「日本の憲法、とくにあの評判の高い前文というのは醜悪な日本語でありまして、私は文学者ですからあの醜悪な日本語というのを文章としても許すわけにいかない」という憲法への敵意をあらわにしつつ、「私は、とにかくこの憲法を考え直す。いろいろな瑕瑾があるでしょう。いいところももちろんあります。いいところは残したらいいのですが、変える変えないの問題じゃなくて、我々を有形無形で支配し、規制している国家の基本法の憲法というものが、歴史的な、どういう条件で規制されて現出したかということを、もうそろそろ冷静に、歴史の事実というものをつなぎ合わせながら、決してモンタージュじゃなしに、重ねながら、もう一回歴史的に分析する必要があると思う。そして、やはりそこに日本人のどれだけの自主性、自律性というものが加味されたか。私はほとんどないと思いますけれども」として、「押しつけ憲法」論的見解を展開します。そして、「今国会ですべきことは、そういった歴史というものをふまえて、国家の宣言、国家の自律性というものを再確認しながら、つまり、この憲法を歴史的に否定することなんです。否定するのはどうこうって、ただ、とにかくこれは好ましくないし、こういう形で決して私たちが望んだ形で作られたんじゃないということを確認して、国会で否定したらいいじゃないですか。/否定するには、内閣の不信任案と同じなんで、過半数があったら通るのです。手続じゃないのです。改正の手続に乗ることはない。私は、これを否定されたらいいと思う。否定された上で、どこを残して、どこを直すかということの意見が始まったらいいのです」という、改憲論ならぬ国会の過半数による「憲法否定」論を主張しました。
そのほか、委員との質疑の中では、首相公選制について「行政のトップに立つ総理大臣を国民が選ぶというのは、現代ではごくごく妥当な方法だと思います。しかし、こんなものは、憲法の改正から考えたら百年河清を待つで、さっき申し上げたみたいに、一回憲法を歴史的に否定していただきたい」として、基本的に賛同の意を表しつつもあくまで「憲法否定」論にこだわりました。また、平和主義については、「今の憲法九条は、逆さに読んだって、横に読んだって、日本の言語能力、普通の日本人が読んだら・・・自衛隊は違反ですよ。だから、ただし自衛のための戦力はこれを保有すると三項で入れたらいいということをかねがね言ってきたわけですよ」と年来の主張を繰り返しつつ、わざわざ「それは、あなたのおっしゃることは分かります。世界で日本の理念を賞賛する一部の人はいるでしょう。では、どこの国が日本に続いて自分の国の戦力を放棄しますか。その国があらわれてきてくれるのなら、私はいささか世界を見直すけれども。日本の九条を礼賛しても、では、どの国が日本にならって自分の自衛力というものを放棄しますかね。そんなところはないね。あり得ないですね」と付け加えるなど、随所に「石原節」を見せる内容でした。
石原氏の議論は、国会の過半数による「憲法否定」が特徴ですが、これだけでなくこのところ目に付く憲法改正手続(96条)を緩和すべしとの議論(先の佐々木参考人の意見もここに含まれますし、衆院調査会が派遣した欧州憲法調査での塩野七生氏の意見もこうしたものでした)については、憲法学界の通説的見解が、国民が憲法制定権力を有していることとの関係で、国民投票を外すような96条改正は許されないとしていることを指摘しておくべきですし(FAQの12のQ2を参照)、さらに、これらの96条改正論に共通しているのは政治権力は権力によって拘束されるのだという立憲主義の欠如です。小林武参考人の言葉を借りれば、「憲法は、時々の国民の決定をも、それが憲法改正に至るのでない限り、それを制約する高次法であ[る]」という点に憲法の存在価値があるはずであって、だからこそ憲法の改正は通常の法律制定よりも厳格な要件が必要とされるのです。その意味で、これらの96条改正論(石原氏もここに含めてよいでしょう)は、「憲法による政治への拘束」を免れようとする方向性をもっています。
(13) 第5回衆院調査会(11月30日)参考人、櫻井よしこ氏(ジャーナリスト)の意見から
櫻井参考人は、冒頭、「日本の二十一世紀のあるべき姿というのは、...私たちがデモクラシーと呼ぶ政治にふさわしいような、極めて透明なプロセスと公正なプロセスというものを何よりも大事にしなければならないという風に感じております、夢を実現していくとともに、日本を日本たらしめている文化や歴史も大事にしていかなければならないと思います」として、「日本人の中に、ある意味では、問題をキャッチしてその問題から深く考えていく能力というものが不足しているのではないのか」「論理力をはぐくんでこなかった、考える能力をはぐくんでこなかったような気がしてなりません」と危機感を表明しました。そして、「その[論理力の]決め手となる情報ということについて、私たちの国ほどナイーブで無防備で考えないで来た国は、世界広しといえども珍しいのではないでしょうか」と指摘し、満州事変時の情報隠しや新聞報道、薬害エイズの例をあげ、情報公開の徹底を主張しました。この脈絡で、「もし憲法に何か新しいものを書き加えるということがございましたら、情報こそは国民の考える能力を引き出す道具なのだと考えてくださって、この情報公開ということを徹底させるということをぜひ書き込んでいただきたい」と述べ、いわゆる「新しい人権」論にも配慮を見せました。
そして、これからの日本は「国際世論に影響を与えたり、情報を発信する力」としての「ソフトパワー」こそ重視すべきであるとし、その関連で現在の問題は「情報力の欠落」にあるとします。この点から、「私は、憲法が国の土台であり国の姿であると思っておりますので、どのようなものをつくるにせよ、国民が一緒に議論することが必要だと思っております。しかし、それを経ずしてつくられたこの憲法、それも情報欠落のゆえであったかと思います」とし、「そういう意味で、私は、この憲法を論じることになっても、変えることになっても、どのようなことになっても、あらゆる情報を国民に伝えつつ、透明なプロセスで、非常にわかりやすいプロセスで、公正なプロセスを心がけながら、この論議を進めていっていただきたいと思います」と公述を締めくくりました。
以上のような櫻井参考人の意見は、「極めて透明なプロセスと公正なプロセス」であるとか、情報公開の徹底といった、一般論としては誰しも否定しない事柄を強調しつつ、現憲法にはそれが欠けているとして改憲の必要性を説くという巧妙な議論となっています。こうした櫻井氏の議論は、「押しつけ憲法」論のスマートな新ヴァージョンともみることができ、現在の改憲論の中心ではないとしても、改憲の必要性を主張する議論としてはなお利用されうることを示しているといえます。
4.今後の「憲法調査会」の活動
衆院調査会は、現在も「21世紀の日本のあるべき姿」の調査を進めており、今後も隔週の木曜日に開催される予定です。
一方、参院調査会は、「国民主権と国の機構」について調査を進めています。
※衆議院憲法調査会のページ(http://www.shugiin.go.jp/itdb_main.nsf/html/index_kenpou.htm)
※参議院憲法調査会のページ(http://www.sangiin.go.jp/japanese/kenpou/index.htm)
- 10/23/00以前の憲法調査会の活動については、小栗 実「90年代改憲と憲法調査会の動向」もごらんください。
- 11/9/00の衆議院憲法調査会での参考人質疑については、上脇博之「佐々木毅・東大教授の「政治改革」論と「憲法改正」論の相互関係」もごらんください。
- 第150回、第151回国会での衆議院憲法調査会については、木下智史「憲法調査会の議事録(衆院調査会第150国会〜第151国会)を読む」もごらんください。
- 2001年6月4日に開催された神戸地方公聴会については「ルポ 憲法調査会は神戸でなにを調査したか」をごらんください。