ユーゴ人道介入の口実「虐殺」デッチ上げ(その14)

ユーゴ戦争:報道批判特集《特別緊急連載》

ラチャク村「虐殺」訂正を渋る「沽券」習性

1999.10.15

 別途、本誌で特集中のユーゴ戦争の決定的なきっかけ、ラチャク村「虐殺」事件の報道に関して、日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』に記事訂正の申し入れをしたと記したところ、読者から筆者の私個人宛てに「傲慢だと批判される恐れがある」との意見を頂いた。

 なお、私は、これも別途、同様の記事訂正要求を『朝日新聞』広報部にも申し入れている。私が、なぜ、特に『しんぶん赤旗』と『朝日新聞』だけに記事訂正を求めたかという理由は、後に具体例に基づいて詳しく述べるが、ともかく両紙とも、いまだにラチャク村「虐殺」の訂正記事を掲載していない。両紙を自宅配布で購読している読者が、このところ必ず、関連記事を切抜いて我が家に送ってくれているが、報道検証をした気配も見えない。

 まず、上記の『しんぶん赤旗』に関する読者からの意見についての経過を述べると、私は、とりあえず、過去の経過もあり、相手が何者であろうとも、率直に間違いを正すよう求めることにしていると答えて置いた。私は、わが悔恨の種多き人生経験にも鑑み、すぐに率直に意見を述べる習慣を築くことによってのみ、これまでの人類史の曲がり角の巨大な誤り、失敗の教訓を生かすことができるようになると考えている。別途、本誌連載記事「元日本共産党『二重秘密』党員の遺言」(ただし、目下、休載中。19回までのバックナンバーは継続して掲載中)に、その主旨を、いささか記したが、私は、誤解を恐れず、それなりの被害を覚悟の上で、あえて火の粉を被る決意をしているのである。本誌そのものの発行が、そういう主旨の発露である。

 さて、そもそも、およそ、権威を重んずる組織または個人にとって、誤りを率直に認めることは、なかなかに、たやすい作業ではない。当然、「認めさせる」のは至難中の至難の技となる。以上の『しんぶん赤旗』と『朝日新聞』のラチャク村「虐殺」記事に関するやりとりの直後にも、以下の記事を拝見した。


『日本経済新聞』(1999.9.26) 職員室(66)

誤り認めない先生たち

「あれ!」。体育祭後の打ち合わせで、配られた得点集計表を見ていた私は思わず声を上げた。「集計が間違っている」

 私の中学では、体育祭のチームは縦割り色別対抗というやり方で編成、学年を問わずA組とB組は「赤」、C組とD組は「白」、E組とF組は「黄」としている。3年生が1年の綱引きに声援を送ったり、2年生と3年生の男子が合同で騎馬戦を行ったり、応援合戦ではアイデアの限りを尽くす。それが、多くの生徒に、目常の生活では考えられないほどのエネルギーを発揮させる。

 一方で、応援団の上級生が下級生に“気合”を人れたり、盛り上がりの裏返しとして、必要以上に勝負にこだわる生徒が現れるなどの弊害もある。

 今年は私の所属した「赤」が、みごと優勝を果たした。ところが、集計表では2年生の団体競技の「ムカデ競争」で、3位のはずの「赤」が1位で計算されていた。この間違いを修正すると、優勝は「白」となる。行事を終えた安心感が漂っていた職員室は、私の指摘に、一瞬にして緊張感が走った。

 早速、管理職や体育の先生を中心に話し合いが始まった。その結異、このまま「赤」を優勝とし、生徒には間違いを伝えないことが指示された。

 正直のところ、勝ちにこだわる生徒に、どう説明すればいいのかを考えただけで憂うつだったが、それ以上に、間違いを認めようとしない学校の方針が何とも情けなかった。

(J)


 私は、「先生」という用語の廃止論者なので「教員」と記すが、子供に倫理教育をほどこし、「嘘を言ってはいけません」と教え込むべき立場の教員にして、しかり、なのである。「嘘は泥棒の始まり」の泥棒を掴まえる職業の警察官の腐敗に関しては、最近の神奈川県警問題がある。旧ソ連や中国の問題もある。右も左もない。かといって、私は、『しんぶん赤旗』と『朝日新聞』が「左」だから叩こうというのではない。

 以下、この種の「記事訂正の申し入れ」に関する私と、『しんぶん赤旗』(当時は単に『赤旗』)と『朝日新聞』との、主要な歴史的関係を記す。両紙に共通するのは、間違いを認めざるを得ない状態に立ち至っても、その過ちを率直に認めようとせず、絶対に訂正記事を掲載しようとしない強固な姿勢である。

 最初の具体例は、湾岸戦争直後、パレスチナとイスラエルの問題を解決するための中東和平会談が開かれた際のことである。各大手紙には相前後して、パレスチナの歴史的な「分割」「占領」の区域を示す地図が載った。この「区域」の線引きには、1947年の国連(正しい訳は諸国家連合)分割決議、翌年の1948年の第1次中東戦争の停戦、1967年の第3次中東戦争の占領、シリア侵略、1982年のレバノン侵略、などの経過がある。

 パレスチナ内部に関しては、最初の分割決議の区域よりも、第1次中東戦争の停戦もしくは第3次中東戦争の占領による「ヨルダン川西岸」「ガザ」の面積の方が、はるかに狭く、半分以下となっている。

 さて、以下、「パレスチナ分割地図」、さらに省略して「地図」と表現するが、この地図の掲載で、完全な間違いを犯したのが、『赤旗』と『朝日新聞』だった。両紙は、パレスチナ内部に関して、1948年の第1次中東戦争の停戦ライン、もしくは1967年の第3次中東戦争の占領の区域、つまりは、前述のように、「1947年の国連(正しい訳は諸国家連合)分割決議」の区域の半分でしかない区域を、「イスラエル占領地域」と記しながら、その区域を、それぞれ以下のように説明していたのである。

 以下、掲載日の関係で、両紙の順序を逆にする。


『朝日新聞』(1991.10.29):

「[前略]47年の国連分割決議で『アラブ国家』に割り当てられた地域」

『赤旗』(1991.11.1):

「[前略]47年の国連パレスチナ分割決議で『アラブ国家』に割り当てられた地域ですが、1967年の第3次中東戦争以降、イスラエルの占領が続いています」


 以上の双方とも、完全な間違いなので、当時は両紙を自宅配布で購読していた私は、直ちに両紙に電話をして、訂正するように忠告した。しかし、両紙はともに、訂正しなかったのである。その後にも、様々な事情が重なったが、私は、両紙の自宅配布による購読は中止した。当時の経過を簡略に記すと、業を煮やした私は、この問題をきっかけにして、個人新聞『フリージャーナル』を創刊し、この問題からイキナリでは、以下にも喧嘩腰で具合が悪いので、創刊号には、アメリカのCIAとクウェートの内務省の密約を配し、2号(1991.11.30)で、この地図「誤報」問題を特集した。翌年発行の拙著 『湾岸報道に偽りあり』(汐文社、1992.5.28)でも、p.241-244に、この「誤報」批判を記した。

 この地図に関しては、『読売新聞』(1991.11.2)が最も歴史的な事実に近く、以下、『日本経済新聞』(1991.11.1)、『東京新聞』(1991.10.27)、『毎日新聞』(1991.10.30)の順で、段々と粗雑にはなるものの、ここまでは「1947年の国連(正しい訳は諸国家連合)分割決議」の区域を示していた。『産経新聞』(1991.10.31)には、「第1次中東戦争の停戦もしくは第3次中東戦争の占領」の区域しか記されていなかったものの、説明なしだから、間違いとは決め付け難かった。

『赤旗』の方に関しては、当時、私は、日本共産党に籍があったから、いわゆる「党内闘争」としても、可能な限りの努力をした。その経過は、別途、本誌連載の前記「元日本共産党『二重秘密』党員の遺言」の掲載を再開して、そこで詳しく記す予定である。

 簡略に述べると、両紙ともに、いわゆる優等生型の「沽券」意識が予想以上に強固だった。それを確認してしまった時の私の脳裏には、もしも日本で、日本共産党が政権を握る「平和革命」が実現し、多党制の政治形態を維持したとしても、『朝日新聞』が友好関係の“心情左翼型”「野党」の肩を持って部数拡大するような場合、かえって、両々相待って、ジジジジワっと新型スターリニズムが形成され、私のような疑り深い不良分子は、必ずや抹殺されるだろうという「恐怖の実感」が、ズズズズズッと広がったのである。

 ああ、優等生は怖い!

 これだから、いまだに、嘘は付き放題の戦時謀略が、まかり通るのである。

以上で(その14)終り。次回に続く。


ユーゴ連載(その15)喧嘩両成敗に陥る無精な自称平和主義者
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