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翌朝、大日本新聞の長崎初雄記者は、トーストをかじりながら自社の朝刊に目を通していたが、突然、うなり声を上げた。
「うん。これだッ」
目の前に広げられた社会面の中段には《最高裁長官弓畠耕一氏/心臓発作で死去》の記事があった。
顔写真はなかった。だが、長崎は警視庁担当になる前の2年間、裁判所の司法記者クラブにいた。そのころの記者会見で、東京高裁の長官だった弓畠耕一とは何度か顔を合わせたことがあるのだった。裁判所の広報課が配る略歴入りの顔写真を使ったこともある。名前を見た刺激で、その映像記憶がよみがえったのだ。
「道理で、見覚えのある顔だったわけだ」
記事はさり気なく〈持病の心臓の不調を訴えて1週間前から天心堂病院に入院中であった最高裁長官の弓畠耕一氏(70歳)……〉と報じていた。
「ようやるよ。あの連中」
長崎の頭部はコーヒー沸かしに化けた。カッカッと血が昇る。押さえられていた好奇心とスクープへの功名心がムクムクと湧き上がる。
〈もう我慢できないぞ。ようし、徹底的に調べ上げてやる〉
手始めに浅沼刑事をつかまえることにして、新宿署に電話をかけ、駅前の喫茶店で落ち合う約束をした。駅の売店で毎朝新聞と日々新聞を求めてみると、いずれもほぼ同じ取り扱いで、一様に顔写真がなかった。記事を示すと浅沼は、
「えっ、本当ですか。昨日の死体が最高裁長官ですか」
「間違いない。それに、昨日も箝口令、その前の奥多摩の死体発見も箝口令。新聞発表にも押さえが利いている。絶対にこの2つの事件が関係しているとにらむね、おれは。ねッ、浅沼さん。ケ・イ・ジさん、よッ!」長崎は浅沼の肩をポン、ポン、とたたいた。「なにか隠してるんじゃないの。水臭いよ。一緒に聞き込みやった仲じゃないの」
「実はその、箝口令がとても厳しいんですよ」最初は浅沼も一応渋っていたが、すぐに嬉しそうな顔になり、自分の単独捜査の秘密を打ち明け始めた。「タイヤの……。ランドクルーザーの……。チーターの……」という手柄話を、やはり誰かに聞いて欲しかったのである。
「やりましたね、新米刑事さん。そうか。やはり2つの事件は関係があったんだ」長崎の目は輝いた。「それだけじゃないぞ。弓畠耕一にはなにか重大な秘密があったんだよ。この記事では1週間入院していたことになっているけど、これは明らかにウソッパチだ。その間、弓畠耕一は一体どこにいたんだ。最初の殺しの発見からでも3日間だよ。もし、あの家の中にいたとすれば、なにをしていたんだ。ほかに誰がいたんだ。ランドクルーザーを運転していたのは誰なんだ。なにも分かっていないのに、なんで、箝口令だけが先に決まっているんだ」
「最高裁長官が失踪とか変死とか、具合が悪いからじゃないですか」
「それだけかね。仮にそれだけだとしても、失踪と変死の原因はなんなんだ。それに、奥多摩の死体発見の方が先だよ。あの死体が我々の推測どおりに中国残留孤児の西谷禄朗、中国名は劉玉貴だとすると、西谷と弓畠耕一はどういう関係なんだ」
「そうだ、長崎さん。最初の箝口令が出たのは、僕らが例の背広のプレゼントの話、つまり中国残留孤児の可能性を嗅ぎ出してからです。それまでは普通の事件と変わらなかったんですよ。田浦さんものんびりしていたし、……そのへんが鍵じゃないですか」
「うん。中国残留孤児と最高裁長官の関係か。よしっ。おれは角度を変えて弓畠耕一の身元を洗い直してみる。浅沼さんは厳しい箝口令じゃ動けないな。今日はありがとう。こちらもお返しに、いいこと教えとこう。きっとヴィデオ・テープになにかあるよ」
「ヴィデオ・テープですか」
「分かんないの」
「ああ、ああ……。そういえば、現場に包み紙らしいものが残されていましたね」
「そう。問題はだね、そのヴィデオになにが録画されているのか、だな」
「おかげさまで、皆さますでに新聞発表をご覧のことと思いますが……」
冴子は《お庭番》チームの全員がそろうと、直ぐに本題にはいった。
「弓畠耕一最高裁長官の失踪事件に関しましては、本来ならば、残り火をどうやって上手に消すかという段階に至ったわけです。自殺か他殺かとか、犯人さがしとかは私たちの仕事ではございませんので、新聞記事どおりに事態が収まれば結構なのです。ところが、かなりの飛び火がありまして、後始末が意外に厄介な仕事になりそうですので……」
冴子は普段以上にクールな声を出そうと努力していた。荷の重さをはね返したくて逆の態度を取っているわけなのだが、問題はそれだけ複雑になっていた。
「出入国管理局と航空会社の調査結果ですが、千歳弥輔の今回の入国は1ヶ月前からで、5日前まで日本にいました。乗った飛行機は北京行でした。北園夫妻は3日前に東京国際空港を発って香港に向かいましたが、5日前には北園和久名義のランドクルーザーがハルビン向けの貨物として飛行機に積み込まれていますから、本当の目的地はハルビンで、人間の方は中国内陸への入国ビザが取りやすい香港ルートを選んだものと思われます」
「そうでしょうね」小山田がつぶやく。いささか放心状態である。
「では、なぜか元気のない小山田さん。長官のお葬式準備に至るまでの経過を話して、少しはストレスを解消してください」
「いやいや、私としたことが、新米刑事のいたずら半分に出し抜かれまして、面目ない。実は昨日の会議の直後に……」小山田はげっそりした顔。前日の白昼の悪夢の瞬間から夕方までの出来事を物語った。「こちらにも新聞記者と新米刑事の後始末が残っているわけです。両者ともに尾行の刑事をつけてありますが……」
「いや、しかし、御苦労さんでした」絹川がなぐさめる。「ともかく死体発見の現場には間に合ったんですから、さすがはベテラン刑事。孤軍奮闘に敬意を表します」
「同感、同感。お疲れさまです」と智樹。「本命の最高裁長官のスキャンダルは、これで一応世間の目からは隠せたんですから」
「皆さん、ありがとうございます」小山田はしばし頭を下げ、出てもいない涙をぬぐう素振りを見せ、やっと普段の調子にもどる。「ええ、では鑑識結果をまとめて報告します。……まず、死者が都合2名ですね。解剖所見はまだ報告してませんでしたが、西谷禄朗は他殺に間違いありません。西谷の死因は窒息だけです。手で絞めた跡が明瞭に残っていますから、原因は扼殺と断定できます。弓畠耕一の死亡時刻は大体、西谷より2日のち。他殺か自殺かは決定し切れません。死因は手首の切り傷からの大量出血だけでした。現場に残されていた刃物は、そこらのスーパーでも売っているドイツ製の安全カミソリの刃だけをはずしたもの。付着していた指紋は弓畠耕一のものだけ。しかし、死体の指紋をくっつけて自殺に見せかけるのは、当節、子供でも知っているトリックの1つです。他殺と仮定した場合、肺に水がはいってなかったので、浴槽に押し込んで溺死させてから手首を切ったのではない。体内から薬物は検出されませんでしたから、薬で眠らせてから自殺を偽装したという線もない。しかしまだ、浴槽に押し込んで手首を切り、顔を水に漬けることなく、出血で失神するまで押さえつけたという線が残っています。浴槽の外にはまったく血の痕跡は残っていませんでした。ですから、暴れて血が飛び散ることのないように、しっかり押さえつけていたことになりますが、その可能性はなきにしもあらずなんです。額に軽い引っかき傷がある以外にも、争った形跡が全身に何ヵ所か残っています。弓畠耕一は70歳ですが非常に頑健で、日頃も毎日木刀の素振りを欠かさなかったそうです。殺されると思えば、かなり抵抗をしたはずです。浴槽に押さえ込んで殺すまでには、打撲傷、打ち身の内出血、擦過傷、ガイシャが全身傷だらけになっていても不思議ではありません」
「つまり、他殺の可能性を完全には否定し切れずですか」と絹川。「しかし、西谷禄朗と弓畠耕一とが同じ犯人もしくは犯行グループに殺されたと考えると、おかしくはありませんか。解剖所見では西谷禄朗の方が2日前ぐらいに死んでいるわけでしょ。犯人らはすでに1人殺している。そのうえに、死体発見の新聞報道も見ているとすれば、もう1人殺すのに、こんなに手のこんだ自殺の偽装をする必要があるでしょうか」
「犯行グループが別だということは考えにくいですね」と智樹。「偶然にしては時間的に接近し過ぎていますから」
「自殺の可能性も充分あるわけでしょ」と冴子。「全身の傷はそれ以前についていたものかもしれませんし」
「別の事件だという可能性は非常に低いですね」と小山田。「弓畠耕一は少なくとも最初は電話で呼び出されて、任意に犯人らに接触していると考えられます。北園和久の持ち家で死体が発見されていますから、電話の声の主はまず妻の北園亜登美に間違いないでしょう。しかし、北園姓を名乗れば北園留吉を思い出されて、警戒されたでしょう。むしろ、北園という名前は隠したんじゃないでしょうか。弓畠耕一を呼び出すことができたのは、禄朗の名前だけです。禄朗の存在は大きいんですよ。弓畠耕一と西谷禄朗を結ぶ太い線を考えなければ、この事件は解けないのではないでしょうか」
「では誰が西谷禄朗を殺したか」と絹川。「北園和久が異父弟の西谷禄朗を殺したと仮定すると、動機はなんでしょうか」
「やはり弓畠耕一との距離の違いがあるでしょう」と小山田。「北園和久が千歳弥輔から話を聞いて、父親の最後に関して弓畠耕一が果たした役割に疑惑を覚えたとする。この仮定に立つと、北園和久にとって弓畠耕一は父親の仇です。ところが西谷禄朗にとっては、弓畠耕一は血のつながる父親です。息子が父親の味方をして助け出そうとする。そこで、母親を同じくする北園和久と西谷禄朗が相争う悲劇に、というのはどうでしょうか」
「うん、うん。しかし、まだ決め手に欠けますね」と絹川。「決め手なしに可能性を考えると限りがない。容疑者を逮捕して供述を取る。裏づけの物的証拠を捜す。この種の事件は、そうでもしないと解決しませんね」
「それがなんと、バッチリ物的証拠がありそうなので、かえって大変なんです」小山田が目玉をギョロリ。「ヴィデオ録画が残っているかもしれないんです」
「ヴィデオ? ……まさかアダルトでは」と絹川。「ついこの前にも、侍従長がソープランドで本当に昇天しちまって、あれはもう隠し切れなかったんですが……。まさか最高裁長官がそんなことを……」
「いえ。それはまさかと思いますが……」小山田もニヤリ。「現場の屑籠の中にヴィデオ・テープ2本分の包み紙が捨てられていたんです。鑑識の割り出しでは、中身は両方とも同じNCT社の製品で90分ものの撮影用SVHS……」
〈サツエイヨウ・エス・ヴイ・エッチ・エス〉と小山田がいかにもいいにくそうに発音すると、早速、絹川が呼応する。
「なんですか。その、舌をかみそうな、〈撮影用SVHS〉ってのは」
「アハハハハッ……」小山田は持ち前のほがらかさを少し取りもどした。「絹川さんも、やはりご存知でない。それで拙者も安心いたしました。ハハハハッ……いやあ、このハイテクとかOAとか、語源はメチャクチャだし、つき合うのが大変ですよ。SVHSってのは、スーパーVHSですね。高画質だとか音声デジタルだとか面倒臭いんですが、……ともかく従来のVHSより性能が良いんです。それと、撮影用というのは、テープの部分だけがカプセルになっているんですね。テレヴィ受像機で再生して見るときには、普通のヴィデオ・テープと同じ大きさのカセットにはめ込むんです」
小山田は両手の指を総動員して、カプセルとかカセットの大きさの違いを示す。
「なるほど、なるほど」絹川がうなずくのを確かめた小山田は、自分でもわざと重々しくうなずき、さらに鼻をうごめかしながら続ける。冴子がその様を見て両手で顔を覆い、懸命に笑いをこらえている。やっと一同、いつもの調子を取りもどしたようだ。
小山田が元気に胸を張って続ける。
「今までに分かっている事実から可能性の高い推測をしますと、北園和久らが弓畠耕一から40数年前の張家口での軍法会議の状況を聞き出そうとした。そうだとすると、弓畠耕一の告白をヴィデオに撮るというのは当節では自然の発想ですね。北園は父親の無実の罪を晴らしたいわけです。もしかすると、撮ったヴィデオをテレヴィ局に持ち込む、ということが充分に考えられます。新製品のSVHS用ヴィデオ・カメラは高価ですからね。同じ新製品でも、安くてハンディーな8ミリを選ばずにSVHSにしたのは、テレヴィ放送用に高画質を確保したいと考えたからかもしれません。もちろんSVHSでも、放送局が使っている業務用のものよりは画質は落ちますが……」
「うむッ。これは大事件」と絹川。「これまでのスキャンダル隠しの努力が一発でふいになる。そればかりじゃない。〈あの新聞発表は『スパイ大作戦』ばりのフィクションだ、最高裁長官の失踪と変死の隠蔽を演出した秘密謀略組織の正体は〉なんて……」
「あらっ、私たちにハイライト。ゾクゾクしますけど……」冴子の目が雌豹の光を放つ。「でも、すでに私にも手が回っているんですよ。それだけじゃ済まない感じなんです」
「なんですか。まだ脅かすのですか」絹川が細い肩口をさらにせばめてみせる。
「はい。不肖私が皆さんを代表いたしまして、すでにこってりと脅かされて参りました。……昨晩、憲政党幹事長清倉誠吾さんの激励パーティーが開かれておりまして、急なご指名で私、いやいやながら参加いたしました」
「イブニングドレスをお召しで」と絹川。
「はいっ」冴子は部屋の隅のロッカーを指差す。「いつでも用意してございます。ここのお若い皆さんからはちっともお声がかかりませんけど、私こと、ミズ内閣官房と呼ばれておりましてね、政財界のご老人方には大変モテモテなんですのよ。オホホホホッ……」
前日の午後5時過ぎ、冴子は天心堂病院の手配を終えて、ひとまずホッとしていた。
デスクの上のコーヒー沸かしでモカ・ストレートを入れ、ひろがる香りを楽しむ。カップにそっと唇をつけて、ゆっくりと味わう。そこへ検事総長から電話がかかってきた。
「陣谷弁護士が至急君に会いたいそうだ。一緒にパーティーに出てもらえんだろうか」
言葉遣いこそ丁寧だが、実際には有無をいわさぬ命令口調である。パーティー会場はホテル新世界の芙蓉の広間だという。
冴子は会場に着くなり陣谷を目で探した。話が済み次第、様子を見て適当に抜け出すつもりだったのである。陣谷は舞台横手で、憲政党の幹部連中や法務大臣、法務省OBらと談笑していた。冴子と一緒に会場にはいった検事総長も、そちらを目指して歩き始めていた。冴子は早速、検事総長のお供の風情でつき従い、陣谷たちに近寄った。
陣谷は冴子に目を止めて軽く会釈したが、すぐには動かなかった。冴子も周囲の顔見知りにひとわたり愛嬌を振りまいた。主客の清倉誠吾も姿を現わし、冴子にウインクを寄越した。冴子が応えてニッコリ笑ったとき、背後から軽く肘をつっ突かれた。振り向くと陣谷が立っていた。普段から底知れぬ感じの不気味な老人なのだが、このときは特に、冴子でさえ一種異様な圧迫感を覚えるものがあった。
「いやあ。相変わらずお美しい」聞き馴れた台詞が、いかにもわざとらしい。
「お上手、お上手。その手には乗りませんよ」
「なにを、なにを。人の言葉は素直に聞かなくっちゃ。私も是非一度、ダンスのお相手をお願いしたいと思っているんですが、生憎と、こういう野暮な演説会ばかりで残念です。ウハッハハ……。空手の方はどうですか。上達しましたか」
「はいはい。すでに凶器の登録済みですから、ご用心ください」
「怖い、怖い。いよいよ名実ともに巴御前ですね。そのうちに、日本のサッチャーは空手5段なんてニュースが拝見できるのかもしれませんな。楽しみにしてますよ」
「ご冗談ばっかり」
「ところで、あなたにお見せしたい本がありました。ちょっとあちらに……」
陣谷は有無をいわさず目で冴子を促し、会場脇の扉を押した。廊下のソファに冴子を座らせ、自分はクロークから本を1冊取ってくる。部厚い英文の法医学書であった。陣谷は冴子の隣に座って本を広げ、さも本の中身について話しているような芝居をする。冴子も調子を合わせ、笑顔を絶やさないようにした。本のページの上で陣谷の両手の指がしきりに動くのが、重々しい言葉遣いとは裏腹の、心中のあせりを表わしているようだった。
「先日も絹川君に注意したんですが、お耳に達しましたかな」
「はい」
「先ほど、警視総監から弓畠長官のご最期の状況についての報告をいただきました。あなたが見事に処理をされたそうで、ご苦労さまです。残る問題は、なにかがヴィデオ・テープに収録されたという可能性です。内容如何で危険なことになります。ヴィデオ・テープを確実に押さえると同時に、その存在については秘密を守れるメンバー以外には絶対に漏れないようにすること。これ以上はいいません。ほかのメンバーにも徹底させてください」
「はい。分かりました」
冴子は、陣谷の態度や会話の内容を、できるだけ正確に伝えようと努力した。
陣谷の話は聞いた直後に反芻し、念のためトイレにはいってメモまで取っておいたのである。冴子はこの際、細かいニュアンスが重要だと思っていた。陣谷は《お庭番》チームの協力を必要としているが、詳しい事情を告げるつもりはない。冴子がそういうと、
「つまり、マスターズ・ヴォイスに乱れあり、という状況ですね」絹川がニヤリ。「しかし、問題は、我々も危険な仕事を請け負う以上、事態を正確に知る必要があるということ。肝腎な点は知っておかないと、余分な危険を冒すことになりますよ」
「私にも予感があるんです」と智樹。「弓畠耕一の個人的なスキャンダルの裏側に、生アヘンをめぐるさらに大がかりな長期にわたるスキャンダルが見え隠れしている。連鎖反応を恐れる連中がいる。陣谷さんが動くということは、最高検OBも関係しているということでしょう。しかし、それだけでしょうか。司法関係は決して権力の主流ではありません。もっと強力な組織が背後に隠れているような気がするんです」
「そうなのね。でも……」冴子が首をかしげる。「私が陣谷さんから受けた感じは違うのよね。昔のアヘン謀略の古傷に触れられたくないとかじゃないの。あの人の雰囲気には、たった今、自分が人を殺してしまったみたいな絶望感があったのよ。ほら、法廷で殺人犯から受ける感じがあるでしょ、あれよ。……それに、陣谷さんの名前は、今までのアヘンの話には出てこないでしょ。たとえ当時の地検の隠退蔵事件特捜部の立場で関係していたとしても、あれだけの古狸がなんの物的証拠も残っていない昔話だけで舞い上がるとは思えませんわ。マスコミ対策だって、結構お得意なんですから」
「うん」絹川も細い首を振る。「私も今になって、そんな気がしてきた。陣谷さんの動きは最初から早すぎたし、私に対しても、いつになく強圧的だった。うん」
「そこでますますヴィデオの内容が問題になってくるんですが」と冴子。「まだ重要な関係者が残っています。千歳弥輔です。ハルビンの西谷奈美と禄朗を日本にいた北園和久と結びつけたのは、千歳弥輔でしょ。それに、本来なら身元の判明している禄朗には調査団への参加資格がないのに、なぜ参加できたか。これも千歳弥輔の存在なしには説明できないと思います。最初の生アヘン事件とも関係があるし、意外にも、事件の鍵を握る人物なのではないでしょうか。ヴィデオ撮りの計画にも千歳が関係しているのではないか。もしかすると、まだまだ深い背後関係があるのかも……」
「うふんっ、えへっ……」突然、智樹が咳払い混じりの大声を出して、一同の注目を集めた。
「そのことなんですがね。実は私が直接、千歳弥輔さんに会見を申し入れてみようかと考えているんですが……」
「影森さんが直接……」冴子はけげんな顔。「というと、なにか心当たりでも……」
「はい。それが、……私事にわたるので今まで黙っていたんですが、私の父親の名前を出せば千歳弥輔さんから、なんらかの反応があるのではないかと……」
「えっ……」一同、口をアングリ。
「私の父親は千歳さんたちと一緒に蒙疆政権の首都に当たる張家口にいたんです。この前、弓畠耕一の軍歴調査の報告をしましたが、その調査のとき、ついでに確かめてきました。法務将校の弓畠耕一と北園留吉、上等兵の千歳弥輔、皆同じく張家口の蒙疆駐屯軍司令部の所属ですが、その張家口の守備連隊の隊長が私の父親だったのです」
「それはまた奇縁ですね」と絹川。「影森さんがいやに蒙疆のことにお詳しいなと思ってはいましたが、それが主な要因ですね」
「はい」と智樹。「私も家族として、一緒に張家口にいたわけですから。……それで今回調べてみたら、父もあの生アヘン盗難事件で監督不行届きの訓戒処分を受けていました」
「ええっ。それじゃ、ますます、……分かりました」冴子がメモ用紙を取り出す。「早速、私が千歳さんと連絡を取ります。お父上のお名前と当時の階級を教えてください」
「お願いします」と智樹。「影森繁樹。繁茂のハンに樹木のジュ。当時は大佐です。そのごに、いわゆるポツダム少将になりましたが、千歳さんには守備隊長の影森大佐の方が思い出しやすいでしょう」
「それでは」メモを終えた冴子がまとめにはいる。「これ以上詳しい分析は現在では無理だと思います。それより、明日の弓畠長官の告別式には皆さんお出になって、少し目を光らせていただけませんこと。……意外な人脈が見えてくるかもしれませんわよ」