『最高裁長官殺人事件』

第二章 キーワードは蒙疆アヘン

「私は愚かな女です」奈美はさめざめと泣く。

 久し振りに日本語を話すせいであろう。言葉を探しながら覚つかな気にゆっくりと発音するために、なおさら深い悔恨の思いが感じられた。

 風見達哉は、智樹の頼みでハルビンに飛んだ。奈美は、ハルビン市内で夫の李英財と共に薬局を営んでいた。薬局の入口の横に、薬の調合を待つ客用の作りつけの木製のベンチがあった。そこで達哉は西谷禄朗の不慮の死を告げた。先ずは驚きと悲しみの叫び、号泣であった。夫の李英財も、もらい泣きしながら奈美の両肩を抱え、ハンカチで涙をぬぐっては慰めていた。しかし達哉はさらに、禄朗の父親である弓畠耕一の行方不明をも告げなくてはならなかった。

「弓畠さんも……」奈美は息を飲む。

「それだけじゃないんです。もう1人のあなたのお子さんの北園和久さんも、奥さんの亜登美さんと一緒に行方知れずなのです」

「どういうことなのでしょうか。……私にはなにも分かりません。和久さんには、こちらから王文林さん、千歳さんが連絡を取ってくださったんです。千歳弥輔さんのことはご存知でしょうか」「はい。知っています。ですが、それ以外の事情、……失礼ですが、弓畠耕一さんとのご関係を、もう少し知りたいのです」

「お恥ずかしいことで」奈美は微かに身をよじり、顔を伏せる。

 頬に赤みが差している。60代の終わりに近いはずなのに、奈美の全身にはまだまだ女の色香が漂っていた。泣き腫らしているが、二重瞼の目は大きく、色白で華やかな顔立ちである。白髪も少ない。地味な身なりなのがかえって、若い頃の美しさを偲ばせるに充分な顔立ちを目立たせている。悲しみの中に現われた奈美の羞恥のしぐさも達哉をギクリとさせた。

 ちょうどそのとき、客がはいってきた。李英財はそっと立ち上がって、そのまま調薬室に止まり、もどって来なかった。

「夫は朝鮮系で日本語が良く分かります。気を利かせてくれたのです」奈美は涙ぐみ、ひと呼吸する。「北園は突然憲兵隊に連れて行かれました。理由は教えてくれません。それで、弓畠さんに助けをお願いしたんです」

「弓畠さんは前からのお知り合いですか」

「はい。一緒に法務官として入隊した仲ですので、主人の北園とは一番親しい間柄でした。私たちが知り合う前からの仲です」

「ご主人も法務官だったんですか」

「はい。司法科試験の合格が一緒の同期です。出身大学は違います。北園は中央大学、弓畠さんは東京帝大でした。歳は北園の方が2歳上でしたが、大変仲が良かったんです。兄弟のように。それで……」奈美はまたかすかに身をよじった。「ハルビンの日本人町のお茶会で2人と知り合いまして、……2人ともお仲人さんを立てて結婚を申し込まれました。両親も私も困ってしまって、……両方のお仲人さんにお越しを願って相談したんです。それで結局、本人の私の気持ちはどうなのか、と聞かれました。私は、北園の方が落ち着いていて優しそうでしたので、そう申しました。2人のお仲人さんは北園と弓畠さんを一緒に呼んで、どちらとも甲乙つけ難いから年の順で決めた、恨みっこなしにしろといい渡されたそうです。弓畠さんはそのごも私に、大事にされてるか、不満があればおれが貰い受けるぞ、なんて冗談おっしゃって……。そういう関係でした」

「なにかあれば一番先に相談する関係ですね」

「はい。特にその頃は親元のハルビンを離れて、奥地の張家口の駐屯地におりましたから、ほかには知り合いもいませんでした」

「ご主人の容疑はなんでしたか」

「軍需物資を横流ししたとか、部下の敵前逃亡を助けたとか。……その部下というのが、千歳弥輔さんのことなんです。千歳さんは以前に北園の当番兵をしていたことがあって、私も良く知っている人でした。数年前に千歳さんと再会するまでは事情が分かりませんから、ずいぶんと千歳さんを恨んだものです。あとから千歳さんに聞いた話では、確かに脱走するときには、武器弾薬や医薬品をリヤカーに積めるだけ積んで持って行ったそうです。だけど、北園の助けを借りたという事実はなかったとおっしゃってました。……千歳さんは学徒動員兵ですが、士官候補生になるのを自分から断わられたそうです。前からそういう思想をお持ちの方でしたから、まわりの人に迷惑を及ぼしてはいけないと思って、脱走はまったく1人で決行なさったそうで、……どうして北園に嫌疑がかかったのか、不思議だとおっしゃってます」

「本当は無実だったということですね。軍法会議の模様は分からなかったんですか」

「まったく分かりませんでした。弓畠さんにお願いしたのですが、私はなにも事情が分からず、弓畠さんにお世話になるばかりで……」

 奈美は話しながら、恥ずかしさにほてる自分の胸の内をどうしようもなかった。本当のことは今まで誰にも話したことがないのだ。

 北園が憲兵隊に連行されてから3ヶ月経った。あの吐く息も凍る真冬の日々、1歳になったばかりの和久を満人の乳母に預け、毎日のように憲兵隊通いをした。憲兵隊は黙って差し入れを受け取る。なんの返事ももどってこない。冷たい、トゲのある視線を向けられるだけだった。そのあとで法務隊の弓畠の部屋にたどりつくと、それだけでホッとしたものである。当番兵がいる入口の控えの間を通って奥の個室にはいると、ストーブの胴が赤々と灼熱していた。毛皮を敷き詰めたソファに座り、熱い紅茶にたっぷりと砂糖を入れて飲んだ。民間人に非常時、非常時といいながら、軍の上層部はなんでも持っていた。

「奈美さん。君までが参ってしまってはいけない。僕にまかせて気楽に待ちなさいよ」

 弓畠は何度もそういった。そしてある日、当番兵を使いに出すと、奈美と並んでソファの右脇に座った。

「奈美さん。北園は馬鹿な奴だよ。君という人がいながら、なんであんな危険なことをしでかしてしまったのか。僕は理解に苦しむ」

「あの人は本当に……」

「これ以上のことは君にもいうわけにはいかない。僕はなんとか北園の罪を軽くするように努力するよ。君のためだ。たとえ僕までが危険思想の疑いをかけられようとも、君のためなら耐えていくよ」

「弓畠さん。本当に済みません」こらえていた涙がボロボロとこぼれ落ちる。

「いや、良いんだ。奈美さん。僕は君が悲しむ姿を見たくない。僕が君のことをどれだけ思っているか、君も良く分かっているだろ」

 弓畠はポケットから白いハンカチを出して、奈美の涙をそっとふいた。右手で涙をふきながら、左手が奈美の肩を抱いていた。奈美は自分の腰から力が抜けて、そのまま弓畠に寄りかかっていくのを知りながら、どうしようもなかった。奈美の心の隅には確かに、これはいけないことなのだという意識があった。しかし、心細い日々の間に、一日も早く終着点に着きたいという切ない気分が強まっていた。誰かに助けを求めて安心したい、すべてをまかせ切りたい、崖っ縁につかまった手を離してしまいたいというような、せっぱ詰まった気持ちの毎日であった。先のことはもうなにも考えたくなかった。

「いけないわ。いけないわ、弓畠さん」

 そうつぶやきながら、奈美は弓畠の手を許し、唇を許し、次第にすべてを許していた。 そういう関係が2ヵ月ほど続いた。弓畠の宿舎にも忍んで行った。北園の優しさとは違う弓畠の力強さ、強引さに惹かれていく自分に、奈美は罪の意識を募らせながらも、それだけにかえって、弓畠に会っていなければ不安になるのだった。

 北園が銃殺刑に処せられたことは、処刑が終わったのちに知らされ、白木の箱だけが帰って来た。奈美は一挙に、非国民で犯罪者の未亡人という立場になっていた。和久を乳母に抱かせ、自分は白木の箱を抱えてハルビンにもどった。その足で北園の実家に挨拶に行ったとき、つわりが始まった。北園が憲兵隊に連行されてからの経過は手紙で知らせていた。北園の父親も張家口まで陳情に来たことがある。妊娠の日付のおかしさは直ぐに気づかれた。

 それからがまた恐ろしい日々の連続であった。奈美は北園家から離縁を申し渡された。和久は取り上げられた。奈美は実家の片隅で座敷牢にはいったような毎日を過ごした。

 8月15日には臨月のお腹を抱えてラジオ放送を聞いた。

 

「離縁だけで許していただけました」

 奈美の肩は今でも耐え続けているかのようにちぢこまった。

「敗戦で大急ぎの引き揚げが始まりましたが、私は臨月で動けません。母が、お店ではたらいていた中国人の劉さんに私を預けました」

「お店、というのは」

「西谷薬業商会といいまして、薬種問屋と薬局と医療器械販売店を兼ねていました。父は裸一貫で満州に来ました。最初に日本人の一旗組が皆やったようにアヘン商売で身を立てて、アヘン窟の経営までやりました。アヘンからヘロインやモルヒネを作る製薬会社も起こしました。結婚して子供ができると、世間体を考えて段々とアヘン関係を減らし、製薬会社と薬種問屋、医療器械販売に切り替えていったのです」

「その会社やお店はどうなったんですか」

「なにもかも捨て値で手放したようです。お店は劉さんに譲って、私とお腹の子供もおまけに引き取ってもらったわけです」奈美は寂しく微笑んだ。「私は劉さんの娘だということにしてもらい、劉淑琴という名前もつけていただきました。劉玉貴が生まれたのは9月9日でした」

「その間、弓畠さんとはお会いにならなかったのですか」達哉は聞きにくいことを聞かなければならない自分が恨めしかった。

「いいえ。1度もお会いしませんでした。処刑があったことを聞いて以後、お会いしてはご迷惑だろうと思いましたし……」

「弓畠さんからも連絡はなかったんですか」

「はい」奈美はもう泣かずに淡々とそのごのことを物語った。

 敗戦はソ連軍の支配でさらに現実的になった。次は中国の国共内戦であった。禄朗の乳離れを待って日本に帰るつもりが、1日延ばしでそのままになってしまった。迷っている間に劉家の主人が、古くからの店員の李英財と一緒にならないか、と再婚話を持ちかけた。李英財は奈美と同い歳である。朝鮮生まれだから強制的に日本語教育を受けさせられている。15歳の少年の頃、満州に仕事を探しに出てきて、西谷奈美の父親の店に住み込みで雇われたのであった。劉家は2人の結婚を祝福した。今の薬局も劉家の援助で独立して営むようになったのである。2人の間には3人の子供ができた。

 玉貴は戸籍上では淑琴の弟になっていた。成人するまでは本人にも真実は明かさなかった。玉貴が20歳になったとき、初めて自分が本当の母親だと告げた。

「禄朗さん、いや劉玉貴さんに父親のことを教えたのは、いつ頃ですか」

「ずっと教えなかったのですが、四、五年前から、しきりに日本に行きたいといって相談に来るようになりました。名前まで考えて……禄朗という名前は、玉貴が自分で考えたんです。玉貴は最初から劉家の息子として育てられましたから、日本名はなかったんです」奈美の目が宙をさまよった。「そのご、千歳さんがいらっしゃって、本人が望むのなら父親が誰なのか教えるべきだと……私はそのお考えに従ったのですが、それが正しかったのでしょうか。玉貴は日本に行きさえしなければ、死ぬこともなかったでしょうに」

「それは運命です。誰にも先のことは分かりません。禄朗さんのお仕事は……」

「小学校の教師でした」

「ご家族は……」

「同じ小学校の教師と結婚して、子供が3人います」

 

 帰り道は夫の李英財が送るという。達哉がホテルの名をいうと、軽くうなずいて先に立って歩き出した。

「方角さえ分かれば1人で大丈夫ですよ」

 達哉が遠慮していうのに、李英財はまた黙ってうなずくだけで、そのままサッサと進む。四角張った顔の李英財は見るからに実直そうだった。達哉もその場に合わせて話題を探すのが下手な方だから、道中は2人とも無言のままであった。ホテルが見えてきたので立ち止まって、別れのあいさつをしようとした。

「李さん。ありがとうございました。奥さんを悲しませて済みませんでした。よろしくお伝えください」

 李英財も立ち止まったが、ひたと達哉の顔を見る。

「風見さん。実は、少しお話があるのです。淑琴の前ではいえなかった話です」

 李英財の日本語には朝鮮人特有のなまりがあった。堅苦しい話し方だが、何度か頭の中で文章を練ってから話しているという感じがした。達哉はその話し方に胸騒ぎを覚えた。

「そうですか。それで、わざわざ」

 ホテルの食堂で話を聞くことにした。コーヒーをひと口飲むと、李英財は思い切ったような顔つきで口を開いた。

「風見さん。私は朝鮮人です。中国籍を持っていますが、朝鮮民族としての民族意識も強く持っています。お分かりいただけますか」

「分かります。私の友人にも在日朝鮮人が何人かいます。韓国籍の人もいますが」

「私たち朝鮮人の日本人に対する気持ちは複雑です。妻は元社長のお嬢さんだったのですから、なおさら複雑です。しかし、妻……昔の名前の奈美には、日本人だからとか、お嬢さんだからという、威張ったところがありませんでした。無邪気な娘でした」

 李英財の顔が少し赤らんでいた。

「そうでしょうね」達哉はうなずく。

「それで、話は劉玉貴の父親だという弓畠耕一のことです」

「えっ、弓畠耕一を知っているのですか」

「知っています。向こうは気にも留めなかったでしょうが、最初から知っています。西谷薬業商会のビルは1階の表が店で、裏が倉庫と社員寮、2階と3階が西谷一家の住宅になっていました。お嬢さんの縁談というのは皆が関心を持ちますから、北園さんと弓畠さんが現われるとすぐ噂になりました。……ところがそのご、張家口から、北園さんが憲兵隊に連行されたという噂が伝わって来ました。風見さん、分かりますか。戦争中、日本軍の動きはすぐに噂になって伝わったんです」

「分かります。情報とは、そういうものです」

「当時の中国の民衆にとっては情報だけが武器でした。威張っている日本人は中国人や朝鮮人を人間扱いしません。自分がやっていることを見られても聞かれても、気には留めません。中国語や朝鮮語の勉強をする日本人はほとんどいません。だから私たちが自分たちの言葉で噂話をしたり、情報を交換するのは、それほど危険なことではありませんでした」

 李英財の話は3段階に分かれていた。第1は戦争中の体験、第2は戦後しばらくしてからの集団的な歴史学習で聞き知ったこと、第3は王文林、元日本人の千歳に会ってから判明した話である。達哉は持参したワープロでメモをしたため、国際電話のファックスで智樹の自宅に送った。本当は、ついでに取材旅行をしたいところだったが、翌日には帰国し、さらに詳しく報告した。