『最高裁長官殺人事件』

第二章 キーワードは蒙疆アヘン

 山城総研に電話をすると、華枝はまた外出中だという返事だった。行先は分からない。

 智樹は段々と心配になってきた。華枝に資料探索を頼んで以後、事態が急速に進展した。無駄骨を折らせても気の毒だから、1度会って相談しようと思っているうちに、どんどん日が経ってしまった。華枝のマンションの留守番電話にも伝言を入れておいたのに、なんの連絡もしてこない。達哉をうらやんだり、足で取材したいという気持ちを漏らしていたのが気にかかる。危険を犯さなければ良いのだが……。

「影森さんの代わりに風見さんが中国に飛んでくださったのですが……」冴子が状況の説明を始めた。「王文林、日本名千歳弥輔さんとの会見はセットできませんでした。所在も不明というんですが、これがどうも不自然なんです。会うのを避けているんじゃないか、と疑える節があります。その点は、あとで考えてください」

 内閣官房秩父冴子審議官の部屋。《お庭番》チームの打ち合わせである。

 智樹は達哉が送ってきたハルビンからの報告メモのコピーを配り、西谷奈美と達哉との話を要約説明した。

「風見は千歳弥輔とは会えませんでしたが、代わりに、西谷奈美の現在の夫の李英財から、新しい情報が得られました。これには李英財が千歳弥輔から聞いたという話も加わっています。……西谷奈美の最初の夫である北園留吉は軍法会議にかけられ、銃殺刑となったが、当時すでに、北園がワナにはめられたという噂が立っていた。その一方、弓畠の評判は芳しくなく、弓畠が親友の北園を裏切って罪に陥れたのではないか、と噂されていた。北園は憲兵隊に突然連行される直前まで、生アヘン倉庫からの大がかりな連続盗難事件を調査中であった。ところが、北園が憲兵隊に連行されると同時に、担当法務官は弓畠に代わり、内容はうやむやのまま2名の下士官が窃盗罪で5年の禁固刑、将校若干名が監督不行届きで訓戒処分という幕引き……」

「またアヘンですか」冴子が呆れる。

「はい。また、というより、この事件はもう最初から最後まで、アヘンの海にドップリ漬かりっきりですよ。西谷奈美の父親も満州一旗組で、最初にアヘン商売をやって事業の元手をつくっているんですから」

「北園和久にも西谷禄朗にも、その血が流れているわけね」冴子は溜息をつく。

「ところが」と智樹。「戦後に内戦が落ち着いてから歴史の学習活動が始まって、さらに新しい事実が明らかになった。学習といっても教科書があるわけじゃなくて、皆が被害報告や経験を話し合うんですね。日本人のアヘン商売は一番憎まれていましたから、結構詳しい裏話が出てきたようです。生アヘン盗難事件は単なる窃盗事件ではなくて、軍の上層部と満州浪人が企んだ謀略の一部だったらしい、というんですね。張家口には蒙疆一帯で生産された生アヘンが集められていましたが、日本軍の敗色が濃くなる頃には輸送手段が確保できなくなった。特務機関の権限で軍用機まで利用していましたが、それもジリ貧ですから……。生産量は当初の目標に達していないのに、貯蔵量は増える一方。モルヒネやヘロインに精製する能力も落ちた。そこで軍の上層部に意見の対立が生じた。一派の意見は、この際、大東亜共栄圏全体へのアヘンの配給を打ち切り、ただちに蒙疆と満州のみで機密費として活用しようというものであった。これがなんと、いわゆる満蒙根拠地論の一環なんですね。満蒙根拠地論は本土決戦と一体です。米軍が日本本土に上陸した際、満州に遷都する。この満州遷都計画は中央段階でも議論されています。ドイツの降伏直後に首相官邸で大陸連絡会議という秘密会議が開かれたときに、陸軍が大真面目に提案しているんです。満州には日本人以外の諸民族がいるから、米軍は爆撃をしない。……この考えは実際に中国大陸で日本人がたくさんいた北京などに爆撃がなかったという経験からきているんです。満蒙の隣はソ連だし、アメリカは本来、日本を反共政策の同盟国と考えていた。アメリカの財閥が満州に投資する計画もあったくらいですからね、その発想は続いているわけです。いずれ米ソの後押しで国府と中共との対決が表面化するから、満蒙で背水の陣を敷くことによって新しい道が開けるという、なんとも破れかぶれの大バクチです」

「ハハハハッ……。関東軍や大陸浪人が考えそうなことだ」と絹川。「もっとも、大筋では当たっていないことはない。すぐに東西の冷戦が始まるんですからね」

「ええ。ただし、いかに日本の侵略が中国人から憎まれていたか、という認識が棚上げされているんですね。そこが一番非現実的な点なんです。……そこで、生アヘン盗難事件というのは、この満州遷都計画の先駆けだったのではないか。関東軍の強硬派が、いつもどおりの手法で勝手に使える機密費をアヘンから生み出して既成事実を作ろうとしていたのだ、というわけです。アヘンから生み出される機密費は桁はずれの大きさですからね。当時も、商工大臣の峰岸龍介が、アヘンを扱う特務機関に500万円の資金調達を依頼したのが暴露されて評判になっていました。峰岸龍介は満州で産業部次長とか総務庁次長とか日本人高官のトップを切っていたエリート官僚ですよ。A級戦犯に指名されたが無罪放免、パージ解除で首相。昭和の妖怪の異名。利権金脈の王者。今や死人に口なしですが、意外とこのあたりが陰謀の黒幕だったかも……」

「いやいや。ますます話が大きくなってきましたね」と絹川。「弓畠耕一もその一味だったということですか」

「いえいえ。弓畠は軍の位でも、当時はまだ中尉ですから。こういう極秘計画までは知る由もないでしょう。全部を知っていたのは軍でもごくごく一部の作戦参謀ぐらいでしょう。それで、……李英財が千歳から聞いたという話ですが、千歳は撫順で戦犯収容所の通訳をやっていたそうです。そこには以前の所属部隊の兵隊や将校もいた。そこで自分の上官だった北園の処刑を知り、自分の脱走が処刑の口実とされていることに責任を感じた。しかし、弓畠本人の元当番兵から聞いた当時の噂話が一番こたえた。北園夫人への横恋慕が先にあって、弓畠自身が北園を罪に陥れたのではないか、2人の様子がおかしかったというのです。これはますます許せない。どうしても事実を確かめたい。そこで調べてみると、かつての北園夫人、奈美が離縁され、ハルビンで父なし子を生んでいた」

「これは立派な動機ですね」小山田が意気込む。「王文林こと千歳弥輔には少なくとも弓畠耕一と対決して事実を告白させたい、という動機がある。北園の息子である北園和久にとっては弓畠耕一が親の仇。しかし、弓畠耕一と血がつながる禄朗の立場は微妙です」

 

「なんでいきなり編集局長なんだ」長崎はぼやきながら局長室のドアをたたいた。

「おっ、長崎君。忙しいのに済まん、済まん」

 新聞社の編集局長は現場の記者出身でなければ勤まらない。新聞記者には特有の職種意識が強くて、記者経験がないものは異端分子として排除してしまう。それだけ閉鎖的な職業なのである。大日本新聞の編集局長、高柳健作も、現場の雰囲気が自分の身体から薄れないように、極力記者風のやくざっぽい態度を維持しようと努力していた。

「早速だが、君が追ってる奥多摩の事件のことなんだ。君に挨拶せずに原稿をボツにしたそうで、……誤解があるといけないので来てもらったわけだ。デスクも部長も直接いい出しにくくなっているらしい。君が怒っているんじゃないかと心配してるんだな」

「別に怒ってはいませんよ。ただ、納得がいかない事件なんで、一応追ってますが」

「君の気持ちは分かるが、君に記事変更の挨拶が行かなかったのは現場の手違いだ。ここだけの話だが、今のとこは捜査上の秘密ということで了解して欲しい。責任は私が負う。取材については、関係各所に誤解が生ずるので中止して欲しい。分かってもらえるかな」

〈関係各所か〉長崎は胸のうちで思った。〈厚生省の態度も怪しかった。データベースには西谷禄朗の記録がなかった。なぜだ〉……しかし、口から出た言葉は逆だった。

「編集局長からそこまでいわれたら、仕方ありませんね。あきらめます。でも、事情が変わったときには私にやらせてくださいよ」

「それは当然だよ」

 編集局長から一応の言質を取って、その場は、おとなしく引き下がる。だが、〈この際なんで編集局長が直接……〉と再び思う。裏がある証拠だ。ますます自分の疑問の正しさに対する確信が強まる。到底、独自取材を打ち切る気にはなれなかった。