『最高裁長官殺人事件』

第二章 キーワードは蒙疆アヘン

 智樹は華枝のサーチ結果を、翌日の《お庭番》チーム打ち合わせの冒頭に報告した。

「やっぱり物凄いミステリーだったのね」

 冴子が一言。ややあって一同ガヤガヤと論評ひとしきり。事件の危険度の高さはますます明らかであるという再確認がなされた。

「では、よければ」と冴子。「皆さまお待ち兼ねの北園夫妻の調査結果報告がそろったようなので、小山田さんの方から」

「遅くなりましたが」小山田が資料のコピーを配る。「北園和久と亜登美の夫妻は行方不明のままですが、可能な限りのデータを探りまして一応の調査結果を出しました。和久は45歳。亜登美の43歳は推定で、2,3ヶ月以内の誤差があります。亜登美は広島の原爆被災地で軍の救出隊に拾われた孤児。血縁関係はまったく不明。名前をつけたのは孤児院の園長。アトミック・ボンムから取った名だそうです。夫妻には子供はいません」

「アトミさん」冴子がポツリ。「宿命的な名前ね。子供はできなかったのかしら、それとも、作らなかったのかしら」

「………」小山田が老眼鏡をはずし、掌で顔一面をこする。「被爆者手帳を持っていましたから……」一同、無言でうなずく。小山田は低音で続ける。「2人とも第一出版という教科書会社の編集者でした。亜登美さんは休みがちだったようです。ところが、昨年の春に2人そろって自己都合退社。以後は無職のままです。金銭面ではその前に遺産がはいっています。一昨年、2人が同居していた和久の祖母が91歳で死亡。祖父はすでに10年前に死んでいます。和久の父親の留吉はひとりっ子でしたので、唯一の相続人である和久に都合時価5億の遺産が残された。遺産といっても、ほとんどは港区麻布の宅地ですよ。昔ならどうという値段ではなかったんでしょうがね。そこでお定まりの税金対策か、和久はこの宅地を売却。埼玉県新座市の田園地帯に時価6000万円の土地つき中古住宅を購入して転居。同時に購入した外車の4輪駆動ランドクルーザーのタイヤの溝と車輪の幅は、禄朗の死体を運んだと目される車のものと一致する」

「これは急接近」と絹川。「しかし、計画性は疑わしいですね。盗んだ車を使うとか、せめて、タイヤは中古のすり減ったのに取り替えておくとか、いくらでも痕跡をくらます手はある」

「はい。確かにその点から見ると、殺しは偶発かもしれません。しかし、弓畠耕一を呼び出す計画の方は、前々から場所まで準備されていた可能性が高いのです。その手がかりになりそうなことが1つあります。北園和久は3ヶ月前に銀行で5500万円の受取人払いの小切手を作っているんです。実際の受取人を調べましたら不動産業者で、和久が東村山市にもう1軒の中古住宅を購入したことが分かりました。このあと直ぐに、私が直接行ってみます」

 

「捜査1課の田浦警部補に……」

 《お庭番》チームの打ち合わせが終わると、小山田は冴子のデスクの電話を借りて警視庁の捜査1課を呼び出した。田浦警部補が日勤だということは事前に確かめてあった。パトカーごと来てもらって、一緒に東村山の北園和久の持ち家に行くつもりだったのだ。ところが、

「えっ! 」小山田は、冴子までが驚いて飛び上がるほどの大声を出した。「なんだって。東村山で老人の死体が発見されただと」小山田のあわてようは尋常ではなかった。いったんカッと赤くなった顔色が、今度はサッと青くなる。「住所をいってくれ」といいながら自分の黒皮の書類カバンに左手を伸ばす。顎で受話器を押さえて右手でカバンから書類を引き出す。あわてていても動作には無駄がない。そこには何度も修羅場をくぐってきたベテラン刑事の凄みがあった。小山田は黙ってうなずきながら電話の声を聞いていた。顔色がさらに青くなり、目尻が吊り上がった。「分かった。おれも現場に急行する。この事件はおれが預かる。広報は完全ストップ。おれの専用車をこちらの玄関に回してくれ」

 冴子にも事態の見当はついた。

「本当にそのものズバリなのかしら」

「私が報告した北園のセカンド・ハウスと同じ住所です。ではッ」

 あいさつもそこそこに、小山田は部屋を飛び出した。

 

 東村山の現場では、田浦城次と一緒に新宿署の新任刑事、浅沼新吾が張り切って捜査に当たっていた。

 浅沼は念願の刑事と呼ばれる立場になったばかりであった。身分も平巡査から巡査部長に昇進していた。浅沼自身、捜査講習に参加して希望をふくらませてはいたものの、この急な栄転人事の裏にはなにかあると感じていた。例の奥多摩の死体発見事件は対外発表が簡単至極のままだし、自分にも内々に動くなという注意があった。その関係かな、という匂いはしたが、敢えて問い質したりはしなかった。警察という役所の中では下手に薮をつつかない心得が必要なのである。

 田浦は大先輩の小山田が突然現われたので、驚きを隠せなかった。

「またですか、小山田さん」

「そうなんだよ。またおれが預かる。現場検証も検死も最高に丁寧にやってくれ」

「それが……」田浦は声をひそめて困った顔。顎をしゃくった先のソファに座っているのが、またしても長崎記者である。「自分の社の車で追って来ました。ちょうど電話がはいったときに目の前にいたもんで」

「よし。ほかの事情はあとで聞こう。あのブンヤとはおれが話をつける」

 小山田も小声でそういって、そっと長崎に近づいた。気配で目を上げた長崎が、

「おや、小山田さん」

「うん。ちょっとそのまま待っててくれ。話がある。おれはまず仏を拝んで来るから」

 死体はまだ動かさず、風呂場の中で発見された状態のままにしてあった。

 上半身は裸だが、下はちぢみのステテコ。越中ふんどしが透けて見える。家庭用としては大き目のタイル張りの浴槽の真ん中に、膝を折り曲げた姿勢で仰向けに浮かんでいる。左の手首に切り傷があって、そこから湯の中に血が流れ出したものと見えた。血は底の方に赤黒くよどみ、脂肪分がポツポツと黄色く浮かんでいた。

「まず2日は経っているようですね」監察医がいった。

 死体の額には細い傷跡が3筋あった。資料どおりの顔、身長、体重の感じであった。

 小山田は弓畠耕一と会ったことがない。テレヴィでたった1度見たことがあるだけだった。それほど最高裁は人目につかない役所なのである。いや、裁判所全体がそうなのだ。弓畠耕一は霞ヶ関で道路をへだてた向かい側の、東京地裁にも高裁にもいたはずなのだが、その頃にも見かけたことは1度もないのだった。

〈ここにいる捜査員に仏の面が割れていなければいいが〉小山田は切に願う。〈そうだ。新聞記事は顔写真なしにしてもらおう〉

「捜査員全員に箝口令。頼むよ」田浦に念を押してから、小山田は長崎を外に連れ出した。道端に立ったまま長崎の横顔を薄目でチラリ。

「長崎さん、よッ。お互い、満更知らない仲じゃないよな」

「ええ。だけど、あの顔もどこかで見た顔なんですよね。まだ思い出せないけど」

「おい、おい。脅かすんじゃないよ」

「でもね。特捜刑事のボスが顔色変えて現場に駆けつけたんじゃ、ますます、ただのネズミと考えるわけにはいきませんよ」

「分かったよ。鋭いといっておこう。ともかく、この事件は箝口令を敷く。記事にしないだけじゃなくて、誰にも話さないで欲しいんだ。おれの顔を立てて協力してくれ。先々悪いようにはしないよ、なッ」

 小山田は長崎の肩を軽くポン、ポンとたたく。長崎はとぼけて、フッと目をそらす。

「このところ、スクープ取り逃しっ放しなんですよね。この前も朝早くから奥多摩の山の中まで出かけたのに、原稿はボツのまま。編集局長から取材ストップ命令。夜射ち朝駆けをかけようにも、相手が誰なのかサッパリ分からないし……」

 横目で小山田の顔色をうかがう。小山田はポーカーフェイスで目をそらす。

「長い間にはそういうことも何度かあるさ。あまり深追いせずにな、おれに貸しを作ったと考えといてくれよ。箝口令解除のときは真っ先に教えるよ」

 小山田は長崎に〈この事件は危険だよ〉とはっきりいいたかった。しかし、下手ないい方をすれば逆効果になるのは目に見えていた。しばしのにらみ合いののち、

「分かりました。それじゃ」長崎はカメラからフィルムを抜いて渡した。

 待っていた社の車に乗り込むと、運転手にいった。

「また警視庁にもどってください。……それから、今日ここに来たことは誰にもいわないで欲しいんです。ちょっと、取材の都合があるもんですから」

「はい。了解」

 長崎はシートに身を沈めて目をつむった。たった今見てきた現場の細部を忘れないように、記憶を再現しながら1つ1つ確かめた。鑑識課員の独り言が耳に残っていた。

「これはタバコじゃねえな。カセットテープにしては厚みがあり過ぎる。2本重ねたバーゲンの奴かな」

 年輩の鑑識課員が白手袋をはめた手で屑籠の中から拾い上げていたのは、透明なセロファン状の硬質ビニールの断片だった。証拠物件用のビニール袋にしまう前に、もう1人の若い鑑識課員が床の上に断片を並べて、くっつけたり、離したりしていた。

「2つ分かな、これは。だけど先輩、VHSヴィデオの撮影用みたいな大きさですね」

「そうかい。おれはヴィデオなんていじったことねえから、分かんねえな」

〈ひょっとして、死ぬ瞬間をヴィデオに撮ったのかな。こりゃ凄いぞ〉

 長崎はそのとき、そう思ったのだ。

〈箝口令を敷いている間にテレヴィ局にヴィデオを売り込まれたら、一体どういうことになりますかね、小山田さん〉空想をめぐらせて独りでニヤリとする。

〈もっとも、自殺とも他殺とも断定できないんだな、あの死に方は……〉

 警視庁記者クラブの大先輩の話を思い出す。

「……睡眠薬を飲んでから、ぬるま湯につかる。少し意識がもうろうとしてきた頃合を見計らって、暖かい湯の中で手首の静脈をソッと切る。鋭利なカミソリを使うことも大事な条件の1つだ。これらの条件をすべて満たすと、ほとんど痛みを感じないままに、ゆっくりと身体から血が抜けて行く。意識はますますもうろうとなる。お望みなら天国を夢見て死ぬことも可能だ。これがかつて、ある小説家が『自殺研究クラブ』で描いて評判になった《楽な自殺の方法》の1つで、そのため一時はかなり流行したものだ。だがまたそれとともに、自殺を偽装する他殺の1方法ともなった。最近では〈リスト・カット〉などと表現がカタカナになっただけで、粗雑なやり方の場合が多い。嘆かわしいことだよ……」

〈やり方が粗雑になったのは、テレヴィ・ドラマの悪影響かな。テレヴィでも、もっと芸術的にやって欲しいな〉などと口の中でつぶやいていると、

「中央高速にはいりますよ」運転手がいう。

 その瞬間、長崎は奥多摩に行ったときの道を思い出した。同じ方向である。

「済みません。道路地図を貸してもらえませんか」

 長崎は、今日の東村山の現場と奥多摩の位置関係、道路のつながり具合を眺めた。

〈2つの事件に関係があるとしたら……。しかし、最初の死体は山の中まで運んだ。今度は現場に残したまま。なにかちぐはぐだな〉

 

 現場捜査が終了する前に、小山田は通常の事件捜査と違うことを命じた。

 死体を検案車に収容するときには、道路の通行を遮断して野次馬の目を避けた。浴槽の水のサンプルを取り、残りは流した。浴槽の壁を丁寧に洗い、また水を張った。周囲に血の痕跡が残っていないかどうかを確かめた。

 田浦警部補は、現場にいた捜査員全員を集めて、厳重に箝口令を守るように命じた。入口のカギをかける段になると浅沼を呼んだ。浅沼は針金状の道具を使ってカギをロックし、小声でいう。

「はいるときも、これを使ったんです」

「………」田浦の口元がギクギク動いたが、なにも言葉は出てこなかった。

 

「浅沼刑事。発見の経過を教えてくれ」小山田がいった。

 帰り際に小山田は、死体発見に至る事情を詳しく聞きたいと田浦に声をかけた。ところが田浦は、浅沼から直接聞かないとまったく分からないという。そこで、自分の車で帰りかけていた浅沼を連れもどしたのである。

「教科書どおりにやったまでのことです」浅沼は澄まし顔。「奥多摩の事件のタイヤの鑑識結果を聞いて追ったんです。だから、通常の捜査を進めていれば、もっと早く現場に踏み込めたんじゃないでしょうか。私は2日間、非番の時間を使っただけで現場にたどり着いたんですから」

「生意気いうな」怒る田浦。「そういう性格の事件じゃなかったんだ。奥多摩のは捜査ストップだといっておいただろ。お前は、しかも、新宿署の新人刑事だよ。勝手に動くとクビになるぞ」

「だから田浦先輩だけに電話したんじゃないですか」浅沼は口をとがらす。「前の事件に関係があると思ったればこそ、ですよ」

「分かった、分かった。もう、そのこと今更いい合っても仕方ない」いささか憮然たる面持ちの小山田。「済んでしまったことだ。どういう捜査をしたのかだけ話してくれ」

「済みません。勝手に動いちゃって」浅沼はペロリと舌を出した。「鑑識に聞いたら、あのヨンクは……」

「なにっ、ヨンクってなんだ」と小山田。

「ええと、4輪駆動のことですよ」浅沼はまた口をとがらす。

「馬鹿っ、ちゃんと正式名称を使え」田浦が怒る。

「まあいい、要するにジープの1種だろ」と小山田。

「はい。鑑識が、あのタイヤの溝や車輪の間隔から見て、外車の新型四輪駆動ランドクルーザー、チータIII以外にないというんで、私はしめたと思いました。私も欲しくて仕方ないけど、手が出ない車なんです。砂漠も山もなんのそのというオフ・ロード・タイプで、流行の先端の奴なんですよ。かなり高いし、まだ売り出したばかりで数はありませんからね。これなら追うのは楽だと思いました。エイジェントの販売記録では関東でまだ25台でした」

「そうか。そういうこともあるんだな。やはり若さに負けたか」小山田は愕然。「おれもこれからはメカに弱いといかんと思って、やっとこ、コンピュータちゃんにはつき合っているんだが、車はねえ……この年で新型車に熱を上げるわけはないし、最近は車の数が多過ぎて、聞き込みの時間がかかるばかりと思い込んでたんだよ」

「販売記録には」浅沼は胸を張る。「所有者全員の住所と電話番号が記録されていますから、その位置を地図に書き込みました。現場を中心にコンパスで同心円を引いて、奥多摩の死体発見現場に近いところから順に電話をかけました」

「電話でどう聞いたんだ」田浦は渋い顔。

「接触事故で逃げた車がチータIIIだと分かったので念のためにうかがいたい、とカマをかけたんです。皆さん素直で、いつでも車を調べてくれという返事でした。ところが1軒だけ何度電話しても出てこないところがあって、それが北園和久でした。念のために個人データを全部調べると、もう1軒持ち家がありました。それで今朝車で出かけて、近い方の東村山を先に当たったら、湯船に仏が浮かんでたってわけです」

「鍵をこじ開けたら、だろっ」と田浦。

「済みません。でも、人目につくような不審な点はなかったと思います。堂々とやりましたから」

「馬鹿っ。違法捜査なんだよ、それでも。もうおれはお前に責任持てないよ」と田浦。

「その問題は、その問題としてだ」と小山田。「この件は今後絶対に極秘。下手すると、危険なことになる。浅沼君、分かったかな」

「はい。でも、どうしてですか」

「でもも、どうしてもないんだよ。極秘といわれたら、それで納得するんだ」と田浦。

「はい。了解しました」

 

 小山田は浅沼を先に帰らせた。柄になく深刻な顔つきである。

「田浦君。おれもあっさり先を越されて不甲斐ないのだが、あの若いの、大丈夫かね。人の話をちゃんと聞いているのかね。本当に納得しておとなしくしてくれるかね」

「危ないですね。怖さを知りませんから。誰か監視につけましょう。でも、どういう事情なのか、私にも分かりませんので」

「うん。これはいえないんだよ」

「そうですか。了解しました。とにかく浅沼にも、あの長崎記者にも監視をつけます」

「頼んだよ。本当に危険なことが起きるかもしれないんだ。君も気をつけてくれ」

「はい」

 小山田は1人になるとまず警視総監の秘書に電話をして、総監に直ぐ会いたいと伝えた。総監に状況を報告して自分の提案の了解を取りつけたのちに、冴子の所在を確かめると、直接会いに行くことにした。とても電話で相談できる用件ではなかったのだ。冴子は小山田の報告と提案を受けて、最高裁の事務総長と秘書課長に会って了解を取り、天心堂病院に手配をした。天心堂病院は日本医師会会長、稲田歳介の個人経営病院で、憲政党の代議士らの政治的入院先として有名であった。

 日が暮れてから、救急車がサイレンを鳴らさずに、ひっそりと警視庁の裏口を出た。綿密な司法解剖を終えた弓畠耕一の死体は、極秘裡に天心堂病院の特別室に移された。