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智樹が自宅にもどると、ヒミコの画面に赤い文字が1列点滅していた。
〈留守番メッセージがはいっています〉
呼び出しボタンを押すと、
〈心配させて済みません。お電話ください。ハナエ〉
智樹は思わずホッと胸をなでおろした。すぐに山城総研の研究室に電話をして、渋谷のロシア料理店で落ち合う約束をした。
「ごめんなさいね。何度もお電話いただいて」
華枝は智樹を認めるとニッコリ。いつもの総天然色の笑顔をテーブル1杯に広げた。
智樹はウンウンとうなずく。ともかくアイマイな笑顔で応ずるしかなかった。
今度の事件の危険な要素のことが気になって仕方がない。華枝を危険な目に合わせてはならない。だがそのためには、当の華枝にも事情を打ち明けないと、2人の仲は気まずくなる。どうしたものか、ずっと迷いっ放しなのだ。いずれにしてもその問題は、今晩の話題が尽きるまで胸にしまっておこう。それが、この店に着く前にまとめてきた考えだった。 ワインとボルシチの注文が終わると早速、華枝は意気込んで話しだす。
「ねえ、トモキ。私が送った資料の中に、東京高裁の海老根判事が最高裁の正面ホールで飛び下り自殺した事件の記事があったでしょ」
「うん」表面では軽く受けたが、智樹は華枝の勢いに押され、内心ドキリとしていた。話がいきなり核心に触れてきたからだ。
《お庭番》チームでも議論したばかりの事件のことである。ここで華枝にも、自殺として処理された海老根判事の死に〈実は他殺の疑いあり〉と告げるべきか否か。また新たな迷いの種が増えてしまった。だが華枝は、そんな智樹の迷いにはまるで気づかないかのように、ニコヤカに話を続けた。
「私、あの事件を自分なりに追ってみたの。中央法律文化社が重要事件の判例データベースを出しているのね。あの中に海老根判事の裁判記録がないかどうか検索してみたら、それがバッチリ……」
「そうか。海老根判事自身の判例……ね」智樹は虚を突かれる思いだった。
「そうなのよ」華枝はいささか得意げな顔。「あの雑誌の記事は、学者裁判官といわれた海老根判事の人柄だとか、最高裁の人事権乱用だとかに焦点が合わされていて、肝腎の海老根判事の裁判官としての仕事にはそれほど目を向けていなかったのよね。ところが海老根判事は、今から五年前に意外に重要な事件の判決を出していて、それが今の最高裁、つまり、海老根判事自身が選んだ死に場所よね、その死に場所と深い因縁があるのよ」
「死に場所と……」
智樹は合い槌を打ちながら、華枝がいつになく、妙に気を持たせるしゃべり方をしていることに気づいた。華枝はきっと、なにか驚くべき事実に突き当たったに違いない。そんな予感がした。「末永教授の教科書裁判なのよ。……あの裁判のことはご存知でしょ」
「うん。まあ、名前だけだけど。マスコミでも少しは報道された事件だからね」
「私は判決文だけでなく、新聞のデータベースから当時の記事を探しました。判例の実物を読み通すのは大変だけど、新聞記事にはうまく争点が要約されているでしょ」
「そうだね。分かりやすい大見出しもあるし、双方の主張や、1審・2審・3審の判決要旨の対照表もあるしね」
「そうなの。まず簡単にいうと、海老根判事は東京高裁で東京地裁の判決を覆して末永教授の訴えを認めました。教授の訴えどおりに、文部省の検定による教科書の1部削除命令が不当だと判断したわけ。ところが、最高裁はこの高裁判決をもう1度ひっくり返したのよ。末永教授は1審の地裁で敗訴、2審の高裁で逆転勝訴、3審の最高裁でまたまた逆転の敗訴、逆転に次ぐ逆転だわね」
〈良く整理されている。華枝は論文のように総論と各論に分けて話そうとしている〉
智樹の胸には華枝の熱心さが響いてきた。だがそれだけに、背中のセンサーが危険を感知してゾクゾクする。まるで未知の怪物が隠れているかのようだった。
「争点はいくつかあるのですけれど、私が注目したのは、アヘンの問題なの」
智樹の背中に強圧電流が走った。〈…………〉喉がゴクゴクするが、言葉は出てこなかった。〈やはりアヘン問題に触れてきたか。華枝もタブーに踏み込んでしまったな〉
「私、このアヘンの問題には少し予備知識があったのね。だからピーンときたの。アヘンって、聞いただけでもドロドロして、犯罪的でしょ」
「うん。犯罪的だ。危険な匂いがする」
智樹はやっと、〈危険〉という単語を2人の話題の中に投げ入れることに成功した。
「アヘン問題だけ要約すると……」華枝はでき上がった文章を朗読するように続けた。「末永教授は高校用の教科書にアヘン問題を書いていました。〈日本は国際アヘン条約に違反し、戦争中に内蒙古などでアヘンを大量生産して、占領地の住民に販売した〉という簡単な表現です。これを文部省は〈資料的裏づけが不足〉という理由で削除せよと命令しました。1審判決は文部省のいい分をそのまま認めましたが、海老根判事は〈明白な事実〉だという判断を下しました。ところが最高裁第3小法廷はこの2審判決をもう1度ひっくり返しました。理由では〈事実〉と認めながら、〈一般常識化していない〉から削除命令は不当ではないという結論になっています。少数意見なし。全員一致の判決です。末永教授側はこの理由づけについて、〈最高裁お得意の逃げ口上に過ぎない。一般常識化していないのは教科書で教えないからだ。論理矛盾もはなはだしい〉と手厳しく批判しています」
華枝はそこでひと息入れて、智樹の顔をジッと見つめた。別にわざとジラしている風ではなかった。華枝は、自分が発見した重要な事実を今から告げようとしているのだ。そのための緊張が感じられた。
「第1の問題は、このときの最高裁第3小法廷の裁判長が弓畠耕一判事だったということです。長官になる以前の平判事時代です」
「そうか。そうだったのか」
智樹は自分の立ち遅れを痛感した。今度の事件は一見複雑に見えたが、調査の進展は意外にも早いのだ。いずれは達哉に頼んで裁判所関係を洗い直すつもりだったのだが、弓畠耕一の中国時代に秘密が潜んでいるのではないかということになって、達哉には急遽ハルビンに飛んでもらった。華枝の作業はちょうど、そのすき間を埋めてくれるものになっているのだ。
「なるほど。ここでも弓畠耕一か」智樹はつぶやく。
「ここでも、って、どういうこと」華枝の目がキラリと光った。
「うん」智樹はもう腹を決めた。華枝に必要な事情だけは話すことにしょう、と。
智樹は華枝に、それまでの経過の1部をかいつまんで話した。達哉が最高裁の図書館で経験した騒ぎ。敗戦直後の生アヘン密輸事件判決のマイクロフィッシュの件。その事件の裁判長が弓畠耕一だったこと。だが、海老根判事の他殺の疑いや弓畠耕一の行方不明については省いた。
「ハナエの今の話で、それぞれの事件のつながりがはっきりしてきた。海老根判事がその敗戦直後の生アヘン密輸事件の判決に関心を持ったのは、自分自身が出した教科書裁判判決のその後の成り行きと深い関係があるわけだ。偶然じゃなくて、充分な動機を持つ調査だったんだね」
「そうね。東京高裁でも随一の学者肌の裁判官として知られていたそうだから、自分が判決を書く前にも、自分なりに資料を漁っていたんじゃないかしら。それで充分な自信を持ったから、地裁の判決をくつがえす判断を出したのよ。それなのに、最高裁でそれがまたひっくり返されたわけでしょ。これは執念になるわよ」
「執念か。うん」智樹は溜息をついて腕を組んだ。
「そう。執念よ。男の執念。女の執念。怖いわよ、執念が燃えると……」華枝の目はワインの酔いで少し赤くなり、妖しく燃え始めていた。案の定、華枝のその言葉の裏には次の意図が隠されていた。「ベテラン・サーチャーのハナエさんはね、トモキ、そういう男や女の心の奥底でチロチロ燃えている執念をまず探るのよ」意味ありげにいって、華枝は智樹の目をのぞき込む。「執念が乗り移ると、ピタリ。ウフフッ……ごめんなさいね、黙ってお話聞いてて。私、もうその敗戦直後の生アヘン密輸事件判決のマイクロフィッシュを見ちゃったのよ」
「えッ」
「だからいったでしょ、ベテラン・サーチャーなんだからって。調べ方にもコツがあるのよ。もおッ、トモキったら、ちっとも私のことなんか信用していないんだから……」
「ごめん、ごめん」智樹は手を合わせて華枝を拝んだ。
「よし、許す」華枝はニッコリ。「だってェ、……私のサーチは普段でもコンピュータのデータベースの検索だけじゃないのよ。司書の資格もあるんだからァ、……判決文のマイクロフィッシュをどの出版社が出しているかを捜すぐらい、お茶の子サイサイなのよ。もっとも私は、いきなり出版元の法曹協会に行きましたから、最高裁や検察庁や日弁連のコピーを誰かが借りっぱなしにしてるってなんてことには気がつきませんでしたけど」
「お見それしました」智樹は平あやまりするしか手がない。
「それだけじゃないの」華枝はまた真顔にもどり、暗唱するようにゆっくり話す。
華枝は、あらゆるデータベースを検索し尽くして、アヘンに関する資料リストを作った。その中のある本の参考資料リストには『真相追及』という戦後の古い雑誌の記事の名があった。ところが、記事の全文を手に入れてみようと思って国会図書館でその雑誌を借り出してみると、肝腎の記事の部分の数頁だけが切り取られていた。そこでさらに雑誌の収集で有名な大竹文庫に行ってみた。すると、ここでも同じことが起きていた。両方とも、そっくり同じ感じの切り口だった。「きっと、下敷きを挟んで良く切れるカッターで切り取ったのよ」
「ひどいことをやるもんだな」智樹はそういいながら、内心では〈スキャンダル隠しとしては、ご同業の仕業だな〉とつぶやく。
「いつだったか、帝国興信所のベテラン調査員から聞いたことがあるわ。この種の切り取りはチョクチョクやられているらしいのよ。たとえば、有名人になってから都合の悪い記事を抹殺したくなるとか。分かるでしょ。だから今度は国会図書館が作った全国総合資料リストを見て、その雑誌が都立中央図書館にあるのを発見したの。あそこにも結構古い資料が残っているのよ。意外な穴場ね。それで……都立中央図書館の頁は無事だったわ」
「いやあ、もう完全に降参。尊敬。敬服。……恐れいりました。それで……その記事の内容が今日の話題のメイン・ディッシュだね」
智樹は2人のワインを注ぎ足した。
「はい、これ」華枝は智樹に『真相追及』誌のコピーを渡す。
2人はロシア料理店をあとにして渋谷の街の雑踏を通り抜け、華枝のマンションに落ち着いた。だが、話の内容は男女の仲のムードとはほど遠い。
〈何處に消えたか8噸の生阿片〉というのが問題の記事の題名である。
「執筆者は明らかに事件の関係者よ」
「ハハハッ……〈八幡太郎〉なんて、8トンの生アヘンに引っかけた偽名に決まってるな」
「そうでしょ、ねッ。……これを読むとますます、判決文は重要な事実をたくさん隠したままだという気がしてくるの。おかしいことばかりなのよ。そもそも、9月15日に米軍が機帆船を臨検して8トンの生アヘンを発見したというけど、誰が通報したのかが不明でしょ。輸送責任者として積荷に同行して来たのは、関東軍の特務大尉と満州国総務庁経済部の日本人事務官。この2人は逮捕されて有罪にされているけれど、日本側で手続きをした陸軍昭和通商の舞鶴連絡事務所長なんて人は裁判で証言しただけで、どこかへ消えちゃって、判決文には名前も出てこないのよ。それに、……最初に満州の新京を出発したときには、生アヘンが12トンあったんですって。途中で4トンを賄賂として使っているのね、なんだか怪しげでしょ。皆で寄ってたかって、奪い合っている感じよ。でもこの陸軍昭和通商って、私、まだ調べてないの。トモキが知ってるんじゃないかと思って、……アヘンと関係あるんでしょ」
「知ってますよ」智樹も華枝に調子を合わせて朗読調で説明を始めた。「陸軍昭和通商とは、1939年、昭和14年に陸軍が三井物産、三菱商事、大倉商事の3社に資本金を割り当てて創立した御用商社。最大時には6000人もの人員を擁し、軍需物資の確保と情報工作に当たりました。戦争中の密輸を主とする物資確保ですから、紙幣はほとんど役に立ちません。最初は中古品の兵器が交換物資として使われましたが、それもすぐに底をつきます。当時、アヘンは見返りの工作物資として金塊にも優る貴重品で、アヘンを用いる工作を貴重薬工作と称していました。児玉誉士夫などは昭和通商に使われていた下っ端の方です。児玉機関はアヘンを使って、敵側の重慶政権筋からタングステンを入手したりしています。アヘンをどこから入手したかというと、日米開戦以前にはイランやインド方面からの輸入もありましたが、以後輸入はほとんど途絶。内蒙古と呼ばれていた蒙疆……」智樹は紙ナプキンに〈蒙疆〉と書き〈もうきょう〉と仮名を振った。
「この蒙疆が唯一の輸出国、もしくは当時の言葉でいいますと、大東亜共栄圏内の域外への供給地となります。ほかの地域ではすべて生産よりも消費が上回っていますから、この事件の関東軍の生アヘンについても、蒙疆産の可能性が高いといえますね」
「ご協力感謝します」と華枝。「では、判決文から隠されている重要事実について続けます。和歌山地裁での陸軍昭和通商舞鶴連絡事務所長の証言によると、舞鶴港への入港の際には日本国旗と陸軍貨物廠旗を掲げました。荷揚げには県警の本部長や所轄警察所長が立ち会い、従来の軍需物資の本土への受け入れ手続きどおりに行なわれました。並行して、軍の特務機関にも連絡を取っています。すると、米軍の隠退蔵物資摘発部隊が港の倉庫を臨検するという情報がはいっているから、誤解を避けるために神戸に行けと指示されました。神戸でやっと荷受人の厚生省衛生局の事務官と会えたら、今度は、アヘンがGHQの政令に引っかかるから当分の間どこかに隠しておくように、という指示でした」華枝は顔を寄せ、下から智樹の目をジッとのぞき込んだ。「ねッ、おかしいでしょ。陸軍昭和通商、軍の特務機関、厚生省衛生局、みんなグルって感じがしてくるの。そしてまたまた大問題なのが、旧刑法を適用した検事側のタイムトンネル作戦……」
「うん。それは知ってる。本職の特捜検事から説明を受けたんだ。旧刑法だと証拠の現物がなくても有罪にできる」
「そうなのよ。そこがこの事件最大の謎のカギなのよ。つまり、証拠の現物は法廷に現われなかった。ミステリーなのよ。……さてさて、8トンの生アヘンはどこへ消えたか」
華枝の笑顔は総天然色に輝き、ますますいたずらっぽさを増した。
「確かにミステリーだねえ」
智樹も華枝から渡された雑誌記事のコピーをめくる。すでに忘れかけた昔のむずかしい漢字がたくさん出てくるし、活字は小さく、印刷はかすれていて、とても読みにくい。
「いいですか。では、しっかり腰をすえて聞いてくださいよ」華枝は意気込む。「検察側が旧刑法の適用にこだわった理由は、まさに、問題の8トンもの生アヘンの行方そのものと関係があります。……紀伊水道で機帆船を拿捕した米軍は、積荷を和歌山港で荷揚げし、トラック3台に乗せて東京のGHQ本部に送りました。各トラックには日本人運転手と完全武装で護衛に当たるMP各2名が乗り込みました。GHQ本部には電話連絡で到着予定時間を知らせてありました。ところが予定の時刻を大幅に過ぎてもトラックが到着しないのでGQ本部が捜索隊を出すと、空のトラック3台が箱根山中の道端に乗り捨てられた状態で発見され、積荷と一緒に計3名の日本人運転手と計6名の米軍MPが姿を消していました。……いいかしら。生アヘンが8トン、トラックが3台、人間が合計で9名よ。うち6名は完全武装のMPなのよ。それが忽然と姿を消したのよ」
「いやいや。これはちょっと凄味のあるミステリーになってきたぞ。ハリウッド製のギャング映画そこのけだね」
「そうなの。しかも、そういうことが判決文にはまったく書かれてないのよ。判決文には本来、双方の主張の要旨を書かなければいけないのよ。この場合は検事側と被告側の双方の主張を記したうえで、裁判官の判断を下すわけ。ところが……」
「まあ、今でも時々、かなり大事な事実を抜かした粗雑な判決があるけどね」
「でも、この判決は粗雑以上よ。悪質なのよ。だって、なぜ無理やりに旧刑法を適用したのかしら、ねッ、弁護側はその点を法廷で追及しているのよ。……ほら、ここ」華枝はコピーのその部分を指す。「裁判の当時に成立していた新刑法によると、麻薬の売買を立証するためには、検事側が法廷に物的証拠である麻薬そのものを提出しなければならない。ところが旧刑法によれば、麻薬に触れたか、存在を知りながらただちに届けなかっただけで、隠匿の意思ありとして犯罪行為が成立した。特に、本人の自白があれば充分。ねッ、最近、昔の冤罪事件の再審査で自白の証拠価値が問われているけど、その問題もあるでしょ。旧刑法では自白は証拠の王様よ。この事件の関係者たちは逃げも隠れもせず、アヘンの運搬という事実をはっきり認めているんだから、自白を強要する必要すらなかった。それで、任意の供述だけで有罪にされちゃったの。証拠のアヘンが行方不明なのに、よ」
「なるほど。GHQは自分たちの失態を棚に上げたまま、関係者を強引に有罪にしたということか……」智樹はつぶやく。「しかし、なにが目的だったんだ。どうせ生アヘンはなくなってしまったんだろ」
「そうなのよ。そこが問題なのよ」と華枝。「果たしてGHQの失態だったのか。裏はなかったのか。……どうやら、裁判の目的は最初から決まっていたようなのね。関係者の口封じが狙いだったのじゃないかしら」
「しばらく牢屋にぶち込んでおく。その間に生アヘンを始末する。そういうことかな」
「まず、生アヘンが消えた経過を振り返ってみます。一番単純な説明は、護衛に当たった6名のMPの出来心です。それぞれが完全武装でした。争った痕跡はなに1つないという報告ですから、共謀が成立したと考えなければなりません。3名の日本人運転手は脅かされれば彼らのいいなりだったでしょう。でも、8トンもの生アヘンの積荷……トラック3台分よ、これをどうやって運んだの。まず積荷を移しかえるために、別のトラック3台もしくはジープなど数台が必要でしょ。ねえ、トモキ、ギャング映画でも最初に車を盗んだり、運転手を仲間に入れたり、準備の手間が大変でしょ。それを、出来心の兵隊6名だけで手早く手配できたのかしら。倉庫も必要です。足がつかないように売りさばくのはさらにむずかしいでしょ。プロ中のプロの仕事ですよ。組織のバックがあったのではないでしょうか。物凄い大物の黒幕がいたのではないでしょうか」
「意義なし。そのとおりだと思います」
「はい。プロの賛同を得られるとは心強いですね」華枝は茶封筒から大事そうに新聞記事のコピーを出した。「お次はね、これ。最初に予告した秘密。……誰がアメリカ軍に生アヘンのことを通報したか、なのよ。……ねえ、トモキ。敗戦前後の新聞って、半ペラの裏表2ページだけだったのね。私、ビックリしちゃったわ。……この事件では、毎朝新聞の地方版が最初にスクープを放ってるのね。だから、国会図書館で地方版のマイクロフィルムからコピーしてきたの。この記事のとおりだとすると、記者が偶然、和歌山港の酒場で船員から積荷の秘密を聞き出したという筋書きなの。ところが、他の新聞も放送も、当時はまだ民間放送もテレビもなくてNHKのラジオだけだけど、まったく報道しない。毎朝新聞も地方版の特種の第1報だけ。それっきりウンともスンともいわなくなった。それで、……これはGHQからの圧力の結果ではないか、というのが雑誌記事の推測なのね。当時はすべての報道がGHQの検閲下にあったんでしょ。だから実際上、それ以外には考えられないわね。逮捕、起訴、裁判、判決、どれを取っても充分なニュース種でしょ。でも、マスコミだけでなく、当時の左翼政党はアメリカ軍を解放軍だと規定していたから、左翼政党の機関紙もGHQ批判は書かなかった。この『真相追及』みたいに、ゲリラ的に発行される小雑誌だけが例外だったわけなのね」
「事実上の真相抹殺か」智樹はつぶやくが、またまた内心、《お庭番》チームの任務を思い出さざるを得ない。
「さてそこで、これがまた奇怪なんです。雑誌記事の執筆者は毎朝新聞のスクープ記者の足取りを洗っています。記者の名前は江口克巳。当時は東京本社の政治部国会班所属。事件直後に退社して憲政党の新人候補、下浜安司の秘書となる」
「えっ、江口克巳は現在の通産大臣、下浜安司は前の首相の……」
「はい。下浜安司は元内務官僚。戦争中に一時、厚生省の衛生局に出ていたこともあります。厚生省は内務省から分かれた傍系官庁だったんですね。戦後初の総選挙に大型新人の下浜安司という売り出しで出馬。これからは政党政治の時代だと明言し、率先、前途有為の職を投げうった、というデビューが華々しく報道されました。当時の内務省は諸官庁の上に立つ官庁です。内務官僚はエリート官僚の典型ですからね。下浜安司は敗戦直後に内務省の中心の行政局にいました。当選後には、莫大な選挙資金をめぐって様々な疑惑がささやかれたものです。総理を辞めて以後の今も、大型汚職の度に必ず名前が浮かぶ政界の黒幕ですね。……さあ、どうかしら。毎朝新聞東京本社政治部の敏腕国会記者、江口克巳が、なぜ和歌山の港の酒場にまで潜り込んで、ちっぽけな機帆船の船員から垂れ込み取材をしたのでしょうか。事前に下浜安司あたりと連絡があったのではないでしょうか」
「ウーム。その点は、あちらでも問題になっていたんだよ。判決文を見ただけでも、どうやら生アヘンの現物を検察側が押さえていないらしいからね。それで、事件の背後にはなんらかの日本側の組織があって、アメリカ軍と通じて生アヘンを奪わせたのではないか、という意見が出ていた。それが、今日のハナエが発掘した資料を見ると、ますます本当らしく思えてくるね」
「でしょ。私、国会図書館でこの新聞のコピーを取ったついでに、その前後の事件報道の3面記事もザアッとのぞいてみたのよ。そうしたら、あった、あった、なのよ。あれはもう、陸軍やら海軍やらの隠退蔵物資の争奪戦だわ。アメリカ軍が日銀の本店で金塊や貴金属や宝石の山を押収するし、覆面をかぶった旧日本軍人らしいトラック部隊っていうのが暗躍しているし、まさに百鬼夜行の時代なのね。だから、私の想像だとこうなるの。ねッ……まず、生アヘンが8トンも運ばれてくるという情報を知っている日本の有力者グループがいる。しかし、公式ルートで受け取ったら、それはすぐにGHQに押収されてしまう。そこで考えたのは、アメリカ軍の一部と組んで横取りすること。都合が良いのは誰か第3の無関係な人物がいて、アメリカ軍に生アヘン輸送の事実を知らせるという筋書きにする。そのために選ばれたのが新聞記者の江口だった。ねッ、……色々考えてたら、もう私、ワク、ワク、しちゃったわ」
「アハハハハッ……。ワク、ワク、か。あの暗闇の時代も、ハナエの手にかかったら簡単にドタバタ喜劇にされちゃうな。ハハハッ……」
「ウフフフフッ……」
話し疲れてワインを飲み直したあとは、また、カーマスートラの授業の続き。新しく覚えたサンスクリット語は……
「グダッハカ……秘めやかな歯型」
「カルカータ……カニの型」