第2章:二〇世紀の諸神話
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第2節:ニュルンベルグの正義の神話 8
(c)凶器
刑事裁判に課せられた目標を達成するという見地に立つならば、最も重要なことは、数多い証人といくつかの“書証”の信憑性についての判断を下す以前に、専門家が投げ掛ける様々な質問に耳を傾けることである。そこで、まずは、どんな質問が必要なのかを整理してみよう。
▼チクロンBが作用するためには、どれだけの時間が必要なのだろうか? その効果は、どのように現われるのだろうか?
▼密閉された空間の中で、ガスは、どれだけの時間、活性を保ち続けるのだろうか? 換気装置がない場合と、換気装置が即座かつ連続的に使用できる場合とでは、どう違うのだろうか?
▼これまでの認定によると、ガスの使用後、三〇分しか経過していないのに、チクロンBが浸透した部屋の中にガス・マスクを着用せずに入ることが可能だというのだが、それは本当なのだろうか?
▼火葬場の焼却炉では、死体を二〇分間で完全に焼けるのだろうか?
▼火葬場の焼却炉は、昼夜兼行で休みなしに使用できるのだろうか?
▼数メートルの深さの穴の中で人間の死体を焼くことが可能なのだろうか? もしも可能だとしたら、どれだけの時間が必要なのだろうか?
ところが、これまでは、これらの質問に対して、なんらの“証拠物件”も提出されていないのである。
二つだけ、実例を挙げてみよう。
●トラックを利用した“巡回ガス室”の場合。
●人間の脂肪で作った石鹸の場合。この物語は、すでに一九一四~一八年の戦争で使い古されたデマ宣伝[訳注1]だった。
訳注1:拙著『アウシュヴィッツの争点』一一四頁参照。そこでは、湾岸戦争勃発直後に出たイギリスの雑誌『ニューステイツマン』(91・2・8)の記事を要約紹介したが、一九二八年初版、イギリスの下院議員、アーサー・ポンソンビーの著書『戦時の虚言』には、当時の『ザ・タイムズ』の記事や下院の議事録を検証した一二頁の論文、「死体工場」が収められている。この時は「石鹸」ではなくて、戦死者の死体から取り出した「グリセリン」を、兵器の「潤滑油」に使ったとされていた。この件では、戦後、イギリス下院が、ドイツ首相の主張を受け入れて虚言の経過を認め、政府はドイツに公式謝罪した。「死体工場」の最後に紹介されているアメリカのリッチモンド州の新聞、『タイムズ・ディスパッチ』(25・12・6)の記事の締めくくりには、「つぎの戦争では、プロパガンダが、今度の世界大戦が作り出した最高のものよりも、さらに陰険かつ巧妙になるに違いない」とある。
これまた同じように、今度の“ガス殺人”という話も、一九一六年に、ブルガリアがセルビアに対して使った“ガス殺人”のデマ宣伝の蒸し返しでしかないのである(『ザ・デイリー・テレグラフ』16・3・25&46・6・25)。
[トラックによる“巡回ガス室”の場合]
トラックを利用した“巡回ガス室”の物語では、エンジンの排気ガスを荷台に引き込んで何千人か何万人を絶滅したことになっているが、この物語を最初に欧米の世論に注入したのは、『ニューヨーク・タイムズ』の一九四三年七月一六日号である。それまでに、この物語を流布していたのは、ソ連の新聞だけだった。
ここでもまた、凶器、すなわち、いくつかの、または何千台もの、殺人を目的として供給されたトラックという凶器は、消滅してしまった。どの裁判の場合でも、その内の一台たりとも、証拠物件として提出されたことはない。
ここでもまた注意してほしいのだが、もしも“絶滅”計画が、ホェスが告白したように、最重要の絶対的な“秘密”として機密保持されるべきものだったとすれば、これまた非常に奇妙なことになるのである。なぜならば、この“秘密”の“絶滅”計画は、犠牲者を始末して何千か何万もの死体を魔法のように消滅させた何千人か何万人ものトラックの運転手と、葬儀担当の助手たちに、(任務に関する命令書なしに)伝えられていなければならず、しかも、彼らはその後も、“恐怖の秘密”を胸に抱く秘密保管者として、生き続けていることになるからである。
[人間の脂肪で作った石鹸の場合]
“人間石鹸”の伝説を熱心に広めたのはジモン・ヴィゼンタール[ドイツ語読み]である。彼は、一九四六年に発行されたオーストリアのユダヤ人社会の新聞、『ダ・ノイエ・ヴェッグ』(新しい道)に一連の記事を寄せた。「RJF」と題する記事では、こう書いている。
《“石鹸のための流刑”という恐怖に満ちた言葉が初めて聞こえてきたのは、一九四二年の暮れだった。工場は、[ナチス・ドイツ支配下の]ポーランドの総督府政府に管轄され、ベウツェックのガリシアにあった。一九四二年四月から四三年五月までの間に、九〇万人のユダヤ人が工場の原材料として使われた》
死体が様々な目的の原材料に仕分けされたのち、ヴィゼンタールによれば、
。彼はさらに続ける。《一九四二年以後、総督府政府内部の連中は、RJF石鹸が何を意味するかを熟知していた。文明化された諸国の人々にとっては想像を絶することだろうが、総督府政府部内のナチと彼らの妻たちは、この石鹸について考えることに無上の喜びを覚えていた。彼らは、石鹸の一つ一つに、魔法の力でそこに閉じ込められたユダヤ人を見出だし、第二のフロイト、エールリッヒ、アインシュタインに成長するのを妨げ得たと感じていた》
イスラエルのヤド・ヴァシェム記念館は、極めて公式的に、ユダヤ人の死体からナチが人間石鹸を作った事実はないと声明した。戦争中のドイツは、脂肪の原材料の不足に悩み、石鹸の製造を政府の監督下に置いた。固形の石鹸には「RIF」という文字が刻まれたが、これは、ドイツ語の“国営工業用脂肪供給センター”の頭文字だった。誰かが、これを「RJF」と読み間違えて、“純粋のユダヤ人の脂肪”の頭文字だと解釈し、その噂が急速に広まったのである。
[“ガス室”論争に終止符を打つ法医学鑑定]
もしも、誠実に公開の場での議論をする気があるのなら、現在すでに、“ガス室”に関する論争に終止符を打つ三つの研究報告[訳注1]がある。『ロイヒター報告』(88・4・5)、その再鑑定としてのクラクフの報告(90・9・24)、ゲルマル・ルドルフの報告(94)である。これらの研究報告が、なぜ論争に終止符を打つかというと、この方法こそが唯一の科学的で客観的なアプローチとして注目され、現場で採集したサンプルの調査、化学的な分析を可能にしているからである。
訳注1:本書では『ロイヒター報告』をトロント裁判の記録として出典表示しているが、数種類の単行本がある。訳者が所持している英語版が入手しやすいので巻末リストで紹介する。続編として、ドイツ南西部のダッハウ、オーストリアのマウトハウゼンとハルトハイムを対象とした「第二ロイヒター報告」があり、『歴史見直しジャーナル』(90秋)に掲載されている。
「クラクフ」とあるのはポーランドのクラクフ市にある国立の法医学研究所であり、日本ならば警視庁が鑑定を依頼するような最高権威である。クラクフの法医学研究所による再鑑定はアウシュヴィッツ博物館の依頼によるものである。同研究所の報告には、もう一つ、さらに詳しいもの(94・5・30)がある。訳者は同研究所を訪れ、鑑定結果についても、『アウシュヴィッツの争点』二三九頁以下に略記した。
この他に、オーストリア人の工学者で工学専門家協会の会長、ヴァルター・ルフトルの報告(同誌92/93冬)もある。「ゲルマル・ルドルフの報告」は巻末で紹介する『歴史見直しジャーナル』(93・11/12)の記事によると、一九九三年中には公刊されている。ゲルマル・ルドルフは、公認の薬剤師で博士課程の研究者であり、その後に、クラクフの報告を批判する論文をも発表している。さらに同記事によると、アメリカの化学者ウィリアム・リンゼイと、ドイツの技術者ヴォルフガング・シュスターが、同様の調査を行い、それらすべてが『ロイヒター報告』の正しさを裏付けている。
「チクロンB」は、シアン化水素[気化した状態を日本では青酸ガスと呼ぶ]を主成分としており、無数の収容者たちのガス殺人に使われた製品だと主張されてきた。普通には、第一次世界大戦以前から、衣類や、病原菌、特にチフス[ママ。正確には発疹チフスの病原体リケッチャが寄生するシラミ]が繁殖する危険のある設備の消毒に使用されていた。しかし、シアン化水素は、一九二〇年、最初にアリゾナで死刑囚の処刑に使われた。アメリカの他の州も、これを死刑囚の処刑に使った。特に知られているのは、カリフォルニア、コロラド、メリランド、ミシシッピ、ミズーリ、ネヴァダ、ニューメキシコ、ノースカロライナである(『ロイヒター報告』)。
技師のロイヒターは、ミズーリ、カリフォルニア、ノースカロライナの各州で、コンサルタントを勤めていた。現在では、これらの各州の多くは、この処刑方法を廃止しているが、その理由は、費用が掛り過ぎるからである。青酸ガスの値段だけではなくて、それを使用する際の安全性が要求されるために、設備の建造と維持に要する費用が、この方法による処刑では非常にかさむのである。
それ以外にも、「チクロンB」による燻蒸消毒を行ったのちには、建物の容積にもよるが、最低一〇時間の換気が必要である(トロント裁判記録)。
部屋の密閉性を保つために、エポキシ樹脂か、ステンレス・スチールの被覆が必要であり、ドアの接ぎ目は、石綿か、ネオプレン[合成ゴム]か、テフロンで作る必要がある(同前)。
ロイヒターは、アウシュヴィッツ=ビルケナウとポーランド東部の別の収容所[マイダネク]を訪れ、“ガス室”とみなされている場所から採集したサンプルを専門家に鑑定してもらった結果、つぎのような結論に達した(トロント裁判記録「アウシュヴィッツ=ビルケナウの火葬場IおよびIIに関して」)。
《それらの建造物の現場での調査により、もしも処刑用の部屋として使用されていたとするならば、その設備の考案は、極めて粗悪で危険極まりないものだということが判明した。それらしいものは何もない。……
火葬場・は、アウシュヴィッツの親衛隊の病院に隣接しており、室内にある排水用の溝は収容所の中心部の下水設備につながっているので、収容所の建物全体にガスが浸透する可能性がある(トロント裁判記録)。マイダネクの建物には、ガス室の建造に最低限必要な構造が備わっていないから、これまでに称されてきたような使用は不可能である。》
ロイヒターの結論によると、殺人用のガス室としての条件は、まるで満たされていない。[毒ガスを使えば]そこで働いている誰もが、周囲の人々とともに、生命を危険にさらすことになる(同前)。ところが、そこには、いかなる方法による換気設備も、通気設備も、まったくない。「チクロンB」の使用に当たって必要とされる材料の供給は、まったく見られない(同前)。
《すべての記録を検討し、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクの、すべての現地を調査した結果、圧倒的な証拠にもとづいて、そこには、いかなる処刑用のガス室もなかったと判断する》(マサチューセッツ州マイデンにて、一九八八年四月五日、技術主任フレッド・ロイヒター記)
トロント裁判では弁護士のクリスティが、“証言”の多くについて、それらが化学的または技術的な現実性に関して、いかに矛盾に満ちているかという点に注意をうながした。ここでは、三つの例を挙げる。
(a)…ルドルフ・ホェスは、『アウシュヴィッツの司令官』の中で、つぎのように書いている。
《ガスを注入し、換気装置で空気を入れ替え、三〇分後に扉が開かれる。死体を運び出す仕事が、すぐに始まる》
《この仕事を彼らは、日常の業務の一部であるかのように、平然と片付けていた。死体を運びながら、食べたり、タバコを吸ったりしていた》
《マスクの着用すらしなかったんですか?》と弁護士のクリスティは質問している(トロント裁判記録)。
「チクロンB」を浴びた死体を、三〇分後に運んだり、その上に、そうしながら食べたり、タバコを吸ったりするなどということは、不可能である。……危険が無くなるまでには、最低一〇時間の換気が必要なのである。
(b)…弁護士のクリスティは、ニュルンベルグ裁判の記録PS1553号と、その付属資料、数通の送り状を提出して、証人のヒルバーグに示した。ヒルバーグは、オラニエンブルグとアウシュヴィッツに同じ日付で送られ「チクロンB」の量が、同じであることを認めた。ところが、ヒルバーグは、オラニエンブルグについて、《収容所であり、管理上の中心になっていたが、「私の知る限りでは、そこでは誰もガスで殺されていない」》と証言していたのである。
さらには、ロイヒターが提出したサンプルと、その鑑定結果によって、・ガス室・と称されている部屋よりも、「チクロンB」が使用されたことが確実な消毒室の方に、チクロンBから出たシアン化水素[ママ。正確にはシアン化合物]の残留量が、桁外れに多いことが明らかになった[訳注1]。
訳注1:普通の部屋も定期的にチクロンBで消毒していたから、ある程度のシアン化合物の残留があって当然である。
《照査サンプル[消毒室のもの]に比較すれば、最初のガス室の方が、(なぜなら、これまでの情報によれば、そこでは、はるかに大量のガスが使用されたはずだから)、シアン化合物の量が多いという結果が出ると期待したはずだ。事実は真反対だったので、以下の結論になる。……それらの設備はガス室ではなかった》(『ロイヒター報告』)
この結論は、クラクフの法医学研究所が一九九〇年二月二〇日から七月一八日に掛けて実施し、その結果を一九九〇年九月二四日付けの手紙でアウシュヴィッツ博物館に伝達[前出。依頼にもとづく報告]した再鑑定によって、部分的に裏付けられている(同研究所および博物館の参考資料)。
実際に見学者たちは、それが稼働する仕掛けは別として、様々な・ガス室・と称する改造物を、すでにそこでは完成していなかったと彼らが認めるダッハウにおいてさえ、見せられている。
(c)…ロイヒターは、ビルケナウの公式の地図にもとづいて、ナチが死体を処理するために使用した・火葬用の穴・があったとされている地点を調査した。ほとんどのホロコースト文学の文献によれば、穴の深さは約二メートルだった。……その目的から考えると、最も注目すべきことは、水位線が地面の約三〇から五〇センチメートルほど下になっていたことである。ロイヒターは、水の中で死体を焼くことは不可能だと強調する。ホロコースト文学でも、アウシュヴィッツとビルケナウの収容所が沼沢地に建設されたと記しているから、戦後に事情が変わったと考える理由は、まったくない(トロント裁判記録)。それになのに、・火葬用の穴・と称する写真が、そこら中に陳列されているのである。
野外での・火葬用の穴・による火葬に関しての結論は、つぎのようである。
《ビルケナウは沼沢地に建設されており、すべての敷地で水位線が地面の約六〇センチメートル下になっている。ビルケナウには火葬用の穴はなかったというのが、私の意見である》(同前)
[米空軍撮影の航空写真には煙りの痕跡すらない]
アウシュヴィッツ=ビルケナウ複合収容所に関する記録には、長い間、異議を差し挟むことが許されなかった。とりわけ有名なのは、野外での死体焼却による“空全体を黒く覆った煙り”に関しての、無数の証言だった。ところが、この問題に関しても、その後、客観的な研究に値する貴重な資料が出現したのである。それは、アメリカ空軍が、アウシュヴィッツとビルケナウの上空で撮影した一連の航空写真であり、アメリカ人のディノ・A・ブルジョニとロバート・C・ポワリエが出版している(『ホロコースト再訪/アウシュヴィッツ=ビルケナウ複合絶滅収容所の回顧的分析』CIA79)。
これまでの正統派の学説の願望に添う説明では、とりわけ、ハンガリアのユダヤ人が輸送されてきた一九四四年の五月から八月の間には、地獄の炎が、一日に二万五〇〇〇人もの死体をなめ尽くしたとまで語られてきた。ところが、CIAの分析官によれば、その炎に相当するものは、航空写真からはまったく発見できなかった。六月二六日と八月二五日の航空写真には、煙りの痕跡すらない。群衆が集中したような状況も、特別な活動が行われていたような状況も、まったく見えない。
『アウシュヴィッツ・アルバム』は、その当時のビルケナウで撮影された一八九枚の写真を収集している。発行者のセルジュ・クラルスフェルドが「はしがき」を書き、J・C・プレサックが解説を書いている。一八九枚の写真は、ハンガリーから来た収容者の一隊が到着してからの集中収容所での生活の情景を、視覚的に伝えくれる。ところが、ここにもまったく、厳密に見てもまったく、大量かつ組織的な絶滅を確証するような映像は、見当たらないのである。それとはまったく反対に、当時の収容所生活を視覚的に伝えてくれる写真が、非常に多い。それらの写真が示す情景は、いささかも絶滅を確証するようなものではなくて、むしろ逆に、同じ時期に、収容所のどこかの“秘密の”場所で、絶滅と称される作業が行われていたなどという状況とは、まったく相容れないのである。J・C・プレサックは、写真の実物とは関係のない勝手な解説を付け加えているが、その意図とは反対に、かえって、彼の捏造の仕組みが視覚的にも触覚的にも明らかになっている(『アウシュヴィッツ・アルバム』83)。
特筆すべきは、航空写真分析の専門家、カナダ人のジョン・C・ボールの業績である。彼は、さらに大量の写真の原板を結び付けて、厳密な分析を可能にしたようである。彼の結論は、公式の歴史とまったく矛盾する(ボール資源会社『航空写真の証言』92)。
すべての以上のような技術的な質問は、トロントで行われたエルンスト・ツンデルの裁判で、すでに提起されている。そこでは当事者の双方が、自分の主張を自由かつ十分に表現することができた。だから、トロント裁判記録は、すべての誠実な歴史家にとって格別の情報源になっている。この裁判で展開された議論を読めば、この問題の現状と、すべての論争の要素についての知識を得ることができる。双方の主張は、お互いが直ちに反対側からの批判を受けるという状況下で展開されているので、その意味でも貴重であるし、意義深いものがある。
[ヒルバーグ説は現実観念が欠けグロテスク]
決定的な重要性を持つと思われる細部の事実についての証言が、一九八八年四月五日と六日の両日にわたって行われた。証人は、カナダのカルガリー火葬場の監督、イヴァン・ラガセである。同火葬場はビルケナウと同じようなタイプの設計になっており、同時期の一九四三年に建造されている。つまり、この証人は、このタイプの火葬場の焼却炉の焼き窯の、技術的な制限や、設備維持のための必要事項に関して、全体的な説明ができるのである。彼は、火葬作業の中間で、つぎの死体を入れる前に、休みを置いて焼き窯を冷やす必要があると証言した。そうしないと、焼き窯の耐火煉瓦の被覆が破損するのである。
ラガセ証人は、ラウル・ヒルバーグの記述に関しての意見を求められた。ラウル・ヒルバーグは、その著書、『ヨーロッパのユダヤ人の破壊』(前出の2版)の中で、ビルケナウの四つの火葬場の四六の焼却炉について、その処理能力を、つぎのように言い張っている。
《ビルケナウの四つの火葬場の理論的な一日当りの処理能力は、四四〇〇体以上である。しかし、停止や作業の遅れを見込むと、実際の限界は下回る》
ラガセの主張によれば、ヒルバーグの断言は、“馬鹿げ”ており、“現実観念が欠如”している。四六の焼却炉で一日に四四〇〇体を焼けるなどと言い張るのは、グロテスクである。ラガセは、自分自身の経験にもとづいて、ビルケナウで一日に焼けたのは、一八四体だと断言した(同裁判記録)。
ラガセの証言は、確実に、プレサックの本に出てくる主張とも違っている。プレサックがパリで一九九三年に出版した『アウシュヴィッツの火葬場/大量殺人の機械』では、一四七頁の内の二〇頁だけしか“ガス室”に当てられていない。しかも、プレサックは、この本で『ロイヒター報告』を引用すらしていない。プレサックは一九九〇年に、いつものようにクラルスフェルド財団[訳注1]の資金援助を得て、『ロイヒター報告』に対する“反駁”を試みているのだが、その内容にはロイヒターの分析に釣り合うものがまったくないので、ここではあえて紹介はしない。
訳注1:より正確には、ベアト・クラルスフェルド財団。ベアトは、すでに本書にも「在郷軍人省の偽造文書」“発見”者および『アウシュヴィッツ・アルバム』発行者として登場済みのユダヤ人、セルジュ・クラルスフェルドの妻。フランスのフォーリソン博士に追加情報を求めたところ、アメリカのホロコースト記念館[サイモン・ウィゼンタール・センターの中心的“ショア・ビジネス”]の協力で発行された『死の収容所アウシュヴィッツの解剖学』(94)の中から、つぎのような記述を発見したのはフォーリソン自身だった。
《一九八二年以来、プレサック氏の仕事は、ベアテ・クラルスフェルド財団から奨励され、資料収集、編集、資金面での援助を受けている》
フレッド・ロイヒター技師の報告と、アウシュヴィッツ博物館当局の要請にもとづいて、クラクフの法医学研究所が一九九〇年に実施した再鑑定については、同じ資格を持つ専門家の間での科学的かつ公然たる論争が起きていない。“ガス室”に関する断片的な論争の全体像は、自由な議論の対象となり得ない状況にある。だからこそなおさらに、疑問が増し、懐疑がさらに深まるばかりなのである。
これまでのところ、公式の歴史に異議を申し立てたものに対して取られた唯一の対応は、議論の拒絶、暴行、検閲と言論弾圧である。