カール・マルクスとその亜流の暴力革命思想への徹底批判序説1.

(その9)トマス・ペインの平和主義

千年紀に寄す 拙著『電波メディアの神話』から抜粋 2001.6

●市民トム・ペインと『コモン・センス』の時代

 アメリカ独立革命の思想的支柱となった『コモン・センス』の著者、トマス・ペイン一七三七~一八〇九)も、民衆の側に立つプレスマン [印刷兼執筆業] の典型だった。というよりはむしろペイン自身が、もともと階級差別のきびしいイギリスの下積みの民衆の一人だった。

 ただしペインの職業を、プレスマンの直訳とすぐわかる「印刷者」とするならまだしも、「印刷工」(『史料が語るアメリカ史』)と訳すのは誤訳にちかい。

 平凡社の『世界大 百科事典』では「啓蒙的著述家」としている。アメリカ人のハワード・ファーストによる歴史小説『市民トム・ペイン』とその訳注や、『評伝トマス・ペイン』、『トマス・ペイン/社会思想家の生涯』などの資料で一致する点をみると、『コモン・センス』を著わす直前のアメリカでのペインの仕事は、日雇い家庭教師、『フィラデルフィア・マガジン』の雇われ編集・兼・執筆・兼・印刷者であり、それ以前には執筆の経験はあっても印刷の経験はないらしい。ともかく「印刷工」だけではせますぎるし、「印刷者」でも意をつくせない。主著の『コモン・センス』の場合には執筆だけで、印刷と製本は専門の業者にまかせている。

 アメリカにわたる以前のペインの経歴は、家業だったコルセット職人から、私掠船のキャビン・ボーイ、浮浪者、収税吏、煙草工場経営・兼・町会議員(一二人委員会の一員)まで、まさに転々としている。うまれ故郷のイギリスでは郷士の息子たちから半殺しの目にあわされたり、失業して流浪中の旅路では治療費がはらえずに妊娠中の妻を死なせたり、ありとあらゆる下積みの屈辱をあじわってきた。

 イギリスにはすでに名誉革命(一六八八~八九)からピューリタン革命(一六四〇~六〇)で国王を処刑した歴史まである。ペインがいだいた共和政の思想は、ヨーロッパではギリシャ、ローマ以来の歴史的経験をふまえてのことで、マキャヴェリ時代のイタリアにも実例があるし、けっして突飛な発想ではない。だがそれを本心で、生命の危険をもかえりみずにかたり、執筆するには、それなりの自前のいかりが胸の内にもえつづけていなければならない。

『コモン・センス』は何十頁にもならないパンフレットだが、アメリカ独立革命の最中に出版された。『史料が語るアメリカ史』には「三ヵ月で一万二千部の当時では空前のベストセラー」などと書かれているが、どうやらこれは一桁違いで「一二万部」だったらしい。

『市民トム・ペイン』では、印刷屋が「悪夢を見ているような」気分で夜を日についで 刷りまくり、「おそらく十万冊以上」出したとある。そのほかに二種の海賊版がでたこともたしからしい。『評伝トマス・ペイン』では全体で五〇万部という推定の数字をあげている。ワシントン将軍がひきいる民兵の総数は、冬は数千、夏は数万と、季節によって変動した。「どの兵士の雑嚢にも一冊、ページのすみの折れた、汚れた『コモン・センス』が入っている」(『市民トム・ペイン』)という状況だとすると兵士だけで数万部だから、大体の勘定はあってくる。

 ペインはみずからマスケット銃を肩にかついで兵士と行動をともにした。それがペインの主義だった。戦局が悪化していた時期にはワシントン将軍がペインにこうたのんだ。

「君の力にすがりたいのだ」「何か書いてもらえるとありがたい」(同)

 ペインはワシントンのもとめにこたえてパンフレット「危機」シリーズを第一六集まで書きつづけた。指導部の大陸会議内部でも外務委員会書記として前線に物資をおくる。「憲法擁護派」の立場で「共和主義協会派」の分裂策動をうちやぶる。その後の、のちにのべるような複雑な事情があって、従来のアメリカの公史での位置づけはひくかったようだが、ワシントンやフランクリン、ジェファソンらとペインとの関係は、キューバ革命に例をとれば、カストロとチェ・ゲバラのような関係だった。キューバでもカストロが大統領となり、「祖国なき革命家」のチェ・ゲバラは、南米の奥地で見はてぬ夢をおいつづけて死んだ。

●カレー選出のフランス国民議会議員と恐怖政治

 ペインは独立戦争の最中にも戦争遂行のための資金援助をもとめてフランスを訪問した。その際には「賓客として迎えられ、貴顕紳士が列をなして、『コモン・センス』を持参 し、署名を求められる」(同)。

 独立後におとずれたイギリスでもロンドンの社交界が扉をひらく。『コモン・センス』はいわば当時の国際的ベストセラーであった。ペインはしかし、イギリスの上流階級におもねったりはしなかった。まだまだ満足とはほどとおい。夢は世界革命にあったし、とりわけ故国イギリスにこそ念願の共和政治を実現したかった。そこでイギリスでも危険をおかして共和革命の思想をもりこんだ『人間の権利』第一部、第二部を出版する。最初は権力のすきをねらって少部数の上製本をだし、それをうけいれさせる。ころあいをみはからって廉価版を一万、二万、五万部。やはり三万部の海賊版がでた。

 だがやはり、名誉革命、ピューリタン革命と、二度の革命をのりこえた経験をもつイギリス王政の壁はあつかっ た。ペインを中心にあつまりつつあった非公然の組織には一斉に官憲の手がまわる。ペインは逮捕直前に忠告をうけいれて、革命がおきたばかりのフランスにのがれる。

 ドーヴァー海峡の対岸では「海峡名物の嵐」にもかかわらず「カレーの市民は、ほとんど総出でペインを歓迎した。軍楽隊が、ラ・マルセイエーズを、それからヤンキー・ドゥードルを演奏した」(同)

 ペインはカレー選出のフランス国民議会議員にえらばれた。議会ではわれかえるような拍手喝采でむかえられる。だがフランスでも、間もなくジャコバンの恐怖政治がはじまる。ペインはいわゆる穏健派のジロンドにくわわっていた。フランス国王の処刑には反対した。ジャコバン独裁の時期には発言もままならない。パリ郊外で『理性の時代』を執筆中に反逆罪の名目で逮捕され、ながらく投獄の浮き目をみる。いつギロチン台にのぼるかもしれない獄中の恐怖のなかでも『理性の時代』の執筆をつづける。

●奴隷制大農園主・初代大統領ワシントンの背信

 ペインの運命はここでチェ・ゲバラの場合とはすこしちがってくる。ペインは容易には死ななかった。

 パリの獄中からペインは、アメリカのかつての戦友ワシントンに救援をもとめるが、いまやイギリスとの友好関係の方をおもんずるアメリカ合衆国の初代大統領は、無言のままだった。恐怖政治がおわって釈放されたペインは『理性の時代』をアメリカとフランスで出版する。ワシントンにふたたび手紙をだしたが、またも返事がえられない。そのことへのいかりもあり、独立後のアメリカの政治の腐敗状況や、大統領の世襲制を主張するような副大統領のジョン・アダムスのうごきを批判するために、のちに加筆して公開する。

「あえていいますが、アメリカへの奉仕の度合いにおいて、あなたが私以上に私心がなかったとか、情熱的だったとか、忠実だったとはいえません。あなたの働きが私の働き以上に効果的だったともいえないようです。アメリカ革命が達成されたあと、あなたは故国にあってその成果を享受し、私は新たな困難の中に飛びこんでいきました。私はアメリカ革命が生みだした諸原理を広めたかったのです。時は移り、あなたはアメリカにあって大統領となり、私はフランスにあって囚人となる。あなたは腕をこまねき、友人を忘れ、沈黙を守った」

「アメリカ政府行政部のすさまじいまでの腐敗・裏切りの度合いを知っていたら、私は、リュクサンブール投獄中の私に対するワシントン氏の冷淡な態度に戸惑うこともなかったでしょう」(『市民トム・ペイン』訳注)

 ワシントンが三選を辞退したのちの大統領選挙では、後継をねらう副大統領のジョン・アダムスを、ペインの盟友トマス・ジェファソンがやぶって二代目の大統領となる。ペインの手紙はその政争にもつかわれた。

 アメリカにもどったペインをジェファソン大統領はあたたかくむかえる。しかしペインは、『理性の時代』を理由に宗教をないがしろするとみなされ、ワシントンへの非難をも理由に「裏切り者」として狂信者たちから迫害されたりする。

●奴隷制反対の筆をふるったペインの葬列に二人の黒人

 一八〇九年、ペインの葬列にしたがったのはたったの六、七人だったが、その列のなかには二人の黒人がいた。もう二、三人がまわりにいたという説もある。奴隷制が公認されていた時代になぜ黒人たちが「裏切り者」の葬列にしたがう危険をおかしたのか。

 ペインは独立戦争以前から奴隷制反対のためにも、するどい筆をふるいつづけていたのだ。

 孤高の晩年にも発行し続けたパンフレット『アメリカ人への手紙』第四号には「ペインの面目躍如たる一節」(同訳注)がある。

「公的な問題を論ずるとき、私は自分の意見が人々に支持されるか支持されないかを考慮に入れることは、かつて一度もなかったし、これからも決してないであろう。私が考慮に入れるのは、それが正しいか誤っているか、だけである。正しければいつかは必ず人々に支持される。必要なのは、意見を公然と主張する勇気である。直線が、つねに最大の近道なのである」(同訳注)

『市民トム・ペイン』は第二次世界大戦中の一九四三年に発表され、英語圏でベストセラーになった。同書では『理性の時代』の思想について「理神論」という表現をさけているが、その理由はおそらく理神論が当時もいまも非公然を建前とする組織、フリーメイソンとふかくかかわっているからだろう。フリーメイソンとアメリカ独立革命との関係は、いまではだれも否定しない。となれば、その仲間だったはずのペインがフランスで獄中にあるのを知ったフリーメイソンの組織のメンバーたちは、いかなる活動をしたのだろうか。歴史の奥深いひだには、まだまだ数多くの秘話がかくれているような気がする。

 たとえば、アメリカの独立は一七九一年であるが、その一四年も前、独立戦争中の一七七七年にはヴァーモント地方が独立を宣言し、黒人奴隷を禁じる憲法を制定していた。ヴァーモント地方は独立後のアメリカ合衆国の一州となり、一四年前からの独自の憲法を放棄した。獄中のペインを見すてたアメリカ合衆国が、奴隷制を法的に廃止するのはそれから半世紀以上ものちのことだし、現在も実質的な差別支配はつづいている。

 もちろんいまではイギリスでもアメリカでも、ペインは再評価されている。しかしそのことが一般市民に十分につたわっているわけではない。その逆に日本などでは「少年時代に桜の木を切ったことを正直に告白した」というワシントンのにせの伝説がいまだに訂正されておらず、奴隷制の大農園主だったことは教えられていない。東西冷戦構造が崩壊したのちの思想的混乱の中でいままた、民衆の側にたちつづけたジャーナリストの原点として、ペインに学ぶべき点は多々あるだろう。

 ペインの雑誌、パンフレットの内容に比較しうるものが、日本の電波メディアで伝達されているだろうか。数千部、数万部のパンフレットと、最先端技術を駆使し、数千万、いや数億の視聴者に一挙にとどく速報性メディアとでは、どちらがメディアとして優れているといえるのだろうか。問題はメディアの技術的な特性よりも、その政治的な特性にある。ひるがえって考えればまた、それを民衆の側の武器として活用しようとするジャーナリ スト、市民の側の思想の程度にもあるといえる。

●人間と市民の権利宣言の基本に立ち戻る議論展開を

 最後にもう一度、メディアと市民の権利の関係を考えなおしてみたい。

 私は「電波メディア主権」という考えを提唱し、それをすべてのメディアにおよぼそうとよびかける。なぜならば、市民のメディア主権が確立されないかぎり、言論の自由、人権の擁護と確立は不可能だからである。

 第二次世界大戦がおわった直後には、世界中が恒久平和実現への情熱にかりたてられた時期があった。一九四八年一二月一〇日に国連の第三回総会で採択された「世界人権宣言」は、その情熱の具体化であり、そこにはつぎのような人権と言論の自由に関する歴史的 な字句がきざまれていた。

 まず前文にはこうある。

「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利」

「言論および信仰の自由」

「達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する」

 第一九条にはこうある。

「すべての人は、意見及び表現の自由を享有する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見を持つ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む」 (『世界人権宣言』の訳による)

 ここで指摘された「あらゆる手段」こそがメディアの機能の問題である。

 歴史的にみると、活字を一本づつひろった技術段階の時代の言論の自由が、一七七六年一月一〇日にフィラデルフィアで『コモン・センス』の発行を可能にし、アメリカ人に独立への決意をうながした。『コモン・センス』でペインは、「イギリスの立憲政の構成部分」を「二つの昔ながらの専制の卑しい遺物と新しい共和政の素材との混合物」として、つぎのように分解して説明する。

「第一は、国王個人が体現している君主政的専制の遺物。

 第二は、貴族院議員が体現している貴族政的専制の遺物。

 第三は、庶民院議員が体現している新しい共和政の素材であり、イギリスの自由はこの議員たちが備えている美徳に支えられているのである」(『史料が語るアメリカ史』の訳による)

 ただし、「庶民院議員」の「美徳」という評価は、あまりにも理想主義的で、あまかったといわざるをえない。だがこれも時代の制約というしかないだろう。

『コモン・センス』がフィラデルフィアで発行され、熱狂的なベストセラーとなってから半年後の一七七六年七月四日には、おなじフィラデルフィアでひらかれた大陸会議で「独立宣言」が採択された。起草委員会の中心メンバーだったトマス・ジェファソン(のちの第二代大統領)は上流階級の出身だが、『コモン・センス』の発行以前からペインと親しい仲だったし、ペインの人柄からつよい影響をうけていた。

「独立宣言」にはこうある。

「すべての人間は神によって平等に造られ、一定の譲り渡すことのできない権利をあたえられており、その権利のなかには生命、自由、幸福の追及が含まれている。またこれらの権利を確保するために、人びとの間に政府を作り、その政府には被治者の合意の下で正当な権利が授けられる。そして、いかなる政府といえどもその目的を踏みにじるときには、政府を改廃して新たな政府を設立し、人民の安全と幸福を実現するのにもっともふさわしい原理にもとづいて政府の依って立つ基盤を作り直し、またもっともふさわしい形に権力のありかたを変えるのは、人民の権利である」(『史料が語るアメリカ史』の訳による)

 一七八九年八月二六日にはアメリカ独立宣言の影響のもとで、フランス国民議会が「人間と市民の権利の宣言」を採択する。その前文にはこうある。

「国民議会を構成するフランス人民の代表者たちは、人権についての無知、忘却あるいは軽視のみが、公衆の不幸および政府の腐敗の原因であることにかんがみ、人間のもつ譲渡不可能かつ神聖な自然権を荘重な宣言によって提示することを決意した」

 第一〇条にはこうある。

「いかなる者も、その主義主張について、たとえそれが宗教的なものであっても、その表明が法によって確立された秩序を乱さないのであれば、その表明を妨げられてはならない」

 第一一条にはこうある。

「思想および主義主張の自由な伝達は、人間のもっとも貴重な権利の一つである。それゆえいかなる市民も、法によって定められた場合にはこの自由の濫用について責任を負うという留保付きで、自由に発言し、著作し、出版することができる」 (『資料フランス革命』の訳による)

「市民=視聴者」ではなくて「市民=電波メディア主権者」の意識を確立した市民個々人が、「人間のもっとも貴重な権利」を同時にあらゆるメディアに対して主張することを、私は痛切にもとめる。

 体制側はいま、マルチメディアが「双方向機能」だなどとおおげさに宣伝し、無理を承知で売りこんでいる。だがその前に、人権の擁護と言論の自由の「双方向機能」こそが追及されなければならない。光ファイバ網がなくても、やる気がありさえすれば双方向の意思疎通はいますぐにでも可能である。

 まず最初にそれを実現すべきなのは既存の大手メディアである。まずそれをやって見せてからでなければ、あらたなメディアについての「バラ色の夢」などをかたっても信用すべきではない。現状をそのままにしてあやしげな構想をたかく売りつけようとする相手には、「まずここで飛べ!」と命じてみることだ。

以上で(その09)終わり。(その10)に続く。


(その10)『貧困の哲学/経済的諸矛盾の体系』の邦訳がないのに マルクスの批判本を鵜呑みの怪談
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