「ガス室」裁判 訴状全文 その3

訴状全文 3 当事者の関係

請求の原因(続き)

第2、本件に関する被告・本多勝一の編集による『週刊金曜日』の記事掲載状況等(続き)

二、原告と被告・本多勝一及び『週刊金曜日』との関係
1、被告・本多勝一からの著書献呈と『週刊金曜日』創刊以前の寄稿依頼

 原告は、1993年[平5]5月ごろに被告・本多勝一から、同人の著書、『貧困なる精神Z集』(毎日新聞社、1993年[平5]5月10日発行)の献呈を受けた。この献呈本には、「引用箇所」を示す付箋が貼られており、その箇所には、原告の著書に関しての、つぎのような評価が記されていた。

「たとえば最近刊行された木村愛二氏の『湾岸報道に偽りあり』(汐文社)(前略)などは、『中東の石油支配を狙うブッシュのワナにはめられたイラク』という構図が実にわかりやすく分析されている」

 その後に原告は、被告・本多勝一からの直接の電話で、その当時創刊準備中であった『週刊金曜日』への寄稿を依頼された。原告の寄稿は、同誌の1994年[平6]1月14日号に、「湾岸戦争から3年/だれが水鳥を殺したか/湾岸戦争報道操作は続いている」という題名の5頁の記事として掲載された。本件の場合と比較するために、その際の原稿料に関する事実経過を述べておくが、記事掲載後に同誌からの問い合わせに答えて原告が告げた銀行の個人口座に振り込まれる以前には、一切、金額や支払い条件の提示はなかった。だがこれは、電話一本の寄稿依頼と同様に、現在の日本の出版界の通常の慣行であるから、原告はあえて問題とはしなかった。

 原告は、その間及び以後に、被告・本多勝一と、日本ジャーナリスト会議(JCJ)などが主催する集会で何度か顔を合わせる機会があり、その都度、短い友好的な会話を交わした。原告は、同会議に、1991年[平3]から1996年[平8]まで加入していた。被告・本多勝一は、同会議をかつて退会していたが、1993年[平5]11月5日予定されていた『週刊金曜日』の創刊を前にして、支援を訴えるために再加入していた。

2、『週刊金曜日』への3年分の予約購読料金振り込みと創刊の趣旨への期待

 原告は、収入が少ないばかりか非常に不安定なフリーランスであるから、通常は雑誌等の資料を可能な限り図書館で利用することにしているのであるが、この『週刊金曜日』に関してのみは、創刊準備委員会の呼び掛けに応じて、無い袖を振る思いで3年分の予約購読料金を振り込んだ。その理由には、創刊以前に依頼された右の寄稿の原稿料という収入の当てがあったという事情もあるが、前記JCJの代表委員であり、被告・本多勝一の大先輩に当たる元朝日新聞外信部長・取締役の秦正流が、同誌の創刊支援の呼び掛け人に加わったこと、原告が1973年[昭47]から1988年[昭63]まで日本テレビ放送網株式会社を相手に争っていた不当解雇事件の弁護団の一員、小笠原彩子から支援を訴える手紙を受け取ったこと、同誌の初代編集長が『放送レポート』の版元として旧知の晩声社社長、和多田進だったこと、などの特別な理由があった。原告は、それらの知人への信頼感から、同誌創刊の趣旨が真に貫かれることを期待しつつ、あえて、無い袖を振る思いで3年分の予約購読料金を振り込んだのである。

 同誌創刊に当たっては、まずテスト版の『月刊金曜日』が4号出ているが、それらの誌面には「新しいジャーナリズムを創る」(同1号巻頭・編集委員・井上ひさし)、「この雑誌は『[被告]本多勝一さんが始めた』のではありません。[被告]本多さんは応援者であり、編集委員のひとりには違いありませんが『始めた』のではない。(中略)誌面が多様性を発揮し、苛烈な論争によって問題を前進させていくことを身につけていきたい」(同2号・編集後記)などの抱負と創刊準備の事情がこもごも記されていた。同誌の「編集委員」の最年長者である哲学者、久野収は、「『週刊金曜日』の発刊に寄せて」(同2号巻頭)と題し、つぎのように記していた。「いかなる機構、どんな既成組織からも独立し、読者と編集者の積極的協力の道を開き、共同参加、共同編集によって、週刊誌における市民主権のモデルを作りたいと願っている。(中略)1935年、ファッシズムの戦争挑発を防ぎ、新しい時代と世界をもたらすために、レ・ゼクリバン(作家、評論家)が創刊し、管理する読者として出され部数十万部を数えた『金曜日』[ルビ:ヴァンドルディ]の伝統もある」

 1993年[平5]11月5日発行の『週刊金曜日』創刊号の巻末には、「挑戦する雑誌」「一切のタブーに挑戦し、自由な言論をくりひろげる」「論争する雑誌」「反論を重視」などの字句が踊っていた。

 しかし、以上のような創刊当時の事情には、以後、大幅な変動が見られた。JCJの代表委員として支援の呼び掛け人に名を連ねていた秦正流は、すでに他界した。初代編集長の和多田進は1年を経ずして辞任し、編集委員の被告・本多勝一が編集長を兼任した。編集委員では、石牟礼道子と井上ひさしとが、相前後して辞任した。

3、本件と被告・本多勝一の関係

 1994年[平6]11月3日、JCJは、当日の読売新聞朝刊の1面トップ記事として発表された「改憲論」の批判を中心とする緊急集会を開いたが、その後の懇親会の席上、被告・本多勝一が原告の隣席に座ったので、原告は、たまたま別人に渡す予定が外れたために所持していた『アウシュヴィッツの争点』の第2草稿(当時の仮題は『「ガス室」神話検証』)を同人に見せた。すると同人は即座に、「これは有り難い」と押し頂き、原告が執筆した「『噂の真相』の記事(前出。1994年[平6]9月号、「映画『シンドラーのリスト』が訴えた“ホロコースト神話”への大疑惑」のこと)を見て、電話をしたのだが、その時は、お留守だった。ぜひ、これを連載させてほしい。 400字詰め1枚で4000円しか出せないけれど、あとでまた単行本もだせるし、良いでしょ」と、異例の積極的かつ具体的な申出をした。原告は、この同人の申出を、前述の日本の慣行から見て完全な成約と見なし、ただちに、「本書」とあった何十か所もの記述をすべて「本稿」に打ち直すなどの連載向けの作業を行い、第3草稿を、被告本人及び担当編集部員向けに2部作成し、年内に、『週刊金曜日』編集部宛てに郵送した。

 しかし、この連載の計画は、同誌編集部内に反対意見があったことも手伝ってか、話が中断したまま年を越えた。

4、『マルコポーロ』廃刊事件以後の経過

 1995年[平7]1月30日、文藝春秋は、「ナチ『ガス室』はなかった」という題名の記事を掲載した『マルコポーロ』(1995年[平7]2月号)に対する不当な言論抑圧の攻撃に屈して、同号の全面回収と、同誌廃刊の決定を発表した。

 以後、原告と被告・本多勝一との関係は、前述のような本件で争われる基本問題をめぐって急変した。右のように話が中断したままの連載の申出は、事実上、破約の状態になっていたが、被告・本多勝一はまず、原告に対して一言の詫びの言葉も発していない。事態急変の真因は、被告・本多勝一と『マルコポーロ』の出版元の文藝春秋およびその社員である編集者、花田紀凱との関係にあった。

 被告・本多勝一は、文藝春秋と、同社発行の『諸君』1998年[昭56]5月号に掲載された記事、「今こそ『ベトナムに平和を』」における同人への批判についての訂正と反論掲載を求めて訴訟継続中(一審、二審とも同人の敗訴、現在、最高裁に上告中)である。廃刊決定当時の『マルコポーロ』編集長、花田紀凱とは、同人が編集長だった時期の『週刊文春』1988年(昭63)12月15日号に掲載された記事、「“創作記事”で崩壊した私の家庭、朝日・本多記者に当てた痛哭の手記」に反論掲載を求め、この件については訴訟を提起せずに、文藝春秋・花田紀凱と同時に日本の裁判制度への非難を機会あるごとに綴り続けているという関係にある。

 この間の事情は、複雑多岐にわたるので、のちに証拠にもとづく詳しい立証を行うが、あえて要約すれば、原告は、被告・本多勝一が、自己の文藝春秋及び花田紀凱に対する宿年の恨みを晴らすために、本件の主題を利用するという許しがたい政治的な過ちを犯していると判断した。しかし、原告は、被告・本多勝一の過ちと動揺を知りつつも、手段を尽くして反省をうながし、合わせて、前述のような『週刊金曜日』創刊の趣旨の一つ、「苛烈な論争によって問題を前進させていく」編集方針を論拠にして、反論記事の掲載を求め、結果としてまず、同誌の1995年(平7)3月17日号「論争」欄に「『マルコポーロ』“疑惑”の論争を!」を寄稿した。

 以後、若干の投稿の応酬を経て、一時、誌上の議論は途絶えていたが、1996年[平8]1月18日に発表された花田紀凱の朝日新聞移籍、及び、その後に具体化された朝日新聞社発行の『ウノ!』編集長への就任を新たな契機として、議論は再燃しはじめ、『週刊金曜日』は前記の合計14回の連載記事、「『朝日』と『文春』のための世界現代史講座」を掲載するに至った。


その4:誹謗中傷の事実の間に進む