読売グループ新総帥《小林与三次》研究(3-5)

電網木村書店 Web無料公開 2017.4.1

第三章《逆コースの水先案内》

公職追放の日本側窓口はGHQから何を守ったのか

5 「GHQ批判」パンフレットの真相

 こうした奇っ怪な戦後史には、さきにふれた国際情勢に加えて、当時の複雑な権力構造という背景がある。支配層の中での主流・反主流の争いもある。だから、ひとつひとつの言動を評価する際には、その周辺の状況を抜きにしてはならないのは、当然も当然のことである。

 しかし、なにせお古い話だ。都合のいい伝説を作り上げようとすれば、どうにでも、事実の評価をねじ曲げられるもの。ましてや、あの巨大な読売新聞の“売り込み企画”ともなれば、一片の言動というネタそのものすら、事実の確認をする必要もないらしいのだ。

 これがもし、小林自身にも裏を取った取材だとすれば、御本人にも、最早、老人性のボケが始ったのではないかと思われるような話もある。

 たとえばこうだ。

《ここに小林が『反権力』の姿勢を貫いたひとつのエピソードがある。

 敗戦によって、GHQがすべての権力を握っていたときのことだ。小林は選挙課長をやっていたが、GHQは『実に細かい干渉』(小林)をしてきた。このことに怒った小林は『そんなことを言うのならミスター吉田(首相)にこのポストをやらせたら……』と抵抗した。

 その後、行政課長として公職追放も担当したが、ここでもGHQと衝突して、結局、内務省を追放されてしまった。

 小林は、よほどGHQのやりかたに反発したのだろう。内閣審議室に左遷されると「GHQ批判」のパンフレットを書き、日本人の関係者に配布して回った。

 当時のGHQの権力は強大で、戦前の国粋主義者の多くもその権力の前にひれ伏していた。もちろん小林は国粋主義者ではなかったし、単なる愛国心から抵抗したのでもない。小林は権力を傘に、横暴なことをする人間を許せなかったのである》(『現代』(’81・6「80年代のドン……」)

 まず、事実関係だが、「行政課長として公職追放も担当」したとあるのは、まったく違う。すでに触れたように、小林が公職追放に関係したのは、鈴木先輩が、元特務機関員でありながら、「行政課長」の現職を張っていた時のこと。小林自身は、内務省監察官、つづいて初代職員課長として、公職追放リストの作成に当ったのである。また、小林自身は、しきりと、このリストづくりが自分とGHQとの最大の争点だったかのように主張し、GHQに「マークされた」などと語っているが、この話にも大いに符に落ちないところがある。というのは、小林は、職員課長の後に「選挙課長」になっており、その時代が一番GHQとの接触が多かったらしいからだ。GHQは、少なくともこの時まで、「小林のクビをきれ」などとは日走っていないのだ。

 小林はそののち、たしかに行政課長にもなる。しかし、この時にも、GHQからのクレームはついていない。あれほど「GHQと衝突した」ことが自慢の小林が、まさか名指しのクレームについて、自ら語らぬわけはなかろう。

 本当に名指しのクレームがついたらしいのは、内務省解体という、いわば史上空前の大地震以後のことである。小林は、地方局の行政課員として出発したわけだから、行政課長の辞令とくれば、やっと本物の課長になれたような想いであったろう。だが、……

《私は、本職の行政課長就任三月にして、…… 内務省の廃上に伴い、内事局自治課長を命ぜられたが、二月余りで、内事局の廃止とともに、地方行政から離れたのである。自治課長になってからは、あれほど通い続けた司令部の玄関を、再び踏まなかった。地方自治法についての、司令部との折衝は、内事局時代も続けられたのであるが、それはすべて、内事局庶務課長であった鈴木さんの手を煩わした。私は、国内では、内事局自治課長であったが、その就任は司令部の認めるところとならず、司令部に顔を見せることができなかったのである》

 ということで、いささか目まぐるしいのだが、その時にはすでに、「内務省」そのものが存在しないのである。だから、当然、「内務省を追放されてしまった」などという事態は、起りようがなかったのである。

 おそらく小林なり、読売新聞の“売り込み企画”ブレーンは、内務省からの「追放」劇の一幕をデッチ上げることによって、二重の効果をねらったものであろう。第一には、GHQと闘った小林、第二には、内務省から外に出たこともある「幅の広い経歴」を持つ小林、といったところだろう。

 ところが、このように事実経過をたどると、そんなに単純な話ではないし、かなり違いがある。なにしろ当時の日本という国は、世界中から総スカンも良いところ。あの吉田茂が、国会で、日本共産党議員野坂参三の「防衛戦争は認めよ」という憲法第九条に関する質問に対して、なんと、こう答弁していたのである。

《国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私はかくの如きことを認むることが、有害であると思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行なわれたることは顕著な事実であります。ゆえに正当防衛権を認むることが偶々戦争を誘発する所以であると思うのであります。正当防衛権を認めることそれ自身が有害であると思うのであります》

 つまり、こういう説明つきの憲法を制定しない限り、日本は、国際的に許してもらえなかったのである。いわば、強盗殺人犯扱い。国際的な禁治産者として、厳重な監視下にあったのだ。そしてそれは、当然のことであった。第一次世界戦争を引き起したドイツが、アッという間に、さらに凶悪なナチ帝国に変身し、ヒロヒトイズムの日本、ファシズムのイタリアと三国同盟を結び、世界中を悪夢に引きづり込んだ記憶の新しくも無惨なころ。その病原菌の根絶を確認するまでは、眼を放してはならぬと思いつめていた人々が、大多数だったのだ。いまにして、その執念の風化がおしまれるのだが、ともかく当時は、チャンバラ映画もダメだったのだ。

 GHQの占領政策も、本来なら、他ならぬアメリカ国民の声をも背景に、もっと厳しくしなければならない事情にあった。だから、内務省の解体も、かなり強力に進められたのである。

《マッカーサーから、国民を奴隷状態に置くことから解放しなければいかぬというような要求がなされた。まるで、国民を奴隷状態に置いているのが内政の面、したがってそれの責任者である内務省がしておるかのような見方が司令部に接触する我々にも伝えられた。したがって地方局への、なんといいましても、内務省の本流である地方局への風当りが非常に強くなってきた》(『自治研究』’60・8)

 これが、元地方局長で初代自治庁長官に返り咲いた郡祐一の、自治庁復活後の座談会での回想である。  その後、小林が、内務省解体中にいたポスト、「自治課」とは、まさに最後の要塞であった。つまり、戦国の落城にたとえれば、若殿を守って、抜け穴から逃げ出す側近たちの群れの如きものであった。その経過を、同じ座談会で、鈴木俊一が要約して語っている。

《内事局丸はいわば内務省丸の沈没しかかった直後に救助船として船出をした、ちょっと大きな船であったわけですが、その内事局丸もいよいよ沈没するということになりました。全国選挙管理委員会、地方財政委員会等は、それぞれ独立の機構になって、基礎も定まったわけでありますが、あとに残りました内事局の官房を中心とした旧地方局の行政課、あるいは旧内務省の文書課の一部、あるいは人事課の大部分、こういったようなものの乗る船というのは、まことに小さい船で、総理庁の官房自治課というものになったわけであります》

 小林自身も、「自治雑記」の中でこう語っている。

《内事局は、内務省の廃止より、警察法の施行に至るまでの、つなぎの組織………、内事局の廃止とともに、総理庁官房の一課(自治課)に移されるのだが、全くの綱渡りである。綱渡りといっても、普通の綱渡りなら、渡るのは危いにせよ、渡る先がはっきりしているのだが、この場合は、先はどうなのやら見当のつかない、絶対権力者である司令部との間の、綱渡りである。従ってお先は分らないけれども、なにがなんでも、どうにでもして種子を残しておかなければならぬというのが、われわれの考えであった。形はなんであれ、名目はなんであれ、自治の種子を残そう。……… 中央にも、その中核がなければならぬ。その核が、今危殆に瀕しているのだが、取り敢えず、残務整理機関である内事局の官房で、これをつないだ。そして、その消滅とともに、総理庁自治課で、これを残すことにしたのである》

 関係者と組織上の整理をすると、内務省解体後、内事局庶務課長が鈴木俊一、同じく内事局自治課長が小林であった。その内事局が総理庁に、いわばかくまわれて、総理庁自治課に圧縮されたのであり、その時の総理庁自治課長は鈴木俊一であった。だから、小林は課長の肩書きを失ない、別のかくれ場所を求めるしかなかったのである。経過から見ても、GHQがこと更に小林を外したとは考えにくいのである。鈴木俊一の方が小林の先輩だったのだから、残された唯一の課長席をゆずるのは、当然ではあるまいか。

 内務省におけるこの部分の主流的な性格は、さきの座談会でも何度も確認されていることだった。だから、鈴木や小林は、内務省の「お家再興」に当っての選抜メンバーとして、残されたといってよいのである。もちろん、内外の非難もあって、GHQも追及の手をゆるめるわけにはいかなかった。旧内務省高級官僚の名簿と照合したりして、かなりのクレームがつけられたようだ。だが、小林は、……

《幸にして、上司の配慮で、総理庁審議室に席が与えられることになったのだが、そこでも、選挙や地方との連絡に関する事務などに関与することは、禁ぜられていた。もっとも、実際は、内閣でのそれに関係ある仕事は、専ら私が担当した》

 このように小林の「総理庁審議室」入りは、そういうGHQの動きへの、ひとつの隠れミノでしかない。だから、「総理庁自治課」のお隣りで、相変わず、「私が担当した」というわけなのだ。

 しかも、GHQそのものの本音と建前の二枚舌、高級官僚との、陰の取引の実態については、やはり小林自身が、トクトクと語っている。

《私は、公式には司令部に出入りすることを禁ぜられたが、私的には、係り官とかなり親密な交渉を持ち続けた。チルトン中佐(当初少佐)といえば、地方自治に関する担当者で、日本側としては随分手を焼いた相手方である。新しい自治制度について、全国の自治関係者に講演をして廻っていたから、地方にも覚えている人が少なくないはずである。私は、地方自治に関与することは禁ぜられた後においても、その私邸を何度か訪れ、地方自治について質問に応えた。中佐の国内講演のたねの何がしかは、その会談と無関係でなかったと思う。昭和二八年に、自治庁行政部長当時、ウィーンで開催された、戦後初めての国際自治体連合の総会に出席し、帰途、アメリカを廻った際に、サンフランシスコで、同中佐の心からの歓待を受けた。加州大学や、スタンフォード大学などにも案内して貰った。半パージを受けた格好ではあったが、私には、当時の関係者は、いずれも、懐しい友人である。もし、手軽に英文の手紙を書けさえしたら、チルトン中佐との交友は、いつまでも続きそうである》

 これが、GHQに「マークされた」と自称する高級官僚の、優雅な「配所の月」日であったのだ。

 さて話は戻って、くだんの「チョウチン記事」によれば、このような、隣りの室への偽装「島流し」の際、小林が「GHQ批判」のパンフレットを配布したというのだが、それはどういう話なのだろうか。本当にGHQ批判の文章を書いたのであろうか。

 ところがこれも、まことに奇妙なのである。まず「自治雑記」には、まったく「GHQ批判のパンフレット」だなどと書かれていない。それ以前にも、GHQによる内務省解体について、かなり強烈な批判を書き連ねているのだから、いまさら遠慮をするわけはない。「当時も闘った」という証拠物件があるのなら、これぞ最大の目玉商品。むしろ鳴物入りの大宣伝で、にぎやかな前口上が入るところであろう。しかし、それらしき「ガリ版」の話は、つぎのように説明されているだけなのだ。

《私は、内事局消滅の昭和二三年三月六日づけで、先輩知己に対し、挨拶状を送った。ザラ紙にガリ版刷りで、当時の心境を綴ったものである。その一部が、机の底にしまわれていた。今さら、そんなものを引き合いに出すのもいかがかと思われる。しかしながら、今までの執筆は、過去のことなら、現在の私が、思い出して書いたものだが、これだけは、当時そのままである。敢えてその一部を引用することを許されたい。

「私はこの度、自治課長の職を退き、今後地方自治、選挙及び警察に関係ある官職からは一切退くことになりました。………」》

 以下、たしかに、いわゆる「地方自治」への想いは、綿々と語られている。だから、事情を知るものには「GHQ批判」の想いをこめたのだと、遠まわしに伝わるかもしれない。しかし、もっとも肝心な部分は、つぎのように、内務省解体止むなし、つまり「GHQ賛成」になっているのだ。

《新日本の建設のためには、すべては、常に前進を続けねばなりません。特高関係者の追放がその一歩なら、知事の公選も、翼賛会や武徳会関係者の追放も警察力の地方分権も、すべてこれを推し進める階梯であり、内務省の解体も又、その大きな一段階であります。内務行政における免がれることのできない改革は、内事局の消滅を以て、一段階となりました。私たちは、新しい性格と機構と陣容と、そして新しい生命と意気込みとを持った自治体や、新警察機構、新選挙管理機構、新地方財政機構等に大きな期待と信頼とを寄せます。すべては新しいものを基礎にして発進され、展開されなければなりません。私自らも、内務行政に関係ある存在たることが、内務省の解体と共に終わらねばならないならば、敢えて、新しき国家に、今の私に許される部門に自らの途を見出して、進まねばなりません》

 そして最後に、つぎのような「宣言」とも取れる文章があれば、むしろ真意は他にある。つまり、「内務省丸」を離れたくないという、関係者への意志表示、お願いに他ならなかったのである。

《私は地方自治に関する官職からは離れますが、善良な一公民として地方自治への関心と愛情とを捨て去ることはできません。寧ろ自由な一公民として、機会があれば、率直に卑見を口にもし、筆にもしたいと考えます》

 かくて、自称“善良な一公民”たる小林は、新たな内務省閥の一角に、しっかりとかじりつき、そのボスの一人となっていくのである。


第四章《“民間”の官界ボス》
1 《内務省復活》の野望と弁解の奇妙キテレツ