電網木村書店 Web無料公開 2017.4.1
第三章《逆コースの水先案内》
公職追放の日本側窓口はGHQから何を守ったのか
3 地方《翼賛会》幹部へのドロボウに追い銭
小林はさらに、その後の地方人脈づくりの秘密を、トクトクと語る。
《政令や基準の適用について、司令部との間に議論が生じたことが少なくないが、読める限りは適用しないことに読むことにした。わざと規定にあなをあけておいたわけでは無論ないが、あなのある限りは、それを利用することにした。追放覚書該当者の退職金の支給禁止の規定などもそれであって、五大市の区長や、北海道の二級町村の有給町村長までも、形式的に翼賛会の区市町村の支部長であったが故に、退職金の支給の途を断たせることは、しのびがたかった。私は、勅令が出る前に、自発的にやめさせるように指導した。覚書該当者としての烙印を押させないで、やめさせてしまい、退職金も支給させた。そんなことで、後から司令部に投書などがあり、ひどく叱られたこともある》
《私は、……、追放事務の表面からかくれざるを得なくなったのであるが、それは正確には、司令部に対する関係からだけであって、国内的には、なお当分の間関係していた。そして、少なくともこと追放に関しては、一人でも適用外にしようとして、こちらの気持にそわないことには、すべて抵抗した》
これが「退職金」どころか、一家の柱を赤紙一枚で死地に連行されたままの日本人何千万人が、史上空前のインフレ政策で苦しんでいた時の話である。そしてアジア全域の何千万人もの死者、残された破壊の跡もそのままの時期だ。だがそれら下積みの犠牲者たちへの「しのびがた」さは、どこからも感じられないのだ。 東京裁判の開かれ方についても、「勝者が一方的に敗者を」云々の批判がある。公職追放についても、そういう気分を利用して、「日本の実情を知らないGHQのやり過ぎ」だという、俗受けのするデマゴギーが作られようとしている。小林の論法は、まさにその典型である。
東京裁判やGHQの覚書きに問題があるというのなら、日本国民自身に、戦争犯罪を裁く運動を、積極的に起させれば良かったではないか。大いに資料を公開し、自らも「興亜院文化部」だとか「隣組制度づくり」だとかの旧悪を告白して、大衆的な審判を仰げば良かったではないか。もちろん、《隠滅作戦》にひきつづく小林らの密室作業は、その逆をねらうものであった。
《追放を逃れた人だけでなく、復帰した人のなかにも小林に恩義を感じる人が多数いたといわれる。このことが、小林が日本のエスタブリッシュメント層のなかに、深く食い込むうえでプラスになった》(『現代』’81・10)
というわけだから、「エスタブリッシュメント層」と、自分のための努力だ。
そこで、民衆の告発はGHQに向わざるをえず、GHQも「解放軍」の看板を掲げた以上、それらの告発を取り上げざるをえない。すると小林は、事態をすりかえて、またもや、それを「非国民」呼ばわりしかねまじき「痛憤」を洩らすのである。そして、本音も……。
《日本人同士が、相手を蹴落すために、追放を利用しようとすることは、私のもっとも我慢がならないことであった。どうせ、司令部の情報は、多くは日本側からのものである。新聞記事もあろうが、投書もあり、いろんな筋を使っての提供もあったに違いない。司令部を通じて追放を利用する、それは人間としてもっとも愧づべきことといわなければならぬ。一人でも救おう。そこには、人間的な甘さもあったろうが、私は、むきになってそんなことを考えたものだ。私には一種の対外的意識がいつも働いていた。それとともに、国内の、もとより極めて少数の者だろうが、占領軍を通じて同胞を退けようとする気配に、大きないきどおりがあったのだ。免かれて恥なしということもあろうが、それはすべて国内のお互いの問題としたかったのだ》
GHQの動きの背景には、小林自身も認めているように、選挙結果への心配があった。つまり、公職追放の範囲は、小林らの抵抗でせばまる一方。このままでは、相当数の戦前・戦中派議員が、再選されるかもしれないという状況であった。 さてもさても、あきれはてた仲間かばいではなかろうか。そして、こういう情実が横行する裏に、「私は貝になりたい」のドラマに象徴されたような、よるべなきBC級戦犯への過酷な死刑や、弱者のクビキリによる一家悲劇があったのだ。内務官僚によるリスト操作は、こうして、弱い他人の犠牲の上に、たとえば鈴木行政課長ほか、「エスタブリッシュメント層」の御無事を確保したのである。
また、いまやベストセラー『悪魔の飽食』で広く知られるにいたった生体実験の石井部隊の例もある。石井中将以下の特務機関員は、米軍へのデータ提出と引換えに、戦犯リストから外された。そして、石井部隊も軍の「防疫給水部」とされていたのだが、鈴木俊一の所属した部隊も、やはりこの「防疫給水部」だったのだ。
さらに、生体実験や細菌作戦を実行したのは、石井部隊だけではないという証言も、いくつか現われている。まだまだ謎は深いのである。
最新の情報には、中国人労働者への強制労働の残虐な弾圧で知られる「花岡鉱山事件」の戦犯釈放問題がある。毎日新聞(’82・1・28)は「GHQ文書に新事実」という五段の大見出しで、国会図書館現代政治史資料室の発表を報じている。大筋の話はこうだ。
《終戦直前、過酷な重労働にあえぐ中国人労働者がほう起し、日本側が激しい弾圧を加えた「花岡鉱山事件」の日本関係者を戦犯と断じた連合国軍事法廷判決に対し、当時の米軍法務当局が不当な裁判だとし、別の軍事法廷で再審理するよう勧告していた新事実が二七日、明らかになった。国立国会図書館が公表したGHQ(連合国軍最高司令部)文書の戦犯関係資料に含まれているもので、違法な訴訟手続きなどを、その理由にあげている。絞首刑などの判決を受けた六被告はその後全員ひっそりと釈放されるなど、花岡鉱山事件の処理にはナゾが多い。この新事実はこの裁判の実態の解明に貴重な手がかりとなりそう》
問題の六名の戦犯は「BC級」である。このあとの記事で、毎日は、なぜか単に「警察」と書いているが、「特高警察」と在郷軍人会が弾圧の“山狩り”の先頭に立っていた。千田夏光の『あの戦争は終ったか』によると、秋田県の花岡鉱山への強制連行は、総計九七九人となっているが、これも「正確ではない」とのこと。残された記録もいい加減なのだ。栄養失調と病気で三分の一が死亡、座して死を待つよりはと脱出を試みた一隊には、かの関東大震災における大虐殺もかくやといわんばかりの弾圧、みせしめの拷問、いびり殺しの私刑が加えられた。その後の死亡も含めて、死者数は四百を超すという。しかし、BC級戦犯の被告となったのは、花岡鉱山の出張所長、棒頭三名、警察署長、巡査部長の六名だけで、それさえも「GHQ法務官局のマック・アレン・フライタッグ法務官」の「再審理の勧告」という手品で、こっそり釈放されてしまったのである。
だが、この事件の根は深い。日本へ強制連行された約七万人のうち約七千人が死んだといわれるが、くだんの「華人労働者を内地に移入」する閣議決定の署名者には、A級戦犯釈放組、商工大臣岸信介(元満州国総務庁次長)や大蔵大臣賀屋興宣(元北支那開発株式会社総裁)という“逆コース”復活の大物がいた。この両名は、ともに「大陸」派である。そして、この事件と石井部隊の『悪魔の飽食』事件とは、ともに中国に関係しているのだ。
GHQ、というよリアメリカ占領軍は、すでに建前と本音の分離を露わにしはじめていた。日本敗北の翌々年、一九四七年(昭和三二)二月には、トルーマン・ドクトリンによる反共世界戦略が、はっきりと打ち出されるが、その底流はすでにその一年前から、露わになり始めていた。その下で開かれる極東軍事法廷(東京裁判)は、やはり、裁判一般と同じく、大衆的糾弾の波を柔らげるというお芝居の本質を持っていたのである。
たとえばシカゴ・サン紙特派員のマーク・ゲインは、東条一人を悪者にし、すべてを「軍閥」のせいにして逃げきろうとする旧支配層の動きについて、するどい眼を配っていた。
『ニッポン日記』の一九四六年六月二三日の項に、彼はこう書いている。
《いまから六カ月前毒を仰ぐ直前、近衛公は日本が一歩一歩と戦争に入りこんだ過程をくわしくつづった薄い手記を書きのこした。この手記のもっとも明らかな意図の一つは、東条を元兇とし、戦争計画者とするにあった。そして反対に近衛自身は、この手記の中では平和への勇敢な闘士として描かれた。
今日手に入れたある事実を基礎にして、私は故公爵を術策にたけた嘘吐きだと言いたくなってきた。近衛が総理在職中の一九四〇年九月、内閣印刷局は「占領地用通貨」の印刷に着手するよう政府から命ぜられた。これは、主として南洋方面――フィリピン、ビルマ、マレイ、蘭印――などで使用される予定の軍票だった。
また一九四一年五月、というと近衛公が「平和のために闘って」いた時期だが、印刷庁はくだんの紙幣を日本銀行に送附し保管方を托した。
東条が政権を引きついだ直後の一九四一年一一月、くだんの紙幣を陸軍の出納課へ引き渡すよう、機密命令が日本銀行に発せられた。
アメリカ側の調査によって明らかにされたこれらの事実によって、平和の闘士近衛が総理だったか、元兇東条が総理だったかということには関係なく、一貫した政策があったことが判明するであろう。また、これらは日本がけっして盲滅法に何の準備もなしに侵略戦争に突入したものではないことを改めて立証する。日本は抜かりなくしてそして長期にわたって準備した、軍、政府、「大産業」の三者が一体となって。
これは重大な一点である。東条と彼に追随した若千の陰謀者だけが戦争犯罪人として責任を負うべきだとする、現在おこなわれているいろいろな努力に対してはとくに意義深いものである。東条は、神も知ろしめす、もちろん十分罪がある。しかしこの連中が、天皇から吉田以下にいたるこの連中が、正義の怒りに踊り狂って「あいつが一人で、何もかもやったんだ」と叫び廻る光景は、まさに醜態である。
さらに意義深いことは、多くのアメリカ人が新しい神話を丸呑みにすることが有利だということを発見したことである》
おりしも中国共産党政権による大陸征覇を目前にひかえて、アメリカは朝鮮半島に戦端を開こうとしていた。その指揮に当るのは、GHQの最高司令官マッカーサーその人であった。つまり、マッカーサーにとっての当面緊急な問題は、対中国なり対ソ連の戦争準備であった。そして、その対中国。対ソ連戦の経験を持つ日本人は、万難を排しても入手したい「水先案内人」なのであった。当然ここに、中国関係事件の戦犯取扱いについての、急転直下の取り引きが始まる。
小林のいう「GHQとの闘い」なるものは、こう見てくると、まさに、かつての興亜院人脈による陰謀的取引きそのものなのだ。大東亜省による“人狩り”、強制連行、生体実験、虐殺、それらもろもろの旧悪に口をぬぐい、特高警察をかばい続けたことが、いまや自慢の種になるとは、おそれいった話ではなかろうか。
東京裁判の裏面で展開されるこのような日米支配層、とぐに米国務省=GHQと日本の官僚集団の野合振りは、だれの眼にも明らかになりつつあった。だからこそ、まさにその東京裁判の記事が第二次読売争議の発端となり、マスコミ弾圧は、他の分野に先駆けたのである。