読売グループ新総帥《小林与三次》研究(1-1)

電網木村書店 Web無料公開 2017.4.1

第一章《旧内務省の幻影》

「警察新聞」が世界にのびる「全国紙」へ発展する恐怖

1 “田中角栄構想”の申し子

 すでに一九七五年(昭和五〇)八月号の『放送レポート』(民放労連機関誌)には、

日テレ『覇権主義』にブレーキ
  ~郵政省が小林社長に『注意』~

と題する記事が載っている。

 小林与三次は、日本テレビ社長に就任の翌年、一九七一年一月、つぎのように語っていた。

 「日本テレビ、読売テレビと東西の読売新聞が一緒になる。それがさらに系列局と共同体制を強化していく、そういう立場で考えていけばいいのだ。ぼくはこういう問題はこの一年の間にメドをつけたいと思っている」(『社報日本テレビ』’71・1「新春放談“N・Yよ、もえろもえろ”」)

 対談の相手であった岡野敏成前読売テレビ社長も、「大きな読売コンツェルンの中の一環としての企業体のあり方」という表現を用い、両者意気投合した。そして、「TBSはもう完全に毎日色ですよ」とか、「朝日色の濃いキー局はどこかといえばNETで社長の横田君は朝日の出身だ」などといいつつ、この両系列について、大阪の準キー局の逆転(腸捻転という業界俗語あり)を指摘した。つまり、東京のキー局と大阪の準キー局の関係が密接な読売系列が、一番有利な条件を持っていると、力説したわけである。

 だが、この両社長の放言は、決して独創的なものではなかった。二人とも、世にいう“田中角栄構想”のお先棒かつぎにすぎなかった。

 一九五七年、若冠三九歳で第一次岸内閣の郵政大臣となった田中角栄は、一年間で、なんと三二の民間放送局開設を許可した。以来彼は、民放の操縦に関して絶大な自信をもち、さらに、民放の免許、再免許を通じて、民放支配をたくらむ新聞社にも、恩義を押し売りしてきた。

 郵政省とて、まったく田中角栄いのいいなりになっていたわけではない。形ばかりの仕事とはいえ、法を守る動きは見せている。


2 一応は“注意”された小林社長