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第一章《旧内務省の幻影》
「警察新聞」が世界にのびる「全国紙」へ発展する恐怖
8 「白虹事件」にみる大新聞の屈伏
さて、話は原敬内閣の誕生直前に一戻る。一九一七年(大正六)のロシア革命に際して、日本は干渉戦争を仕掛け、シベリアヘ大量出兵した。この出兵への反対から米騒動にいたるまで、新聞には政府批判の論調があふれていた。あたかも最近の、ベトナム戦争末期のアメリカの如き政治状況であった。そこで発生したのが、大阪朝日への弾圧で、「白虹事件」と呼び慣わされている。
朝日は自由党系の「めさまし新聞」を買収し、一九八八年(明治二一)には「東京朝日新聞」に改題、本拠の大阪朝日と東西相呼応する「全国紙」への独走体制を固めていた。ただし、東京と大阪で別々の新聞を出している状態であり論調の食い違いも少なくはなかった。シベリア出兵と寺内軍人内閣については、当初から大阪朝日が積極的な反対を表明し、言論界全体に影響を及ぼしていた。そして、米騒動に関する政府の言論弾圧、全国で六〇もの新開発売禁止といった状況に抗議して、関西新聞人総決起による「言論擁護内閣糾弾」の大会が開かれるにいたった。座長には大阪毎日社長の本山彦一が選ばれ、あいさつは朝日の上野精一、決議文朗読は大毎の高石真五郎という分担だから、やはり大変なものである。しかも同じ日に、東京でも新聞通信社による春秋会の代表などが水野内務大臣に抗議し、米騒動の記事掲載禁止を翌日には解くとの言明を得ている。まさに寺内内閣の言論政策は四面楚歌、明治型閥族政治ばかりか、日本の支配構造全体が大揺れに揺れていた。
この日が一九一八年(大正七)八月一七日で、大阪朝日の夕刊は、一面に大会の本記事、二面トップに「寺内内閣の暴政を責め 猛然として糾弾を決議した 関西記者大会の 痛烈なる攻撃演説」と題する雑報を組んだ。そして、この記事中にあった「白虹日を貫けり」という一句が、当局による弾圧の口実となった。中国の故事にある「白虹貫日」という天変の兆しは、いわゆる易世革命の思想を象徴するもので、これが「朝憲紊乱」罪に当るとされたのである。
問題は、その罪名の結果である、すでに、くだんの夕刊は、発行直後に「発売禁止」となっている。これだけなら、その版のみの欠落で終る措置だ。ところが、名にしおう朝憲云々ともなれば、発行責任者と就筆者には体刑、そして新聞社にとっては極刑の「発行禁止」すらあり得る。新聞紙法では、「安寧秩序紊乱」と「風俗壊乱」だけでも、六ケ月以下の禁固や発行禁止が可能であった。それを上回る天下の大罪が、たった四字の中国故事引用で主張されたのである。そして、異例の人選といわれた立会の古参検事は、その最高刑を求め、補強の証拠に、あちこちから探した記事の切っ端を並べ立てたといぅのだ。この検事様々と相呼応して、暴力団も動いた。朝日の村山社長が「壮士風」の暴漢数名に襲ゎれ、「皇国青年会」云々のビラが残されるという事件があり、つづいて、朝日に脅迫状が届いた。村山社長は、ナワでくくられただけで、ケガ一つしていないのだが、それでも効果テキメンだったらしいのだ。
この間、寺内内閣は倒れ、九月二九日に原敬内閣が成立した。そして、「白虹事件」を扱う当局の司法大臣は、首相の原敬が兼任したのである。
朝日は、判決を待たずに屈伏した。まず社長が辞任。ついで大阪朝日の鳥居素川編集長が退社。一般にも名の知られたところでは、長谷川万次郎(如是閑)社会部長、大山郁夫、櫛田民蔵(客員)、河上肇(社友)らが、つぎつぎに退社となった。そして、判決前に、上野(新)社長が原敬に会い、さらに、おわびの「木領宣明」なる長文を紙面に掲載した。かくて、判決は、編集・発行人と記者の両名が禁固二ケ月となり、発行禁止だけは免れたのである。
明治の言論紙では、責任者は常に投獄覚悟、発行禁止には改題による再反撃という手段が取られた。しかし、いまや「有名」なる「全国紙」において、その気概は失われていたのである。朝日は戦後にもGHQにおわび(自ら罪するの弁)を入れ、その存続を計った。アメリかの政策転換には卒先して、「一斉に右へならえ」(『ニッポン日記』)の先頭に立った。マッカーサー書簡に便乗したレッドパージでは、パージリストを拡大し、共産党員でないものを切ったとして、裁判にも負けたりした。財界から広告出稿停止をにおわされると、これも早速に社長がおわびの新春演説、そして、あの悪名高い六〇年安保「七社宣言」の起草を引受けた。トップだけの動きではあろうが、よくまあ、おわびの好きな、「愛社」精神にあふれた新聞「屋」の集りではある。そして、そのルーツは、かの「白虹事件」にありといっても良いだろう。もっとも、「自ら罪するの弁」だけは、親孝行と同じく、真似でもよし、忘れないように心して欲しいものである。
ところで、この白虹事件ののち、朝日で頭角を表わしはじめたのが、緒方竹虎や石井光次郎らである。もちろん、保守派もしくは迎合派の出世主義者たちだ。緒方は早稲田から朝日に入っているが、石井は神戸高商卒、東京高商(現一橋大)専攻科を出て、警視庁交通課長、保安課長、台湾総督府長官秘書官兼外事課長、参事官などを歴任しての朝日入りである。しかもその頭目として、のちの情報局総裁、下村宏(海南)が入社した。当時は台湾総督府民政長官という、植民地支配の要路にあった下村を、社長が自ら請うて入社させたという話になっている。そして、入社後にまず、社長の要請で「欧米視察」、帰国するやただちに専務取締役就任、のちには実力ナンバーワンの副社長ともなったのだから、たしかに破格の扱いである。
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