電網木村書店 Web無料公開 2017.4.1
序章《新生か復古か》
あっと驚く〈ウルトラ人事〉とマスコミ独占集中の違法性
1 「ヨソジ・フー」と聞くものは?
一九八一年六月二九日に、日本テレビと読売新聞の株主総会が、それぞれ開かれ、トップ人事が決定した。ともに「異例」と評される体制なのだが、大手紙では儀礼的な報道しか載せていない。おたがいに内情をほじくり合わぬという、マスコミ経営陣同志の「武士の情け」であろうか。ともかく新しいマスコミ界の帝王は、「国民の声」を自称する大手紙から「フー」の一声も掛けられぬまま、その王座についた。
まず、新しい当主、小林与三次(よそじ)の略歴をみよう。
一九一三年(大正二)七月二三日生れ。
一九三六年(昭和一一)一月、東京帝国大学法学部卒業。同年四月内務省地方局に採用され、熊本県警務課長、京都府警防課長、興亜院事務官を経て、地方局へ戻り、事務官として終戦を迎えた。戦後は、内務省監察官、職員課長、選挙課長、行政課長を歴任。内務省解体後、建設省文書課長、自治省行政部長、財務局長、そして事務次官となった。天下り先は住宅金融公庫副総裁であった。
一九六五年(昭和四〇)一〇月に読売新聞代表取締役副社長となり、以後の肩書きのうちから、マスコミ企業の役職だけを列挙してみると、一三にもなる。
読売新聞代表取締役社長
日本テレビ放送網取締役会長
報知新聞取締役
大阪読売新聞取締役最高顧門
読売テレビ放送取締役
福岡放送取締役
札幌テレビ放送取締役
山口放送取締役
四国放送取締役
中京テレビ放送取締役
広島テレビ放送取締役
日本海テレビジョン放送取締役
山梨放送取締役
(読売新聞と日本テレヒ以外は就任順)
この他にも小林は、読売グループの有力企業よみうりランドで、取締役の地位にある。ここでは、かの醜聞男、糸山英太郎が株買占めを計り、「読売新聞への腹いせ」(『週刊文春』’81・8・3)をねらっているという“情報”があるから、いずれは御同役ということになるかもしれない。なぜなら、すでに糸山はランド株の一〇%を名義書換え、「一六%は持っている」とか、「五〇%の株を手に入れ、よみうりランドの社長になってみせる」とか、えらい鼻息だという。本当だとすると今度は、日本テレビに火が回る。よみうりランドは、日本テレビでは第五番目の大株主で、二・七七%に当る二五万株を所有し、取締役に関根長三郎社長を送っているのだ。
さて、すでに関根の名が出たが、小林も関根もともに正力ファミリーの一員である。ファミリーといっても、系図を書くほどのことはない。読売新聞社主・日本テレビ会長・自民党衆議院議員として八四歳で死んだ正力松太郎には、二男二女の認知された子があった。長女の夫が小林与三次、次女の夫が関根長三郎、第一子で長男の亨は巨人軍オーナーとして知られるが、一応、読売新聞社主ということにもなっている。第四子で異母兄弟の武は、よみうりランド常務取締役で、いわば捨扶持の身。正力の晩年には、日本テレビで取締役に急上昇しアレヨ、アレヨと電波免許事業の世襲財産化が話題になったものだが、いまは同情ぎみの噂の種になるだけだ。
なお、『現代』(‘81・10)のライター生田忠秀は、正力武の存在を無視し、「正力には三人の子供がいる」と書いている。生田は少なくとも三度は小林与三次にインタビューしており、みずから「小林と郷里が同じで親しい仲」と洩らしている人物だけに、その意図は疑われてしかるべきだろう。
いずれにしても、最年長者たる小林が、正カファミリーの頂点に立ったことは、最早だれの眼にも明らかだ。現在の肩書きだけではなく、元自治省事務次官という、官僚としての最高位を極めた経歴は、日本型国家独占資本主義の番頭たるにもふさわしい。
政治向きでも、国際情勢調査会会長、公務員スト権審議会委員を歴任し、いまも地方制度調査会、財政制度審議会、物価安定政策会議の各委員、日本広報協会会長の座にあり、官界にニラミをきかしている。
個人的なゴシップは、並べ立てればきりがない。正力家の内粉をにおわす話もある。まことしやかな噂では、正式の会議の席上でさえ、正力亨が義弟に当る小林を“ヨソジ、ヨソジ”と呼び捨てにするという。亨は、正力家で書生のような立場にあった小林を、子供のころかいそう呼び慣わしていたというのだ。なにやら、幼なさの残る話だが、正力亨なら、とうなずくものが多い。ただし小林自身は正力松太郎没後、これらの伝説に修正をほどこし始めた。
《小林与三次さんは……学生の時に正力松太郎(故人、読売新聞社主)氏の援助を受けていたという伝説を、最近、「あれは違うんだよ」と訂正している。……「学生時代は、奨学金で充分やれたし、大学二年ぐらいの時に一番になったことで、“加越能育英資金”を貰い、わりと豊かな生活をやったんだ」……実際は正力さんに一回だけ借金をしたそうだ。熊本県の警務課長として赴任する時だが、この時の百円を返したことで正力さんが驚き、ぜひ娘婿にと言ったという話。戦前のよき時代のお話である》(『財界』‘72・4・15)
はてはて、いくら「戦前のよき時代」でも、「借金」と名がつけば、返すのは当り前ではなかろうか。ともかく、百円という当時の大金を、返すと驚かれる関係にあったことは、本人も認める事実のようだ。そして、“加越能”とは、旧前田家百万石の加賀、越中、能登三藩の略称である。当時の前田侯爵家を中心に、日本独得のヒエラルキーヘの人材登用を計った組織だ。なにも、貧乏学生が奨学金を得ることにケチをつける気はない。問題は、その後である。旧藩主らの資金援助や借金で、自らの出身階層を見下げる思想的立場に、身売りしていなければ結構なのである。
その点はいかがか、ということになれば、なおさらに、マスコミ自体による問い掛けはなくなる。それを問う読者が少ないのではない。むしろ多いのだ。いやしくも《天下の公器》を自称もし、世界一の発行部数を誇る“大”新聞社の社長について、その思想を問わぬ方がおかしいのである。
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