読売グループ新総帥《小林与三次》研究(1-5)

電網木村書店 Web無料公開 2017.4.1

第一章《旧内務省の幻影》

「警察新聞」が世界にのびる「全国紙」へ発展する恐怖

5 中央支配と“地方自治”のマヤカシ

 小林は、自治省関係の出版物への登場が目立つ方である。そのうち、『自治雑記』と題する長編連載ものの中で、中央紙と地方紙について語ったのがある。つぎのように、一見、八方美人の官僚答弁風で、ソツがないのだが、論理は矛盾し、実際の行動とはまったく逆になっている。

《私はよく、地方紙が圧倒的な力を持っている地方は、後進性が強く、その開発を促進するには、全国紙の力を伸ばすべきだと、言ってきた。……同時に私は、地方紙の必要をだれよりも強く痛感し、かつ、主張している。……有力な地方紙が存在しないと、逆に、地方の独自の主体的な意識や努力が稀薄になり、自主的な動きに欠けてくる。その標本は、東京都である。東京都政の最大の欠陥は、地域性の欠如だと、私はよくいっている。……東京新聞は、東京の新聞ではない》(『地方自治』’71・1)

 全文の引用が出来ないのが残念だが、「……」の省略の間は、同じ論旨のくどくどしたくり返しが多い。そしてあくまで、「全国紙」優先の論理が中心となっている。読売では、「全国紙」資格を、すべての県で一〇%以上のシェアとしており、その当面の目標達成へむけて、ヤクザ部隊を動員中。現実は血生臭いのだ。

 ともかく、こういう「全国紙」による地方「開発」論を唱えたのが、日本テレビの社長(読売新聞では取締役最高顧問)になった直後である。そして同時に放送についても、日本のテレビネットワークをアメリカ並に強化し、民校をNHKに対抗できるようにすべし、などと主張していた。

 ところが、これらの論旨の矛盾は、付け加えの「地方紙が存在しないと……」だけではない。原理的には、テレビも含めた「複数」の言論の必要性がいわれているのだが、それならば、民放テレビの「地方性」はどう位置付ければよいのだろうか。それというのも、さきに触れた「放送の経営支配」云々は、まさに民放免許の「地域性」という出発点にもかかわるものだからである。

 現行の「一般放送事業者に対する」方針には、大変な悪文だが、こう書いてある。「本来、わが国の放送制度において、放送の全国的普及を義務づけられている日本放送協会のほかに、一般放送事業者が認められている趣旨は、……地域ごと及び申請者ごとに異なることあるべき目的及び発意に応ずる放送が行われることにあると考えられる」。そして、「当該地域社会特有の要望を満すこと」や、「放送のローカル性及び独自性を発揮すること」などが強調され、「特定の者の単一の発意または統制」が退けられているのである。

 しかし現実はどうか。とくに小林与三次は、さきに引用した『地方自治』誌とまさに同年同月付の『社報日本テレビ』(’71・1・20)の対談では、大阪の読売テレビ社長を相手にし、「日本テレビ、読売テレビと東西の読売新聞とが一緒になる」という願望すら露わにしていたのである。そして一〇年。事態はますます複雑化してはいるが、小林の野望、もしくは当時流行だった《角栄》構想は、着々と全国をおおいつつあるのだ。

 ただし、小林の文脈を追っていくと、その奇妙さの裏に、何か別の世界観を感じないわけにはいかない。もちろん、いわゆる戦前派のそれである。実例から先に触れると、《百万都市》計画がある。これなどは、中央紙、地方紙、ラジオ、テレビなどを駆使し、「地方自治」のあり方を大いにゆるがした事件である。そしてこの時、提唱者の正力松太郎は、自民党衆議院議員の現職という立場でありながら、読売新聞社主のワンマン権力に物をいわせ、紙上で「百万都市立案を急げ」という大キャンペーンを張った。正力は富山二区だが、これは当初の「富山三十万都市」という自分用の選挙スローガンを、全国向けに改定したものである。しかも、この構想のふくらましを手伝い、自治省原案までデッチ上げたのが、時の自治省事務次官、小林与三次であった。本人は、「あるいはあふったといってよい」(『地方自治』’68・4)とさえ書き、自慢の種にしている。

 百万都市計画は、のちの《角栄》日本列島改造計画と同工異曲のもの。典型例の岡山百万都市では、瀬戸内海を汚物の底に沈む死の海と化した。そして当初にその計画の宣伝に反対した山陽新聞労組と山陽放送労組の組合幹部は、会社から解雇されたが、長期争議を闘い、のちに職場復帰を果している。裁判も組合側の圧倒的な勝利に終り、マスコミ判例集にも特記されている事件だ。それはまた、労組だけではなく、現地市民の常識の反映による勝利であった。

 だが小林は、他の為政者と同様、テンとして恥じるところがない。産業が発展し、日本が経済大国になったのだからという、ありきたりの厚顔論理である。しかもその文脈に、小林流の「地方自治」が、何の矛盾もなく乗っかっているようなのである。

 ここには、奇妙な錯覚がはたらいている。「自治」という用語の巨大なズレ、一八〇度のヒズミを見なくてはならないのだ。やはり、ことばが違うのである。小林は戦争中に、例の日本型ファシズムの末端組織、町内会・部落会・隣組づくりを指導している。その時の法律が、こともあろうに「地方自治」という用語を乱発する法律であり、小林内務事務官の手になる改正版であった。戦後派のわたしたちが、クラス“自治会”などで身につけたものとは、似ても似つかぬ上意下達の中央統制の発想が、小林ら旧内務官僚にとっての「自治」だったのだ。


6 旧内務官僚閥によるマスコミ管理の“国内植民地”