第2 地籍不明地に対する本件収用の違法
1 はじめに
沖縄県収用委員会の裁決は、地籍不明地が特定されていないことを理由に強制使用の申立を棄却した。この点について、地主側は従来から主張してきたものであり、本件審査請求に対しても、同様の判断がなされるべきである。
本件地籍不明地に対する強制使用が認められないことについて、地主側も、参加人として、以下に、その理由を詳述し、収用委員会の主張を補充する。
2 地籍不明地に対する収用(強制使用)の問題点
(1) 地籍不明地とは
「地籍」とは、土地の位置・形質及びその所有関係を明らかにする制度である。土地には一筆ごとに地番を付しその地目及び地積が定められ、土地の所在地とともに土地登記簿(帳簿)の表題部に記載され、その甲区事項欄に所有者が記載される。また、土地の区画及び地番を明らかにした地図(図面)が作成される。この地図(図面)と土地登記簿(帳簿)とが、ともに登記所に備えられることによって、土地に関する権利関係が明らかにされる(不動産登記法)。この図面と登記簿とを結び付けるのが「地番」であり、この地番が重要な機能・役割を果たしているのである。
「地籍」が確定することは、法的には、私有財産権の成立する対象土地の位置・境界を確定し、その土地上の権利者を表示することを 意味し、土地に関する私有財産制度を機能させ、その権利を保障する上で不可欠なものである。
「地籍不明地」は、地籍制度の核心となる「図面」と「登記簿」とを結び付ける「地番」が確定できず、その結果、「境界(筆界)」、「地番」、「土地所有者又は関係権利者」が不明となっている土地である。例えば、登記簿上の地番で示されている土地が、図面上の地番の土地と一致しているかが確定されておらず、それが別の地番の土地、あるいは図面上で一筆の土地として区画されていない場合も考えられる。地積(面積)や地目(形状)も登記簿上のそれと異なる可能性がある。
沖縄における「地籍不明地」は、地籍制度を支えていた「図面」及び「登記簿」が両方とも戦禍で焼失した。その後、「登記簿」(帳簿)は整備されたが、「実測図面」の整備が立ち遅れた。土地の権利関係は、「登記簿」に記載された「地番」を中心に記録されているが、その「地番」は、地籍制度の前提・基礎となる「実測図面」の不在のため具体的土地との関連性を欠き、本来の意味での「地番」の機能・役割を果たさないものとなっている。その結果、地籍不明地については、実測図面と登記簿を結びつける「地番」が存在・機能していない。
(2) 収用の対象として特定できない
「境界(筆界)」、「地番」、「土地所有者又は関係権利者」が不明となっている土地であり、その性質上、土地収用法及び米軍用地特措法が定める土地の「位置」、「境界」、「土地所有者・関係人の住所・氏名」、「地番」、を表示しえない。土地収用法及び米軍用地特措法が「位置」、「境界」、「土地所有者・関係人の住所・氏名」、「地番」、の表示を要求しているのも、それが特定し得ない土地は、収用の対象となしえないことを示しているものに他ならない。
地籍不明地に対する強制収用(使用)は、権利者を特定しえない土地を強制収用(使用)することである。これは、強制収用(使用)対象土地の権利者に対し権利保障の機会を与えないことを意味し、憲法が保障する私有財産権の保障のための適正手続に反し、許されない。
このように地籍不明地を強制使用の対象として特定することはでず、特定できないので強制使用できないことは地籍明確化法(位置境界明確化法)案の国会審議において、当時の三原防衛庁長官が明言している。
以上により、地籍不明地を強制収用(使用)することはできない。
3 地籍明確化作業と残された地籍不明地
ここでは、沖縄で行われた地籍明確化作業がどのようなものであったのか、そして、今日にいたっも、なお、地籍不明地が残されている意味を確認し、この地積不明地に対する収用手続きの問題点をあらためて明らかにする。
(1) 地籍明確化作業
復帰後、「国土調査法」に基づく地籍調査が行われたが、それでも地籍調査が困難な地域が残ることとなり、これらの地域の地籍を明確化するため、1977年(昭和52年)に「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別立法」(いわゆる位置境界明確化法、あるいは地籍明確化法)が制定されることとなった。同法による地籍明確化対象土地は、民間地域が25.09キロ平方メ−トルであったのに対し、軍用地が116.40キロ平方メ−トルとなっており、大量の地籍不明地が米軍基地内に残る状況となっていた。
位置境界明確化法(以下、単に「法」と表示する)は、沖縄の特殊事情を踏まえて「現地における調査・確認」という手法によらずに「土地所有者の集団合意」による地籍確定という手法を採用した。
イ 地籍調査の基礎となる調査図の作成手続き
<1>土地所有者の総会で協力委員を選出して、基礎図の作成に協力させて基礎図を作成し(位置境界明確化法施行令第3条ー以下、単に「令」と表示する)、<2>所有者全員の合意により対象区域の基礎図を区分して一定の数の区域に分けた上で(法第8条1項、令第4条)、<3>所有者に対し区分された基礎図に基づき図上で自己の土地の位置・形状を確認することを義務づける(法第10条1項)、<4>所有者は同義務に基づき協議しながら、先ず土地の配列図を作成し、次に配列図を小さなブロックに区分し、区分された小ブロックの中で各土地の面積・形状を考慮しながら各土地を割り付けて「地図編纂図」と称する図面を作成し(領第16条、17条、18条、法第10条2項、領第19条)、<5>所有者が地図編纂図に基づいて図上で各自の土地を確認させる(法第10条2項)、<6>そして、確認された地図編纂図に基づいて現地に土地の位置境界を示す杭を打ち、所有者に現地確認を行わせ(法第12条3項)、<7>現地で立会し納得した所有者について現地確認の署名・押印を得る(法第12条4項)、<8>これにより、調査図が作成されることとなる(領第21条)。
位置境界明確化法においては、右<1>ないし<8>の手続きを経ないと、地籍調査の基礎となる調査図が完成しないのである。従って、<1>ないし<7>のうちの1つでも欠けると調査図が作成されないこととなる。
ロ 「地籍簿」及び「地籍図」
位置境界明確化法は、この手続きで作成された調査図を国土調査法の調査図に準ずる図面として取り扱い、同調査図に基づ所有者、地番、地目の調査、一筆地測量、面積測定を行って地籍簿案を作成し(法第14条1項)、地籍簿案及び地籍原図の閲覧を経て「地籍簿」及び「地籍図」ができ、それが「認証された国土調査成果と同一の効果があるものとしての総理大臣の指定」を受けて初めて「地籍簿」及び「地籍図」となるものである。
(2) 地籍簿及び地籍図ができない土地
イ 前提となる調査図がない
本件地主らは、後述の通り、「所有者」に区分された「基礎図」を確認し、あるいは現地ないし書面で確認していない。したがって、「調査図」を作成するための手続きが完了されておらず、調査図もないこととなる。
ロ 他の「所有者」の確認では不成立
「調査図」を作成するためには、所有者の集団的合意は不可欠である。
前述したように調査図作成の前提となる土地所有者の集団的合意を取り付ける手続きにおいて、一人A地主が同意せず、隣接のBCDEの各地主が全員同意している場合にあってもBCDEの同意が地籍を確定する上で法的に何らかの意味を持つことはあり得ない。この手続きは、すでに指摘したように集団和解なのであるから、当事者のうち1名でも、同意しなければ、成立しない。あくまで全員の同意が1人として欠けることなくそろうことが必要なのであって、調査図作成はそれを前提としている。
隣接地主が全員合意していること、同意しないのが反戦地主1人であることを理由に「地籍が特定している」かのような主張は、明らかに誤りである。
ハ 地籍簿と地籍図による特定が不能
調査図が作成されないと、右手続きが進められず結局「地籍簿」及び「地籍図」が誕生しないこととなる。したがって、一定の範囲、例えば、嘉手納基地内に、土地を所有していることが明らかであり、所有地の地番が明確となっていても、その地番が示す土地の形状も境界も面積も確定することができないののである。
(3) 特定する手続きの欠如
土地の位置・境界を確定することは、民事訴訟の判決によるか、地籍明確化作業の成果の認証作業を経るしかない。民事訴訟の判決にもよらず、地籍明確化作業の認証作業も経ないで、土地の位置・境界が確定するはずがない。
収用手続きを通じて特定することがないことはいうまでもない。
したがって、このような手続きを経ない地籍不明地は、土地の位置・境界を確定できていないのであるから、収用の対象外とならざるを得ないのである。
4 本件収用の不適法
(1) 特定されていない地籍不明地
本件で問題となっている地籍不明地は、次ぎに述べるように、いずれも特定できないものであって本来強制使用手続きが予定していないものである。
キャンプシールズ内にある島袋善祐の所有地は地籍不明地である。
那覇防衛施設局が「2291番」の土地と主張している土地に関する「地図編纂図」について、島袋は確認(又は同意)したことはない。
那覇防衛施設局長は「地図編纂図確認書」に「島袋善裕」との署名が存することから、島袋が同図の確認をなしている旨主張しているものと推測されるが、同署名は島袋氏の署名ではない。島袋の名は「善祐」であり、「善裕」ではない。本人であれば自己の名を書き間違えることはあり得ないものであり、同署名が偽造されたものであることは明らかである。
したがって、キャンプシールズ内にある島袋の所有地の地籍明確化作業は未了である。
この2291番の土地については、位置境界明確化法に基づく「調査図」が作成されておらず、従って、総理大臣により指定された「地籍簿」及び「地籍図」が存在しないものである。
このように那覇防衛施設局が「実則図面に基づき特定した本件土地」については、未だ地籍が確定しておらず、何番の土地で、同地番の土地の位置・境界がどこで、その土地の所有者が誰であるか全く不明の土地である。
真栄城の所有地は、地籍不明地となっている。
真栄城は、「地図編纂図」については署名・押印しているが、同地図に基づいて復元された杭については確認していない。「地図編纂図」の作成にあたっては、本来真栄城の所有する「362番」の土地のようにその土地の位置・境界を特定する手掛かりになる物証が存在する土地については、現地に所有者を立ち会わせてそれを3考にして「地図編纂図」を作成すべきであるが、那覇防衛施設局は同手続きを具体的にとらず、図面上だけで「地図編纂図」を作成し、図面上だけで所有者の確認を取っている。真栄城は「地図編纂図」に基づく地籍の確定に同意できないものである。
有銘は、嘉手納飛行場内の字森根異伊森原に「272番」の土地を所有しているが、地籍不明地である。しかも、有銘は「地図編纂図」について確認すらしていない。
したがって、「地図編纂図」を根拠として地籍を確定することができず、有銘の土地は、特定されていないのである。
宮城は、普天間飛行場内の字宜野湾馬場下原に「993番」の土地を、字大山勢頭原に「2500番」の土地を所有しているが、いずれも地籍不明地である。
宮城は、「地図編纂図」にも「現地確認書」にも確認、押印していない。したがって、宮城の土地については、有銘氏の土地と同様に全く地籍を確定する何らの根拠も存しない。
津波は、牧港補給地区の字城間嵩下に「1112番」の土地を所有しているが地籍不明地である。
しかも、津波は、「地図編纂図」にも「現地確認書」にも押印していない。したがって、津波の土地については、有銘氏及び宮城氏と同様に全く地籍を確定する何らの根拠も存しないものである。
(2) 立ち入り拒否と特定性の立証責任
土地収用法38条は、収用委員会の審理において土地所有者が、土地調書や物件調書の記載事項が真実に反していることを立証することができると定めている。
上記各土地に関して、防衛施設局の主張する特定が誤っていることについては、各所有者自身が現地において説明することが最も重要な立証方法であって、このような方法によって立証することが不可欠である。
ところが、収用委員会が、土地収用法65条に基づいて、代理人と地主立ち会いのもと、現地において土地及び物件を調査することを決定したにもかかわらず、米軍は、地主とその代理人の立ち入りを拒否し、所有者の立証活動を妨害した。
各所有者本人及びその代理人が立ち入ることが何ら支障をきたさないことは明らかである。例えば、1996年12月、島袋善祐及び同人の代理人は、基地ゲートの守衛に、自分の土地を見せてほしいと申し入れたところ、米軍のMPの案内で、基地内に立ち入り、自己の所有地及びその周囲を写真撮影することができた。
そもそも、起業者である防衛施設局は、収用の裁決を申請する土地についてその位置、形状、面積などを土地調書や物件調書によって特定しなければならず、その調書に記載されている事実が現実の権利関係に合致することを立証しなければならない。
ところが、調書記載の事実が現実の権利関係に合致することについての立証はできていない。
それに加えて、土地調書に誤りや不特性に関する各所有者らの立証を妨害している。確かに、米軍は、収用委員会の単独での調査を認めたが、収用(使用)しようとする側が一方的に説明をし、その場で地主が反論する機会が与えられないまま調査が行われたのでは、適正な手続きとはとうてい言いえない。土地所有者らの立証活動を妨害し、適切な反論の機会も奪ったのであるから、適正手続の保障を著しく欠き、このことによる不利益は、起業者側が負担するのが当然である。
(3) 間違った土地の収用
本件各地籍不明地について、強制使用の申請は、次ぎのとおり、いずれも真の所有地と異なる土地が対象とされている。
<1> 島袋善祐所有地についての誤り
防衛施設局は、G・スライド11の土地Aを島袋善祐の所有地と主張するが、島袋善祐の所有地は土地Bであって、裁決申請は、島袋善祐の所有地の特定を誤っている。
島袋善祐所有地は、戦前から、お茶を栽培するお茶畑として使用されていた。
沖縄戦でほとんどの土地が現況を変えた中で、同地は幸いにも戦後も現況を残し、島袋善祐の家族は戦後も右土地でお茶を栽培していた。
1948年ころ、米国海軍政本部指令第121号「土地所有権関係資料蒐集に関する件」等に基づく、土地所有権認定事業の中で地図が作成されたが、島袋善祐の土地は、沖縄戦の前後で現況が変わらず、戦後もお茶を栽培していたため、この土地所有権認定事業の当時、土地委員が島袋善祐の所有地の形状・位置を確認することは、比較的容易であった。
当時は測量技術も不十分で、基地内立ち入りができなかったという事情もあったため、同地図は、現地復元力を有するほどのものではなかったが、土地の配列、地番、形状、所有者については正確に記載されたものである。
この地図によると、島袋善祐の所有地は、山林に隣接して存在する(G・スライド13)。
この山林は現在も存在し、島袋善祐の所有地を特定する目安になるところ、島袋善祐の所有地として裁決申請されている土地は、この山林から相当遠く西側に離れて存在する土地であり(G・スライド11の土地A)、土地の特定を誤っていることは明らかである。
また、島袋善祐は、戦後も同地を耕作していたため、自己の所有地及びその周囲の状況についてかなり正確に記憶しているところ、島袋善祐の記憶によれば、同人の所有地は、南側を流れる比謝川の流れが北西から西北西に変わる地点、地図G・スライド11のC地点のほぼ真北に位置していた。C地点の真北には雑木林の境界があり、島袋善祐の土地についての記憶が正確なものであることがわかる。
1977年5月15日午前零時をもって、公用地法が効力を失い、米軍が島袋善祐所有地を使用する権限がなくなり、不法占拠状態になったことから、同月18日、島袋善祐は、キャンプシールズに立ち入り、自己の所有地を耕作した。
当時の写真からも、山林に接して島袋善祐所有地が所在することがわかる(G・スライド9、10、12)。
以上のように、島袋善祐所有地は、防衛施設局が裁決申請にあたって示している位置には存在しないのであって、起業者は、土地の特定を誤って裁決申請をしていることが明らかである。
<2> 真栄城玄徳所有地についての誤り
所有者本人が現地で指摘する土地と防衛施設局の申請にかかる図面上の土地との間には、食い違いが生じている。
戦後作成された土地所有権申告書及び土地図面は、測量技術、測量器具の不十分さから復元力を有しないものであるが、土地の形状、配列については十分に信用できるものである。しかし、「地図編纂図」においては同資料が十分に考慮されておらず、土地の位置や境界がまったく異なったものとなっている。土地調書の現況照合図も同様である。
例えば、1948年に作成した図面では、真栄城所有の359番の土地に関して、その隣接地は、358番、369番、361番となっているのに対して、現況照合図では、361番、359-2、364番となっている。しかも、359-2は登記簿上も存在しない。これらについて、真栄城本人が第8回公開審理で詳細に説明したとおりである。
<3> 有銘政夫所有地についての誤り
有銘が第8回公開審理で具体的に述べたように、地籍明確化作業の中で作成された「地図編纂図」は十分な根拠を有していない。1948年の土地所有権申告の際に土地調査委員が調査して作成された地図と「地図編纂図」とでは、「272番」の土地の周囲の土地の配列、土地の形状に大きな食い違いがある。前述の真栄城と同様に有銘自身が第8回公開審理で具体的に明らかにしたとおりである。
他方、1948年の地図に比較して「地図編纂図」が合理的であることの主張、立証は那覇防衛施設局長からは全く行われていない。
<4> 宮城正雄の所有地についての誤り
宮城の土地についても、1947年頃土地所有権申告がなされているが、当時の申告図と那覇防衛施設局長が主張する「地図編纂図」とを対比すると、宮城の土地の形状、配列関係が異なっている。
那覇防衛施設局長は「地図編纂図」が土地所有権申告図より正確だとする何らの根拠も示していない。
土地所有権申告図は、終戦後に部落の人々が鮮明に土地の位置・境界を記憶している時期に、未だ部分的に残存する物証を参考にしながら描いたものであり、一般的に土地の形状・配列については信憑性が高いものである。
<5> 津波の所有地についての誤り
津波の所有地についても、1947年頃土地所有権申告がなされているが、当時の申告図と那覇防衛施設局長が主張する「地図編纂図」とを対比すると、津波氏の土地の形状、配列関係が異なっている。
那覇防衛施設局長は「地図編纂図」が土地所有権申告図より正確だとする何らの根拠も示していない。
第10回公開審理で陳述したように、この津波善英所有の土地は、施設局の提出図面では、海岸からすぐ側になっている(K・スライド33の(12)の土地)けれども、海から100メートルから150メートル離れていたのが、実際の所有地である。土地調書の図面は、間違った土地を示しているのである。