沖縄県収用委員会 第10回審理記録
宮城正雄(土地所有者)
土地所有者(宮城正雄):
皆さん、こんにちは。私は、普天間基地関係の宮城と申します。よろしくお願いします。
私は、意見陳述の最初に、戦後半世紀以上にわたって県民の土地を強奪し、朝鮮戦争、ベトナム、湾岸など戦争と侵略のために、強制的に使用し続けてきたアメリカ政府と、それに協力加担してきた、日本政府を厳しく糾弾するとともに、去る21日に実施された海上基地建設の是非を問う名護市民投票に際し、政府と防衛施設局が権力と金力をふりかざして、なりふり構わぬ、不当・不法な介入に対し、満身の怒りを込めて、抗議の意思を表明したいと思うのであります。
さらに、米軍特措法の改悪や、新ガイドラインの強行実施に反対し、その撤回を強く要求するものであります。
それでは、私が軍用地契約に反対する理由、3点に要約して訴えたいと思います。
第1の理由は、あの沖縄地上戦の体験からであります。
私は、小学校の3年、10歳のときに、天皇と軍国主義が引き起こした太平洋戦争、 沖縄の地上戦を体験させられました。あの沖縄戦で20万余の県民が犠牲になったと言われますが、私の家族も9人のうち、父、兄たち二人、三人が犠牲になったわけであ ります。戦後50数年たった今日でも、あの地上戦の衝撃と、終戦直後の生活苦は、私の脳裏に焼きついているのであります。
いよいよ米軍が上陸し、地上戦が激しくなる中で、4世帯ほど共同避難壕、ガマに は一緒にいましたが、とうとう激しくなる中で、私の家族だけが残されました。そのガマで激しい艦砲射撃や戦車のごう音、ガスを投げ込まれて煙が充満し、咳と涙が止まらない、生きた心地は、しなかったことを今でも忘れることはできません。
私たち家族は、どうせ助かる見込みがなければ、うちの近くのガマに行こうと決心し、夜になるのを待って、その壕を出たわけであります。
私たちが、真夜中、山の中を移動しているちょうどそのときの出来事であります。
突然、ものすごい大きな爆音とともに、火の玉となった破片が、前後左右から頭上に降ってくるのであります。その時、私は、3歳になる弟、これは戦後10歳のときに、米軍属による交通事故で亡くなった弟でありますが、帯でおんぶをしていました。防衛隊から病気で帰って来た父は、6歳になる弟の手をつないでいましたが、その爆発 のどさくさで父と弟ははぐれてしまいました。私と二人の弟は、後方で必死に叫んでいる、大きな荷物を頭に乗せ、おばあさんの手をつないだ13歳の兄たちと合流しましたが、父は、爆音のさく裂で、真昼のように明るくなったサトウキビ畑を走って逃げていく姿を見ることができましたが、それが最後で、父と生きて再会することはできませんでした。これが私の戦争体験の一場面であります。
そして、私たちは、数日後に捕虜になり、収容所から東島袋に、そこから宜野座村福山の山の中に移され、まさにソテツ地獄と、飢えと病気との闘いが始まったのであります。
福山の収容所では、家や学校などを建てる共同作業が盛んに行われました。家族みんなマラリヤで倒れてしまい、母の代わりに私が、カヤ刈り作業に駆り出された日のことであります。
当日は、大雨で、作業は午前中で終わり、お昼はにぎり飯と熱い缶に入ったコーヒーでした。私は、弟たちに、丸い大きな握り飯を持って帰り、もう一つもらって食べました。ソテツを切り干しし、保管して食べていた私たちにとって、あの大きなにぎり飯、白米のにぎり飯のおいしかったことを今でも忘れることはできません。そして何とその日は、日本軍国主義が敗北し、現憲法に大きな道を開いた記念すべき、8月15日の終戦の日であったのであります。
このように、北部の山の中に閉じ込めておいて、その間に、土地・財産を取り上げる。帰ってきたら立入禁止になっていた。これが普天間基地の成り立ちであります。
政府、防衛施設局よ、方言ではこういうことにミーファイヌすると言います。よく覚えておいてください。
第2の理由は、この土地は、祖先が血と汗で築き上げ、守り抜いてきた財産である ということであります。ムムウイアングヮーとか、クブルアキヨールとか、皆さんご存じでしょうか。うちのおばあさんたちも主に農業で生計を立てながら、時期になると今の沖縄市の山内、諸見里まで行って山桃を買って那覇方面で売ってくる。しかも大きなざるを頭に乗せて、行きも帰りも歩いてやったのであります。
このように飲まず食わずで、血のにじむような、そして何十年という年月をかけて築いたものであります。ですからこの土地は、生活と再生産、平和に役立つ以外は、絶対に使用してはならない、かけがえのない大切な財産であると思うからであります。ましてや朝鮮、ベトナム、湾岸などアメリカが行ってきた、罪のない人々を殺し尽くすような残虐な戦争の出撃地となり、日常的にも普天間基地は、各種のヘリなどの訓練場として、学校や病院など、民間上空を我がもの顔で低空飛行を繰り返し、墜落事故の危険や不安を増大させ、爆音による教育、生活環境破壊などは断じて許されるものではありません。
第3の理由としては、私はこのかけがえのない土地財産を、血に染まった米海兵隊 に、これ以上汚されることなく、子や孫たちに引き継ぐ義務と責任と権利があるということであります。大体、土地の貸し借りというのは、素人が考えても、地主や隣接地主立ち会いのもと、測量に基づいて地籍・坪数を明確にし、賃貸料、使用目的、期間などの合意を大前提にするのが、これは法律以前の問題ではないでしょうか。
うちの4歳になる孫が言いました。泥棒はうその始まり、うそは泥棒の始まり、こ ういうことを言いました。なぜかと聞いてみたら、園長先生がそう言っていたと、そういうふうに教えているそうであります。私は、米軍基地は百害あっても一利なしと書いて、お答えして渡しました。そうです。日本政府は戦後27年間、アメリカに売り渡したときも、72年復帰の際にも、県民無視の日米合作の沖縄協定を押しつけ、核抜き本土並み宣伝の裏で、核持ち込みの密約を交わすなど、県民国民をあざむいてきました。そして今、米軍特措法でも飽き足らずに、地方の時代と言いながら、その悪法さえ改悪して、準司法機関である県土地収用委員会の権限を奪い、21世紀まで土地強奪を強行しようとしているのであります。
私たちは「核付き本土の沖縄化だ」と政府の企みを見抜いて指摘してきましたが、日米新ガイドラインはまさにそのことを実証するものとなっているではありませんか。政府、那覇防衛施設局よ、うそと偽りで県民の土地を取り上げ、国民の税金で身も心も米軍基地にいつまで奉仕すれば気が済むのですか。あなたたちは憲法違反の悪法で、土地泥棒という汚名と犯罪を積み重ねることはできるかもしれません。しかし、私たちも子や孫に今すぐ地権者を増やすことができます。さらに、共有一坪運動などで、100人、1,000人、いや1万人以上にも反戦地主を組織することができることを、あな たたちはこのことを思い知るべきであります。
私は、1960年代、米軍占領下の労働運動の中で、労働組合は政党・資本から独立し、思想信条の違いを越えて一致する要求に基づいて団結して闘う組繊であることを体験しました。また、復帰闘争や革新運動に参加して、統一闘争・革新統一がいかに重要であるかを知ることができました。72年後帰後は、安保廃棄を掲げ、統一連の運動に参加し、米軍演習に反対する104号線の闘いをはじめ、恩納村の都市型戦闘訓練場の 撤去の闘い、安波や伊江島のハリアパット建設に反対する闘い、本部町豊原の自衛隊のP3C基地反対の闘い等々、組織を挙げて闘い、その中で平和を守る県民の心は一つ であることをひしひしと感じてまいりました。
さらに、非同盟諸国が提唱したSSD(第1回国連軍縮特別総会)に、県民のカンパで参加させていただき、総会への傍聴、国連加盟各国への核兵器全面禁止の申し入れ活動などを通じて、日本の情けない現状を憂い、安保条約の第10条に基づいて、日米軍事同盟をやめて、真の独立と非同盟、平和、中立の日本を目指し、アメリカをはじめ世界各国と平和条約を結び、どこの国とも仲よくしていく重要性を改めて悟ることができたわけであります。
一言で言いますと、私のこの活動は、原点は沖縄の地上戦の体験だということであります。それを貫いて生きることができました。誇りに思っております。
私は、最後に、改めて日米両国政府に対し、普天間基地の無条件全面返還と海上基地建設を断念するよう強く要求しまして、意見陳述を閉じたいと思います。ありがとうございました。
当山会長:
はい、ありがとうございました。では、次に仲山忠克さん。