沖縄県収用委員 第8回会審理記録

眞榮城玄徳


当山会長:

 それでは再開いたします。 まず後半の部、最初に眞榮城玄徳さん。

眞榮城玄徳(土地所有者):

 皆さん、こんにちは。

 私は米軍基地である嘉手納飛行場の中に土地を所有しております眞榮城玄徳です。

 私の土地は、沖縄市字森根石根原の361の2、362番、359、385の4筆でございます。この4筆の土地は、所有者である私の了解を得ないまま、1972年5月15日から今日まで実に25年間、不当にも日本政府によって軍用地として日本、米軍に提供し続けられています。米軍占領下の27年を含めますと、52年間も米軍基地として、使用し続けられているということになります。52年間は、異常としかいいようのない長い年月です。

 私は1972年以来、土地所有者の意思を全く無視し、米軍基地のために土地を強制的に使用することは、財産権を侵害するものであり、憲法に違反する行為でもあり、絶対に容認できないと、機会あるたびごとに抗議をし訴えてきました。

 しかし、私の主張はこの間、一顧だにされることなく、無視され続けてきました。

 特に1987年の公開審理の際は、陳述の機会さえ不当にも奪われました。今回の公開審理にあたって、貴収用委員会が地権者の言い分をしっかりと聞いて、実りある審理にしたいと明言をされ、そのことを現に実行されていることに対し、敬意を表したいと思います。

 今後とも、この姿勢を堅持をしていただき、多くの地権者の陳述の機会を保障してくださいますよう、まず要望したいと思います。

 収用委員会が、今このように真摯に私たち地権者と向き合い、審理を進めているときに、こともあろうに政府は、米軍用地使用特措法を改定をするというやりたい放題をやってのけました。

 また、去る9月2日、地方分権推進委員会は、米軍用地強制使用の手続きの中で、地方自治体が担っている代理署名や公告縦覧、さらに代執行などすべて国の直接事務に移すべきという勧告を総理大臣に提出しました。全く卑劣で破廉恥な行為であり、怒りを禁じることができません。

 このことは、かつて米軍が布令布告を乱発をし、銃剣とブルドーザーで私たちの土地を奪い取っていったのと全く同じ行為であると言わざるを得ません。このなりふり止まない政府のやり方を見ていると、私は戦前のファシズムへの回帰を危惧せざるを得ません。

 また、日米の合意によるガイドラインの見直しは、軍事同盟的な要素を持つ、今の日米安保体制が、ますます強化され、私の土地が、また戦争の片棒を担がされるのではないかという不安を持たざるを得ません。

 私は、今、貴収用委員会に申し上げたいことは、収用委員会は政府から独立した中立、公平の機関と言います。政府のいかなる圧力にも屈することなく、堂々と職務と権限を全うしてほしいということです。

 私の所有している4筆の土地は、1962年に79歳で死んだ私の祖母から相続をした、かけがえのない大切なものです。祖母は生前、故郷の話を私によくしてくれました。サトウキビや芋を栽培し、家畜を飼育し、平和に暮らしていたこと、村アシビの話や、嘉手納に続いていた軽便鉄道のこと、那覇の街に子豚を頭に乗せて売りに行ったこと。正月には豚を潰し隣近所で分けあって、スーチキーにして保存をし、カーミにはいっでも豚肉があったことなど、本当に自慢げに故郷の話をしていました。祖母は1909年に結婚をし、1912年に祖父と死別をします。祖父と暮らしていた年月はわずか2年という短い期間でした。私の父と叔父の二人の子どもを抱え、必死になって働いたそうです。家畜の世話や家事労働をするときは、二人の子どもを柱にゆわえつけ、野良仕事をするときには畑に杭を打ち、二人の子どもを帯で結んで仕事をしたと言います。このようにまさに骨身を削る思いをしながら、子どもたちを育て、生活の糧を得ていたこの土地に対する祖母の思いは本当にすさまじいものがありました。

 1950年代の中頃だったと思いますが、祖母と一緒に土地に入ったことがあります。土地はすでに米軍の基地として金網で囲われており、自由に立ち入ることができませんでした。ゲートで立入許可証を発行してもらって、ようやく立ち入ることができました。目的は、基地の中にある墓に置き去りにされている祖父の骨を拾うためでした。祖母は燃えカスのわずかに残っている屋敷跡にたたずんで、ここに母屋があって、クワ畑とイトバショウの畑はあのあたりで、家畜の畜舎の角にはおいしいミカンの木があったこと。屋敷の周囲に植えられているクスの木で、タンスをつくるのが夢だったと、目を輝かして話していたことを今でも覚えております。

 そして生きているうちにここに帰ることができるだろうか、ぜひ帰りたいと祖父の骨を抱いて、しばらく絞り出すようにつぶやいていました。その祖母のつぶやきが今でも私の脳裏の中に焼きついています。

 私は父の顔を知りません。父は52年前の戦争で死にました。戦争で死んだ多くの沖縄の人たちがそうであるように、死んだ日にちも場所も全く分かりません。仕方がないので、米軍が沖縄に上陸した4月1日を父親の命日にしました。墓の厨子甕の中には骨に見立てた石っころが数個入っているだけです。沖縄戦における父の死と、それから祖母の土地への執着、そして故郷への限りない思いは、その後の私の生き方に大きなインパクトを与えたように思います。

 母は1913年の生まれですので、今年84歳になります。戦争で男たちは死んでしまい、生き残った女たちは厳しい米軍支配下の中で、家族や子どもたちのために、身を粉にして働きました。母もその例に漏れず、米軍基地の中に職を求めました。戦争の傷跡を引きずりながら生きていた1950年のはじめの頃です。職場は知花弾薬庫の中です。今の嘉手納弾薬庫地区です。

 当時、弾薬は今のように屋内に保管されでいたのではなく、屋外に野積みにされていて、風雨にさらされた弾薬は錆がひどく、錆を落とすのが毎日の日課であったと聞いています。砲弾が爆発をすることもたびたびあって、まさに死と隣合わせの仕事であったと、母は話していました。朝鮮戦争のまっただ中であり、また新しい中国の誕生等もあって、沖縄の基地が前線の基地として強化されていたころです。地獄の戦場からやっとの思いで生き延びたのもつかの間、生活の糧を得るためとはいえ、どのような思いをしながら仕事をしていたのだろうかと、80歳を超えた母の顔を見てつくづく考えさせられます。

 このような子どもの頃の私の生活体験ですから、人類の生活とは全く無縁な、むしろそれを脅かす軍事基地に、自らの土地を提供しないという立場に立つのは、私にとっては当然のことであったし、特別なことでもなく私の日常生活の延長線上でしかないのです。またそのことは、祖母や父母の意思を引き継ぐための、大切な私自身の行為と今思っています。

 しかし、政府は土地の所有者である私の意思を全く無視して、1970年から今日まで、公用地暫定使用法や米軍用地特措法を適用し、高度の公共性を有するとか、公共の利益につながるとかと言って、25年間も不法、不当に米軍基地として提供し続けています。私は米軍基地は決して公共の利益や福祉に供するものではないと思いますし、むしろそれを著しく脅かすものでしかないと思います。

 現に、先ほどスライドで見たとおりであります。そしてまた今、私たちの命や財産、そして平穏な日常の暮らしを脅かし続けているではありませんか。また、朝鮮やベトナム、中東の人々の命をも、財産も奪っていたではありませんか。もし、基地が公共の利益や、あるいはまた高度の公共性を有すると言うならば、どのような公的な利益を基地はもたらしたのか、私たちには明らかにしてほしいとこう思います。ちょっとスライドをお願いいたします。

 今、ここのほうに、私の故郷の住宅地図がございます。1945年当時の私の故郷、森根の住宅地です。

 この地図は1986年、今から11年ほど前、沖縄国際大学の石原昌家教授とそのゼミの学生たちと、共同で作成したものでございます。完全とまではいかないかもしれませんけれども、完成度はかなり高いと思います。

 この復元図を見ていると、幼い頃、祖母から聞いた故郷の原風景が今、目に浮かんできます。サーターヤーがありますし、アシビナー、それからビジュル、共同井戸があります。純農村の集落のたたずまいの中で、隣近所がお互いに助け合いながら、平和に暮らしていた故郷の原風景があります。

 復元図の作成作業は当初、相当の困難が予想されましたが、案外スムーズに進みました。戦争から生き残った60代から70代の戦後世代の方々を中心に、1軒、1軒尋ね歩いて聞き取りをし、作業を進めるんですが、記憶が鮮明に残っているんです。故郷への限りない思いを持ちながら、故郷での生活の記憶を絶やすまいと、絶えず思い続けていたからではないでしょうか。

 最終点検は10名ほど居酒屋に集まっていただきました。全員で検証をしました。最終確認の場は自分の意思とは全く無関係に、故郷を基地に奪われ、帰ろうにも帰れない、くやしさやいらだちが一挙に噴き出た雰囲気になりました。そして長い時間ときを忘れて語り合った記憶がございます。

1986年は、国から20年間の強制使用裁決の申請が出されていて、国と対峙をし、厳しい攻防を繰り広げていたところです。

 私は、私自身、集団和解方式に応じていないものですから、内心気にしておりましたけれども、郷友会の中には快くなく思っていた方々も当然いておかしくない時期でしたけれども、地図の作成には多くの人々が快く協力していただきました。私は地図の作成を通して、故郷の皆さんの故郷を想う思いをしみじみと感じることができました。

 このように基地に消えていった集落は、沖縄市だけでも15、全県では70余を超えると言われています。共同体がつぶされ、地域の文化がつぶされ、そこに住んでいた人々は離散を余儀なくされてしまいました。有銘さんの言う、戦争難民の状態が今でも続いているのです。

 3月の清明祭のときに、ビジュルやお参りをしたときの写真がございます。ちょっ とスライドお願いいたします。

 ビジュルは村の五穀豊穣や村人の幸せ、家族の幸せを祈願をする、いわば村の守護神を祭ってある村の拝所のことです。

 1945年9月7日に米軍と日本軍の責任者との間で、降伏文書が調印をされた当時の米軍指令部の真後ろに、地主(チヌシ)という森根のシンボルとも言える、小高い岩山がございますが、その中腹にビジュルは現存しています。ビジュルは集落の人々の心のよりどころです。郷夜会では毎年、旧暦の9月9日にお参りをしていると言っています。ここにも人々がこの地で生活をしていた証しがあります。次のスライドお願いいたします。

 このスライドは祖母や父母が生活をしていた屋敷跡での記念写真です。屋敷跡には集落のありようを見続けていた、ガジュマルや隣屋敷の境界の石垣とも思われる構築物が、今現存しています。ちょっとスライドを動かしてください。

 この石垣でございます。このように私の所有地の中には戦前の木々が残っているところもあって、位置や、境界が容易に確認ができる場所があります。また、この地域は許可を得て、いつでも立ち入ることのできる地域でビジュルの入口の扉には「いつでも自由にお参りください」と明記されています。ちょっとスライドお願いいたします。

 これです。自由に入っていいですよと、おまけにこの番号鍵の鍵ナンバーも書かれているわけです。ちょっとはっきり見えませんけれども、書かれています。

 ちょっと私は目が悪くて前までいかないと分からないんですよ。資料を収用委員会に提出をいたしますので、これをごらんになってください。

 自由に入っていていいよということです。沖縄の人たちは、どうぞ自由に中に入ってお参りしてください、とこう書かれています。それから次のスライドを少し見てください。

 この写真は地主(チヌシ)の山頂から見た私の故郷の今です。米軍の住宅が今立ち並んでいますね。このように一風変わっているわけです。こういう状況からして、米軍の言う、管理運用上、地主の立ち入りを認めるわけにはいかないという、言いわけにはどうしても私自身、納得ができないんですね。いつでも許可を得て自由に入れる地域になっているわけです。

 収用委員会が、職務を執行する立場から、地主を同行して、立ち入りを再度防衛施設局に、いや米軍に要望していることはすごく当然のことでありますし、収用委員会の再三のこの要請を拒否し続けている米軍に激しい怒りを今覚えております。

 私は、昨年の6月に、国が裁決申請をしている私有地の土地の位置とか境界、それから施設等に異議あるということで、貴収用委員会に意見書の提出をいたしました。きょうの公開審理の場で、少し詳しくこのことに触れたいと思っております。

 ここに3枚の地図がございます。順を追って3枚をとりあえずスライドで映していただきたいと思います。

 一つは、1947年の土地所有権申請書に基づいて、1948年5月に作成されたものです。

 どうぞ、お願いします。

 ちょっとよく見えませんが、これは1948年5月に作成された地図でございます。この地図をちょっと見てみますと、この土地所有権申請書というのはどういうものかと言いますと、県立公文書館のほうにずっと保存をされているもので、土地の形状とか、隣接地との位置とか境界、それから地籍などが明記されていて、保証人の認印が押印をされております。

 スライドの7の1を見せてください。

 こういう感じで、押印が今されております。1947年と言いますと、戦後間もない時期ですので、保証人の記憶というのは鮮明であったと思いますし、それから地図の正確度は極めて高いと言ってよいと思います。特に、土地の配列とか、形状とか、それから境界などは正確そのものであったと言っていいと思います。

 次に、土地証書に添付されている実測平面図のもとになっている現況地籍照合図というのがありますが、それを見たいと思います。

 これが現況地籍照合図です。この現況地籍照合図は、地籍明確化作業のとき、施設局によって作成をされたものと言われています。

 この3枚目は、1979年8月に作成されたと言われている那覇地方法務局沖縄支局に公図として保管されている地図です。

 この三つの地図は、いずれも私の所有している沖縄市字森根石根原の359、361、362、385番の4筆の土地の位置や境界を明示している地図です。比較をしてみると、3枚の地図は3枚三様、位置や境界を全く異にしています。今回、使用裁決されている361番-2は、361番から分筆された土地ですので、1948年の地図と比較をするために、便宜上、この361-2は361の中に組み込んで話をしたいと思っております。

 私は、特にこの三つの地図を比較して申し上げたいことは、実測平面図により実施された土地が本当に私の土地であるのかということです。この境界が私の土地との境界なのかということなんです。1948年の地図と実測平面図を比較してみますと、全く異にしているわけです。特に二つの地図を比較してみますと、土地の位置、境界が全く違っているのが明らかなんです。例えば、359、収用委員会の皆さんのほうからよく見えると思いますので、ごらんになってください。

1番目の地図を少し出してください。

(スライド)

 359、362、385番の地図が、実測平面図、つまり現況地籍照合図とは全く異なっているわけです。

 じゃあまず、現況照合図を少し出してみてください。

(スライド)

 359、362、385、一体どうなっているんでしょうか。よく収用委員会の皆さん、ごらんになっていただきたいと思います。具体的には、各隣接の形状を比較してみたいと思うんですが、まず、所有権申請書に基づいて作成された1948年の地図を出してみてください。最初の地図です。

(スライド)

 359番の隣接地が、1948年の地図では358、369、361番になっています。しかし、ちょっと現況照合図をまず出してみてください。

(スライド)

 この現況地籍照合図では、361、359-2、364番となっています。しかも、359-2は不動産登記簿には実在をしていないんです。359、それから、361番のこの隣接地が、1948年‥‥‥ちょっと一番最初のを出してみてください。

(スライド)

1948年の地籍では、356、358、359、360、362となっているが‥‥‥

(スライド)

 現況照合図では、356、それから360番地が隣接になっていないわけです。現況照合図では、また道をはさんで387-2の土地があるんですが、不動産の登記簿にはこれが存在しないんです。それから、362番地の隣接地が1948年‥‥‥ちょっと前の地図を出してみてください。

(スライド)

1948年の地図では、361、363であるわけです。しかし、現況照合図ちょっと出してみてください。現況照合図では363番地が隣接地になっていないと思うんです。よく見てみてください。また、385番地、この地図と、見ていてほしいと思いますが、385番地の土地がとんでもないところに移転をしているんです。この地図をちょっとごらんになってください。

(スライド)

 388、387、384、375の4筆の土地が、いずれも今ごらんになっている現況照合図では隣接地になっていないんです。しかし、最初に出した1948年の地図では、388、387、384、375の四つの土地がすべて隣接地なんです。

 以上のことから、この現況照合図、すなわち土地調書に添付をされている実測平面図に図示をされている私の土地の位置や境界は、1948年に十地所有権申請書に基づいて作成をされた地図の位置や境界とは全く異なるものであると言わざるを得ないわけです。

 私のこの土地のある沖縄市字森根石根原のこの小字、今ごらんいただいた小字なんですが、土地はすべて地籍が不明なんです。地籍明確化作業を完了していないわけです。それは、私が隣接地との境界や位置に異議を申し立てているからなんです。何も嫌がらせのために私が異議を申し立てているわけではないんです。

 先ほど述べましたように、とても私自身が納得できる状況ではないということなんです。しかし、国側は合理的なこの境界の確定がなされているとして、米軍基地収用特措法を適用して、1982年と1987年の二度にわたって、私の所有している4筆の土地を米軍に提供してきました。しかし、今もって位置境界が不明なんです。国側は何を根拠にこの位置境界の確定に合理性があると言っているのか、納得のできる説明を積極的に求めたいと思います。また、国側の土地証書に添付されている実測平面図や現況地籍照合図は、何を根拠にして作成をされたのか、それも説明をぜひ求めたいと、こう思っています。

 それから、あと一つなんですが、私の所有している4筆の土地の地籍について、やはり国側に説明を求めたいことがございます。沖縄市字森根石根麻の361-2、362、359、385のこの4筆の合計の地籍は、登記簿上の面積と、国が裁決申請をしている実測 面積との間に6.43平方メートルの差があります。登記上の面積を申し上げますと8,063.77平方メートルです。しかし、国側のこの実測平面図に提示されている面積は、8,129.29平方メートルになっています。各筆ごとに申し上げますと、385番地の土地が登記面積1,041平方メートルに対し、裁決申請をしている面積は1.059.47平方メートルです。それから、359番の土地が1.203平方メートルに対し、1.223.89平方メートルです。それから、362番の土地が1,186.77平方メートルに対し、1,212.62平方メートルです。それから、361番ー2が4,633平方メートルに対し、4.633.22平方メートルとなっています。どうして63.43平方メートルの差が出たのか、そして何を根拠にして国は面積を決めたのか、ぜひ説明を求めたいと思います。

 最後になりますけれども、収用委員会が現地に即して適正な判断をするために、私たち地権者の土地立入は不可欠として立入調査を拒否したことは、私は当然のことであると思いますし、米軍の調査を拒否したことは当然のことであると思いますし、私たちの意思を無視して入ることをしなかったということなんです。それは当然のことだと思いますし、米軍の対応に激しい怒りを覚えています。国と米軍が、当事者である地権者の立ち入りを拒否するならば、現地に即した公平な判断は不可能です。収用委員会は国の裁決申請を当然却下をすべきだと私は思います。

 以上、私の意見を述べ、陳述といたします。

 ありがとうございました。

当山会長:

 はい、ご苦労様でした。 では、次に有銘政夫さん。


  出典:第8回公開審理の議事録から(OCRによるテキスト化は仲田

  写真提供:顔写真(上原成信)、スライド(違憲共闘会議)


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