沖縄県収用委員 第8回会審理記録

芳澤弘明


芳澤弘明弁護土(土地所有者・代理人):

 嘉手納町東野理原351番の土地の所有者です。また、地主代理人、弁護士の芳澤弘明です。

 これまで、10名以上の皆さんが意見を述べました。いずれも、聞くものをして感動させ、考えさせられるものであったと思います。宮森小学校事件について証言された新里律子先生のお話など、涙なしでは聞けないものであったと思います。いずれの話をとっても、嘉手納飛行場という極東最大の基地が、村や町を分断し、人々のかけがえのないふるさとを取り上げ、村人を谷間に追いやっていった。いかに周辺住民の生命と健康と暮らしを脅かし、人間の尊厳を踏みにじり、文化を破壊してきたか、また、現に破壊し続けているのかということが収用委員の皆さんもお分かりいただけたものと思います。また、嘉手納基地が沖縄県民のみならず、アジアの人々はおろか、中東、ペルシャ湾岸の人々の生命までも奪ってきたということも十分お分かり願ったものと思います。

 そこで、私はこれまでのご意見を踏まえ、これらを補足しながら、全体の共通項をまとめ、総括的な意見にかえたいと思います。多少の重複は免れません。お許しくだい。

 まず最初に、沖縄の軍事基地、嘉手納基地は沖縄戦に先だって構築されたという点。2番目、嘉手納基地のもつ犯罪性。3番目、ベトナム戦争と嘉手納基地。4番目、B52撤去、命を守る県民の闘い。本件強制使用は許されないという順でお話を申し上げます。

 米軍の沖縄攻略に備えて、日本軍は各地に飛行場を建設し、全島要塞化の工事を強行しました。1943年末から44年にかけて、国は地主の意思を無視して農耕地を接収しました。戦前の旧土地収用法は、戦争目的にも使われたのであります。現行法は違います。新憲法によって、軍事目的は除かれました。そこに、米軍特措法の違憲性があります。

 嘉手納基地に使用されている土地には、もともとは国有地はありませんでしたが、現在ではかなりの部分が国有地です。これらの土地は、国に協力しない者は非国民だと脅しながら国が接収し、国有地としました。土地代金は国債と現金。ただし、現金は強制貯蓄をさせられました。したがって、ただ同然で日本政府は取り上げたのです。嘉手納飛行場は日本軍がつくったものです。それをそっくり米軍が引き継ぎ、拡張整備し、具志川市、沖縄市、北谷町へと広げていきました。伊江島の基地も、読谷の基地も同じです。それをそっくり米軍が自分の基地としてつくり直し、強化しました。沖縄戦の中で、これらの基地は本土攻略の足がかりになったと大城保英さんは言われました。

 皆さん、長崎に原爆を投下したB29は、投下して帰り道、伊江島に立ち寄って給油をしました。そして、サイパンの隣、基地テニアンへと帰島しました。もし、沖縄の米軍基地がなかったならば、長崎への原爆投下はありませんでした。なぜならば、最初は小倉を目がけて原爆を投下するはずのこのB29です。気象条件で長崎へまわって行きました。油がない、しかし、沖縄がある、伊江島がある。その計算で長崎に原爆を投下した。そのことを私は申し上げます。沖縄の基地があったから、長崎への原爆投下もできたのです。マッカーサーはフィリピンから厚木に行く途中、沖縄に立ち寄ってもおります。

 嘉手納基地は極東最大。その機能と役割からして、その犯罪性は極めて高いものです。朝鮮、ベトナム、中東ペルシャ湾への侵略拠点となりました。何よりも核基地です。ブロークンアローのことや、NBC戦争の訓練をしていることなど、大城さんが詳しく述べられました。基地被害、基地災害、軍人犯罪の発生源です。由美子ちゃん事件については、又吉さんが述べられました。

 一つだけ補足をします。由美子ちゃん事件が発生した直後、沖縄教職員会、当時の会長屋良朝苗先生は声明の中で次のように述べています。「喜々として遊んでいた純真無垢な幼女が、一夜明ければ嘉手納海岸の砂浜に凶暴な野獣のえじきとなり、草の葉を握りしめ、唇を固くかんだまま、無残な死体となって投げ出されていた」と。このことについて、又吉京子さんも述べました。犯人ハート軍曹は死刑の判決を受けましたが、本国に送還されて減刑、その軽くなった刑が執行されたかどうかも未だ不明です。

 ベトナム戦争と嘉手納基地、この関連です。米軍の陸軍や海兵隊は、既に1962年ごろから沖縄を中心に対ゲリラ戦の訓練をしていました。64年1月、ハワイ、沖縄、フィリピンを結んで行われた米軍の大規模なクイックリリース、緊急発進演習、それはアジアのどこかで民族解放戦争が起きた場合を想定したものでした。このクイックリリース反対の闘いが沖縄でもあり、デモが組織されました。これは無届デモ、集成刑法違反であるとして弾圧され、裁判にかけられました。被告の皆さんは無罪を勝ち取りました。占領中の裁判官にも良心のある人たちがいたことをここで申し上げます。

 アメリカは、65年2月北ベトナムに対しては北爆の開始を、南ベトナムに対しては地上戦闘部隊の大量派遣をそれぞれ決定し、戦争は一挙に本格化します。このとき、初めて沖縄から直接南ベトナムヘ向けて米軍部隊が発進しました。これが第8海兵師団1万2,000人に属する第1低空ミサイル大隊でした。また、グァムを発進して、ベトナム爆撃に向かうB52戦略爆撃機は、太平洋上で給油を受けることになりますが、それを担当したのが沖縄の嘉手納基地から飛び立つ空中給油機KC135ジェットタンカーの連隊です。北爆の女房役とも言うべきKC135は、既に65年の1月に嘉手納基地に配備済みでありました。このように、ベトナム戦争の基地として沖縄を使うことは、アメリカにとっては既定の方針であったわけであります。

 1968年11月19日、午前4時15分、沖縄の嘉手納基地周辺の住民は爆発の大音響でたたき起こされました。B52戦略爆撃機が離陸に失敗し、基地内に墜落爆発したのです。

 これがB52、その墜落現場を映してください。

 これです。私たちは見ました。嘉手納村には幼稚園・小学校2校、中学校1校がありますが、子供たちは事件の衝撃と恐怖からなかなか覚めず、そのときの様子や印象を絵や作文、詩に書き綴っております。中学1年の仲盛チカコさんは、次のように書いております。

 「私は何事かと飛び起きた。ドカンという音と、ウーウーというサイレンの音が重なり合い、恐怖を感じさせた。母が『戦争かもしれない、電気を消して、一番上等の洋服を着なさい』と言った。私は言われるままに洋服を着て床に座っていたら、頭に浮かぶのは、私たちはどうなるのだろうということばかり。現実に私たちの目の前には世界で最も恐ろしいB52がある。したがって、沖縄もベトナム戦争の片棒をかついでいることになる。何の罪もない人々を殺しているベトナム戦争、そんな恐ろしい戦争に沖縄まで加わりたくない」

 先ほどの当山さんが示した、あのベトナムでのB52のスライドを思い起こしてください。

 スライドを続けましょう。

 墜落現場の隣にある知花弾薬庫です。

 続けてください。

 危除がいっぱい。日に4〜5回も退避する。

 続けてください。

 美里村に核兵器貯蔵庫。地下室に6ヵ所。

 続けてください。

(スライド)

 巻き添えはご免だ。さながら戦場の未明。これです。

 続けてください。

(スライド)

 屋良朝苗主席がおられます。県民の怒りは燃え上がっていきます。

 続けてください。

 B52撤去要求県民大会。これが開かれました。

 さて、このB52が沖縄に初めて姿を見せたのは1965年6月18日のこと。ベトナム爆撃に出撃した30機のB52のうち5機が故障し、その1機が嘉手納基地に飛来した。次の飛来は本格的だった。7月28日早朝、佐藤首相の沖縄訪問の3週間前、台風避難の名目でグァム基地から30機が嘉手納基地にやってきました。しかも、これらB52は翌29日、直接ベトナムに飛び、サイゴン近くのジャングルを爆撃、100トンの爆弾を投下しました。グァムは台風ではありませんでした。私たちは調べました。その後、67年3月21日、7月26日、11月12日と、15機から30機の編成でやってきました。68年2月5日以降は、そのまま居座りました。嘉手納基地はベトナムの戦場と直結したB52の常駐基地となってしまいました。68年11月のあの墜落爆発事故は、起こるべくして起こったものであります。

 さて、「沖縄なくしてベトナム戦争はやっていけない」こう述べたアメリカの提督がおります。ハワイに指令部のある太平洋統合軍最高司令官シャープ提督です。「B52が沖縄から発進したことで住民がショックを受けていると言うが、私にはその理由が理解できない。われわれは、この基地をいつでも自由に使用する権利をもっている」シャープ提督は65年11月、ある雑誌のインタビューに答えて、「沖縄なくしてわれわれはベトナム戦争をやっていけない」と強調をしました。そのとき、事前協議で在日米軍は対外出撃はしないなどという議論があったわけです。その議論はふっ飛びました。

 次にB52墜落、その後の沖縄県内の動きです。B52が嘉手納に居座っていたころ、アメリカの原子力潜水艦は、ホワイトビーチはおろか、那覇軍港にも出入りし、放射能汚染化をもたらしていました。このような中でのB52の墜落炎上、県民の怒りと不安はその極に達し、1968年12月7日、B52撤去、原潜寄港阻止県民共闘会議、別名「命を守る県民共闘会議」が結成されました。県、経営協をはじめ、経済団体などを含む134団体がこれに結集しました。命を守る県民共闘は12月14日、第1次統一行動として県民総決起大会を開きました。これです。

 2月18日、県労協は臨時大会を開いて、B52撤去でゼネストを決行することを決定しました。そして1月6日、命を守る県民共闘総決起大会が開かれることも決めました。

 しかし、日本政府はこの県民の動きに対して、巧妙かつ陰湿な攻撃と圧力をかけてきました。1月11日、アメリカ民政府は基地労働者を弾圧し、その労働基本権を厳しく制限する、総合労働布令を交付して、全軍労を恫喝しました。1月24日、佐藤総理はゼネストは復帰の時期を遅らせるものと、星克立法院議長に強調しました。

 1月29日、佐藤首相は屋良主席を東京に招いて会談、1月31日、東京から帰任した屋良主席は、命を守る県民共闘会議に対して、ゼネスト回避を要請しました。結局、きょうの共闘会議は、ゼネストを決行することはできませんでした。

 しかし、監事会において2月4日に、「2・4ストライキ統一行動」を決行することを決定しました。その2月4日、B52撤去、原潜寄港阻止、命を守る県民総決起大会は、おりからの集中豪雨の中、実に5万5,000人を結集して大きな成功をおさめました。スライド動かしてください。

 これです。続けてください。

 これです。雨の中。続けてください。

 これです。続けてください。

 この2・4、ゼネストに代わる「2・4ストライキ統一行動」の成功こそが、復帰を促進したのではなかろうか。これ以外に他策がないと結論されたであろう、屋良主席の苦渋の選択を私は理解しながらも、このように考えたわけでありました。果たせるかな、その後B52の常駐はなくなり、ベトナム戦争の火も消え、沖縄の施政権返還も、まがりなりにも実現しました。この「2・4ゼネスト」に参加した県民の皆さんは、この場にたくさんおられると思います。先ほどの平良悦美さんも、そして皆さん方の妻や、小学生たちもB52撤去のプレートを胸に、誇り高く、あの雨の中、行動に参加したと思います。

 さて、そのときの状況は、今海上基地をめぐって、橋本総理大臣があれほどのことをやってきた、やっていることと状況は似ているのではないでしょうか。問題提起をします。

 次、本件強制使用は許されない。国際法、ヘイグ陸戦法規違反の基地建設と銃剣とブルトーザーによる土地強奪についてです。

 沖縄戦の過程における基地の囲い込みは、沖縄県民の私有財産である土地の文字どおりの強奪でありました。私有財産は、これを没収することを得ずというヘイグ陸戦争法規第46条第2項に真正面から違反する行為です。米軍占領下の布令による強制収用は、これを法の衣で覆うものでありました。

 しかし、これとてカイロ宣言ポツダム宣言が、国連憲章などの国際法違反の米軍統治下での、土地収用であり違法でありました。

 その後の経過については、皆さんが言われたとおりであります。

 有銘さん眞榮城さんの土地収用をめぐって、河内弁護士が明解に分析をしました。その一つをとってもこれは却下されるべきであります。

 最後に結びをいたします。

 今、鳥島に劣化ウラン弾を打ち込んだ、その劣化ウラン弾は嘉手納基地からまだ取り去られていない。嘉手納基地はますます危険度を増しています。

 軍用地特別措置法、これを改悪しました。米軍特措法。そしてさらにまた、収用委員会の権限を骨抜きにしようという動きがあります。次から次へと政府の攻撃がかけられてきます。私たちは特措法があるから仕方がないと言って、沖縄の土地を、海を、米軍基地として使用させ続けることになるのでしょうか。答えはノーであります。このことについて、次の3点だけ述べます。

 沖縄県民は日本で唯一、地上戦場となった、この悲惨な沖縄戦を体験した中で、命どう宝を胸にきざんだ、それは沖縄県民の戦後生活出発の原点でした。そして27年間に及ぶ米軍の占領支配の下で、沖縄があれほどの戦争の足場となってきた、その拠点となっている様をこの目で、肌で、感じました。あのB52、あの爆音の音でわれわれ県民の心が、どれだけ痛んだことか。もう、チムグリサ、もうやめにしよう、これを誓ったわけです。その誓い、その思いが反戦地主の皆さんの胸にあります。きょうこの場に結集された、他府県からも多く来た皆さんの心のうちにあります。

 2番目、戦いの展望はあるのか、あります。私たちは条約3条の壁を破って、復帰を勝ち取りました。どのような妨害があろうとも、私たちは基地を許さない闘いを続けます。そして、私たちの背後には、本土の皆さん、海外、外国の皆さん、多くの皆さんが控えております。

 海上基地建設反対の闘い、それは名護市民だけの闘いではない、全国民の闘いである、全県民の闘いである、これが私たちの思いです。

 一昨年来の闘い、これからも続きます。沖縄の闘いは孤立した闘いではありません。私たち日本本土の民衆はもとより、世界多くの民衆、友人からの熱い支援、連帯が寄せられていることに心から感謝しております。沖縄はこれからも核兵器も、軍事基地も、軍事同盟もない21世紀をつくろうと発信し続けるでありましょう。戦争と侵略の基地、嘉手納はやがて平和の砦となるでありましょう。以上をもって終わります。

当山会長:

 大変ご苦労様でございました。

 きょうはご協力もありまして、非常にスムーズに進行いたしました。これで本日の審理を終了いたします。

 なお、次回の公開審理は那覇市民会館において、平成9年12月2日、火曜日、午後1時より開催いたします。なお、入場受付は午後零時30分から開始します。

 本日はお疲れ様でした。

(午後4時38分 閉会)


  出典:第8回公開審理の議事録から(OCRによるテキスト化は仲田

  写真提供:顔写真(上原成信)、スライド(違憲共闘会議)


第8回公開審理][沖縄県収用委員会・公開審理][沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック