沖縄県収用委員 第8回会審理記録

又吉京子


又吉京子(土地所有者):

 はじめまして。又吉京子と申します。

 私たち嘉手納基地に共有地を持つメンバーに、登記当時2歳の子がおりました。それから女性たちが、550名もおります。そして、視力障害をもったメンバーもおります。そういう人たちの思いをまとめて、私たちがこの嘉手納に共有地を持つということの意味は、この子どもたちの声、そして女性たちの声、障害を個人の個性として力強く生きている人たちの声として、もう戦争、それから軍隊、そういうものに人権を脅かされたくないという決意のもとで結集しました。

 結集して15年、私たちに初めて答弁の機会、陳述の機会が与えられました。地主になって15年なんですが、沖縄が戦争、そして基地被害というこの状況に置かれてもう50年です。50数年超しました。その中で多くの子どもたちが、そして女性たちが新たにまた障害者になった人たちがいるということを、沖縄の戦争、そして占領、そして米軍統治の時代を振り返りながら陳述していきたいと思います。

 特に戦争、軍事基地、軍隊は女性の性を奪い、抑圧するものであるということ。2 点目に戦争、軍事基地、軍隊は子どもの権利を侵すものであると。戦争、軍事基地、軍隊は新たな障害者をつくったと、この3点から陳述をしていきたいと思います。

 このような人々は、特に女性たちは、沖縄の女性たちはたくましい、自尊心を持っています。そして、子どもたちは活動的で、夢を持って動いているものです。障害者は本当に自分の障害を個性だと思って、生きていると思うんです。それを軍事中心主義的な社会、軍事中心的な政策が蔓延する中では、社会弱者にさせられるんです。その社会弱者にする一番の大きなものが、軍事基地だということです。それが諸悪の根源になっているということなんです。

(スライド)(147K)

 今スライドが出ておりますが、まず女性たちの状況を見たいと思います。

 略奪と破壊と殺戮の手段を持って自らを誇示し、優位性を示すのが軍隊であり、戦争システムなんです。それは同時に女性差別の構造を深く持っております。そのことを如実に示したのが、日本軍によるアジア・太平洋戦争における従軍慰安婦の戦場同行です。

 現在、韓国、フィリピン、インドネシア、台湾の元従軍慰安婦の方々から、日本政府は謝罪と国家賠償を求められております。このスライドは1972年に沖縄の女性たちが製作をしました慰安所マップです。沖縄には日本軍が上陸するとともに、慰安所がつくられました。今、分かっているだけで131ヵ所、朝鮮半島から連れてこられた女性たちが、延べ約588人と言われております。

 これは南部のほうです。いかに中部から南部に沖縄の戦闘が激しかったか、そこに陣地がいっぱいあったか、そこに慰安所が併設されているかというのが分かると思います。それと同時にもちろん、渡嘉敷島とか、それから伊江島、宮古島、石垣島など、全島くまなくあるわけなんです。軍隊と慰安所のこの構造というのは、実に女性たちを差別していく何ものでもないわけなんです。この日本軍の従軍慰安婦を同行するというのは、世界の軍隊でも稀なことなんです。このような発想は実は戦後、敗戦と同時に1945年8月、かつて日本軍が中国でやったことを東京で起こすなという呼びかけで、特殊慰安施設を施設協会なるものがつくられたんです。内務省と警視庁の肝入りで、東京都に25ヵ所もつくられました。新日本女性に告ぐという呼びかけで、そういうものができたわけなんです。

 その一方で、沖縄ではどういうことがあったかと言いますと、次のスライドをよろしくお願いいたします。

(スライド)(190K)

 ここが北谷町です。ここが沖縄市です。これは嘉手納町です。この日本軍と慰安所の関係をこちらに書いてます。これは嘉手納町が3ヵ所、沖縄市が3ヵ所、それから北谷町が3カ所です。そのときの軍隊の名称、球部隊だとかそういうのが一緒にあるということです。

 次のスライドをどうぞ。

 そのころ、東京では慰安所がつくられるということで、一方で沖縄ではどういうことがあったかと言いますと、占領軍の占領意識は兵隊たちまで意識を変えたわけなんです。それで、この鐘は部隊に近いところの集落にかけられているものです。収容所のところです。これは夜な夜な集団で米軍の兵隊が集落内に襲ってくるときに、危険を知らしめる鐘だったんです。このボンベを打ち鳴らされる数は、あるいはそれ以上の数が女性たちに性的暴力を奪っていったという、一つのシンボルといいますか、今でもこれは砂辺地区に残っているボンベです。このことを島マスさんは「女性は安心して当時は外出もできなかった。家の中にいても、いつ米兵が入ってくるか分からない。人々は自衛手段としてボンベの鐘を打ち鳴らしました。占領地の沖縄は無法地帯でした」という表現があります。

 そのときの状況、1944年から45年のサンフランシスコ条約前の女性に対する被害というのが、講和条約前の補償委員会のほうで出されております。その資料によりますと、強姦及び致死傷害が76件、それから拉致の恐れを感じて車や崖から転落をした事件が7件にも及んだというんです。

 どうぞライトを明るくしてください。

 そのような中で、由美子ちゃん事件が起こりました。戦後10年目のエイサーを踊るほどに復興し、市民生活も少しばかり安定した1955年9月8日、占領意識を色濃くもった米軍の兵士による、6歳になる永山由美子ちゃんを石川市から車で拉致し、嘉手納基地に連れ込み、軍施設で暴行殺害し、施設内のちり捨て場に捨てたのです。犯人は米陸軍軍曹でした。逮捕後、軍法廷で死刑の宣告を受けたんですが、当時、沖縄では治外法権下で十分な裁判、それから取り調べの状況など、ほとんど知る余地がなかったんです。後で分かったのは、ワシントンに送られて、45年の重労働刑に軽減されたということなんです。

 当時の新聞報道を見ますと、由美子ちゃんは唇をかみしめ、右手に数本の草を握りしめているように死んでいたと報じています。由美子ちゃんの恐怖、悲しみ、くやしさを、指や右手は表現していると同時に、基地を容認し、一人の命と尊厳も守れない社会を許している大人たちへの抗議のようにも読めたのは、私一人ではないと思います。この事件は、沖縄の婦人団体に子供を守る会ということをあちらこちらでつくられました。だけど、女性や子供たちの事件はずっと尾を引いたんです。

 それから40年、未だに占領意識と女性差別と軍隊の暴力を見せつけたのが、1995年9月4日に起きた米兵3人による少女への暴行事件でありました。由美子ちゃん事件を思い起こすという女性たち、平和と発展と平等を求めて開かれた第4回北京会議に参加した女性たちの素早い行動が、8万人を超す県民集会へと発展し、女性たちが人間らしく生きたいとの女性人権宣言を伴った行動が展開されました。しかし、少女の事件が引き起こされているのは、基地や軍隊の駐留を許している結果なんです。少女の尊厳を守れない沖縄の基地のありようは、整理縮小程度では決して解決しないことを、戦後50年の沖縄は体験したのです。たくさんのことが沖縄の中では起こっております。そのことについても伝えたいと思いますが、文書をもって提出します。

 それで、最後に、私たち20世紀は本当に戦争の世紀と言われたくらい戦争に追いまくられました。戦争や紛争が起こるたびに女性たちが性を、子供たちが生きる権利を、障害者が障害をもちながらも生きる社会を形成できなかったわけなんです。そのためにも新しい秩序、パワーゲームやそういう暴力による世界ではなく、本当にあらゆる人が経済的にも公平で社会正義が守られて、環境が整えられ、政治参加が保障されるような秩序をつくってほしいと思います。

 私たちは、共有地主になってことしで15年を迎えますが、これが二度と再び戦争を起こさないという決意と、二度と再び女性の性や子供たちの生きる権利や、障害者を新たに生まないというその状況をつくってほしいと思います。

 そして、収用委員会の皆様にお願いしたいのは、今回初めて意見陳述をする機会を与えられましたが、今回の公開審理及び裁決が、これから迎える21世紀の1000年の沖縄のありようを差し示す意味があると思います。この裁決いかんによっては、私たちがまた基地という暴力と共存しなくてはいけないのか、それはもう嫌です、ノーですということを言いたいと思います。

 若者が、女性が、障害者が、希望をもてる1000年のスタートを切らせることを祈りつつ、陳述にしたいと思います。

当山会長: はい、ご苦労様でした。 次に、大城保英さん。


  出典:第8回公開審理の議事録から(OCRによるテキスト化は仲田


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