Web週刊誌に至ったミニコミ言論の私的軌跡 1999.1.11

 この文章は、出版労連関係者の会報『ヴァンテアン』(vingt_et_un.フランス語の21)への寄稿です。

 同誌の編集者から昨年11月、以下の文中のVIDEOACT!発行のカタログをきっかけにして、その他、「ガス室」問題など、近況を寄稿せよと依頼されながら、まさにその「ガス室」裁判などに追われて締め切りを延ばしてもらい、年が明けてから仕上げる時間が作れました。

Web週刊誌に至ったミニコミ言論の私的軌跡

1999.1.11. 木村愛二

 1999年元旦払暁、Web週刊誌『憎まれ愚痴』創刊号の入力を終えた。日本テレビ相手の不当解雇撤回闘争中にも、それ以前の労組役員時代にも、当時の組合用語で「情宣地獄」の半徹を経験したが、今は時折でもあり、ちっとも辛くない。まるで懲りない「道楽三昧境」の夜更かしである。予定より仕上げ時間が押した理由も格好が良い。イラク査察団長バトラー批判のフランス報道を友人が訳して、その要約版をE-mailで送ってきたのだ。

 特種という程ではないが、日本の大手メディアがまともに報道しない情報を、日本全国ばかりか世界中のWebに撒き散らすのだから、これまた堪らない快感である。政府も空爆を非難したフランスでの報道は、アメリカや、アメリカ追随の日本の報道振りとはまったく正反対だった。名門紙『ル・モンド』の最初の大見出しは「最悪の選択」だった。同系列の月刊誌『ル・モンド外交』(Le mondo dipromatique)の空爆直後のインターネット記事の主題(subjectと英語を使用)は、「国連を軽視して」だった。その下に「米英が空爆開始」と続いていた。つまり、空爆自体よりも「国連軽視」の方に重点があったのだ。

 昨年12月17日に開始されたバグダッド空爆の口実、イラクの査察拒否は、オーストラリア出身のバトラー団長の仕事振りの評価に起因していたが、フランスの報道では、バトラーの態度を、非常に傲慢かつ挑発的で、国連軽視のアメリカ寄りと非難していた。

 同じ友人が2号にも『ワシントン・ポスト』記事の要約を送ってくれた。アナン国連事務総長が「査察団スパイ説の証拠を握った」との発言の詳報である。元旦にきたFAX、ミルクなどを運んですでに15回目の子供救援活動中、バグダッドで空爆を経験した元保母、伊藤政子の長文の手記も入力した。これは英訳準備中で、それこそ全世界に撒き散らす。

 以上のようなインターネット・ミニコミ活動は、私の人生の基本とも言うべき「ガリ版」主義の延長線上にある。私は大手メディアの真っ直中にいた。しかし、日本テレビ入社以前の学生時代からガリ版ビラを配っていた。今でも同じことを続けているのである。

 職場復帰は果たせなかったが、湾岸戦争直後には、ニューヨークのペーパータイガーTVのスタッフを呼ぶ「民衆のメディア国際交流91」があった。パブリック・アクセス・ケーブルTVで毎週1回30分の放送枠を持ち、湾岸戦争反対の特集番組を流し続けた彼らには、大いに学ぶところがあった。その後「民衆のメディア連絡会」を結成し、現在360名を超える仲間が全国に網を張っている。会員はヴィデオ・パソコン世代が多い。私がカンプチアPKO出兵の取材にヴィデオを担いで行き、 200本以上売れた『軍隊の影に利権あり』を作れたのも、Web週刊誌に乗り出せたのも、すべて若い世代の手引きによるものだ。この仲間と昨年、自主VIDEO流通組織VIDEOACT!も結成し、毎月数十の販売に成功している。

 並行して私は、活字メディアの本を争議解決後に 9冊出した。「ガリ版」の延長のリソグラフによる手作り新聞も、現在、3種類出しいる。湾岸戦争からカンプチアPKO、その他諸々の『フリージャーナル』を39号、シオニスト「ガス室」謀略批判の『歴史見直しジャーナル』を24号、地元武蔵野市で気付いた塩漬け用地問題の『武蔵野市民オンブズマン』を9号、手を広げすぎの感なきにしもあらずだが、これぞ真の言論と自負している。

 創刊では一番新しい『武蔵野市民オンブズマン』は全部 Web入力したが、それを「土地開発公社」のキーワードで検索した日本テレビ「ニュースプラス1」スタッフが、武蔵野市で取材、昨年10月28日に放映した。担当は社外プロダクション所属なので、私が日本テレビにいたことは知らなかった。私は「内容的な職場復帰」と位置付けて御機嫌である。

 私のURL: http://www.jca.apc.org/~altmedka/

   E-mail: altmedka@jca.apc.org

 以上。


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