きわめて自由で公正な精神をつらぬいた人の死を悼む
(関連記事:➡ ガロディを支持したユダヤ人音楽家長老メニューイン)
●きわめて自由で公正な精神をつらぬいた人の死を悼む
萩谷良(翻訳家)(1999.3.19)
木村愛二様より「ユダヤ人メニューイン逝く」とのメールをいただきました。
以下は、『憎まれ愚痴』への投稿です。
メニューインの訃報はAFPでは第1面トップ扱いでした。英仏の他の新聞については、今のところ、よくわかりません。毎日新聞と朝日はわりにくわしい報道、読売は簡略です。ただ、AFPも含め、政治的な話はちっとも書きません。ある新聞は、彼が戦後スランプに陥ったと書いていますが、戦争中、ナチスの弾圧を受けてから数年間の演奏活動停止状態を余儀なくされた時期があったとは書きません(ふたつのことが直接関連するかどうかは、私の乏しい知識ではわかりませんが)。
私たちは、たんなる天才音楽家ではなく、きわめて自由で公正な精神をつらぬいた人の死を悼むものです。
メニューインは、バッハ、ベートーベン、ブラームスなどを得意とする、ドイツ音楽の伝統を受け継ぐ音楽家だとは思いますが、高名なシタール奏者ラヴィ・シャンカールやフランスのジャズ・バイオリニストとして有名なグラッペリとデュオをやったり、ヨーガの逆立ちのポーズでオーケストラを指揮してみたり(!)、ユーモアのセンスも不足しない人物だったようです。戦争中はハンガリーの作曲家バルトークが米国に亡命してきたのを支援し、戦後はフルトヴェングラー、さてはパレスチナ抑圧に反対してイスラエルの国会(クネセト)でスピーチをやったり、見事な反骨ぶりです(某紙の訃報記事は「読書を好む温厚な人柄」と書いていましたが、因循な感覚でヒイキのヒキ倒しをしてくれては困ります)。
ジドゥ・クリシュナムルティ著『生と覚醒のコメンタリー』のあとがきで訳者の大野純一氏は、クリシュナムルティの影響を受けた著名な人物の一人として、メニューインの名をあげています。クリシュナムルティも終戦直後、戦勝におごる連合軍の態度を批判した数少ない人の一人でした。
フルトヴェングラーという人は、いわばドイツロマン派の申し子のような人で、ヨーロッパ音楽至上主義者でした。メニューインはこの人を非常に深く敬愛していたのですが、その一方でインド音楽やジャズとも交流を楽しむことができたのでした。そして、ユダヤ人でありながら、パレスチナ人抑圧に反対の声をあげたのです。
このように、精神の自由さ、幅広さと、すぐれた倫理性をもった人があったことは、つねに記憶にとどめたいものです。ゴッホの有名な手紙にもあるように、生者あるかぎり死者は生きん。
以上、とぼしい知見にもとづく拙いものですが、哀悼文とします。
●「メニューイン、died」(1999.3.13)
以下は、冒頭の私のmailです。(一部のミスプリのみ訂正)
木村愛二です。
1999.3.13.本日朝まだき、「メニューイン、died」というニュースで眠気が覚めた。
このところ、「発明マニア」の私は、「春眠暁を覚えず」の季節向きに、寝床に潜ったままAFNラディオの定時ニュースを聞くことを思い付き、実施している。同時に録音して「チャリン語学」(自転車に乗る時間のウォークマンによるヒヤリング学習)に使っている。危険だと心配する友人や、警告する警官もいたが、「違法ではない」と突っ張ってしまったのである。ああ、この暴走爺い奴!
享年、82歳。まさか、このメニューインを「反ユダヤ主義者」と呼ぶものはいまい。
というのは、その前夜、1999.3.12.れんが書房新社から届いた『読書人』(1999.3.19)の拙訳『偽イスラエル政治神話』の書評には、多分、私のことも含めてであろう、「日本におけるホロコースト否定論者あるいは反ユダヤ主義者はユダヤ人の被害者であるパレスチナ人を担保に議論を組み立てる傾向がある[中略]」という持って回った表現の部分があったからである。しかし、このガロディの本のアラブ語版の現地における評判などの部分には、大いに評価できるところがある。
私は、以下の文章を、昨年、1998年3月16日にパンセホールで開かれたマスコミ文化情報労組会議の春闘総決起集会向け『歴史見直しジャーナル』号外に記している。
私の判断では、すでにこの時期、ホロコースト問題に関しては、日米戦争のミッドウェイ海戦に当たるような勝敗の分岐点が見えたのである。日本は、それ以後も、神風攻撃に至るまでの絶望的な戦いを継続したのだが、アメリカは占領後の研究を開始していた。
日米戦でもブラジルの「勝ち組」やフィリピン山中の小野田少尉にような例があったが、現在、私にインターネットで挑んでくるような不勉強な連中にも、その気がありそうである。
●ユダヤ人の音楽家メニューインを知ってますか?(1998.3.14)
以下、再録。
1998.3.14初入力。
この記事には、いささか早手回しで勝手至極な「愛惜の念」が籠っている。
と言うのは、私が、この足掛け5年という歳月、それに専念していたわけではないにしても、大袈裟に言えば命懸けで取り組んできた20世紀最大の大嘘、「ユダヤ民族虐殺」デッチ上げ謀略の正体暴露に関して、予想以上の雪崩のような展開が見られ、私が私なりに、こつこつと不器用に説明の努力を積み重ねてきた証拠や論理の問題が、いわゆる「理論が大衆を捉らえると物質的な力になる」という命題に従って、最早、細部の、しんねりむっつり議論を必要としなくなる時期が近いのかもしれないからである。
その上に、私の好みどころか、むしろ嫌いな方の現象なのに、「有名人」が続々と「ガロディ支持」を表明し始めたのである。しかも私は、そう言う大手メディアが報道を渋る情報を、これまた命懸けで暴露するのが性分ときている。ああ、だから私は、実は、この私の予感が当たらないことの方を祈りながら、それでも綴らざるを得ないという二心に引き裂かれながら、この記事を綴っているのである。
私は、パリ地裁のガロディ裁判傍聴取材で、多数の「モズレム」(彼らの自称)と親しくなった。一人だけがイラン人で、ほかは全部アラブ人だったが、「モズレム」の連帯感に「共通の敵シオニスト」があることを痛いほど感じた。[中略]
国際情勢の基本には、東エルサレムでの明確な国際法違反のユダヤ人住宅建設強行に対して、1997年3月7日、連合国(国連の正しい訳)総会が採択した非難決議と、それに従わないイスラエルとアメリカの孤立があった。しかも、その後、意図的か否かは別としても事実上、話を逸らすためにエスカレートされたようなイラク爆撃威嚇がある。当然、「モズレム」の怒りは頂点に達していた。
さて、そんな雰囲気の裁判の取材を終えて、正月の17日夜半に帰宅すると、とぐろを巻いて垂れていたファックス受信用紙の中に、1月16日付けのAFP(フランス系国際通信社)電が入っていた。インターネット・サーファーでクラシック音楽に詳しい「歴史見直し研究会」の会員の一人が送ってくれたもので、同一人物が『噂の真相』(98・3)にも、その内容の一部をペンネームで投書している。
そこには、「イスラム諸国の諸団体とともに、高名な音楽家ユーディ・ニューインも(ガロディ裁判)支援者に加わった」とある。以下、その「ナチのガス室論争に関して」と題する投稿の、後半部分を引用する。
「多くの平和・国際理解推進活動によりインドのネルー平和賞、米国の核時代平和財団の傑出した平和指導者賞などを受賞し、ユネスコ親善大使でもあるメニューイン氏は、自身、ナチの迫害を受けたれっきとしたユダヤ人だが、大戦後、指揮者フルトヴェングラーの対ナチ協力の嫌疑を晴らすべく、米国のユダヤ人たちとの対立を辞さなかった。パレスチナ、問題については、イスラエル国会で演説し、ロム(ジプシー)もナチの犠牲者になったことを忘れてはならないと警告している」
手元の平凡社『世界百科事典』にも、「メニューイン」の項目がある。この事典に存命中に載るのは超有名人だけである。その21行の記事の中から要点を抜き出してみる。
「Yehudi Menuin(1916~)」。今年で82歳になる。ガロディよりは2歳ほど若い。
「アメリカのバイオリン奏者、指揮者。少年時代、[中略]神童の名をほしいままにし、[中略]若くして世界の一流バイオリン奏者のなかに加えられるに至った。[中略]58年メニューイン室内管弦楽団をイギリスで結成、指揮活動も行うようになり、翌59年ロンドンに定住。58年以来、バース音楽祭、ウィンザー音楽祭などの芸術監督を努め、また62年音楽英才教育のための学校を創立するなど、多方面に及ぶ活躍をみせている。1951年初来日」。
Yehudiはヘブライ語で「イェフーディ」と発音し、「ユダヤ人の」または「ユダヤ民族の」を意味する。この名のユダヤ人は、私が知っているだけでも数人いる。[中略]
この命名には親族の「ユダヤ主義」とでも言うべき思想が籠っていたのではないだろうか。「名は体を表わす」とも言うが、メニューイン自身も、その名を背負って、人一倍「ユダヤ人」を意識し続けてきたのではないだろうか。そのメニューインが今、ガロディの支持者に名を連ねたのである。
だが、不思議と言えば不思議なことに、この超大ニュースが日本の大手メディアで報じられた気配がない。フランスではどうなのかは、現在、問い合わせ中である。
もしかすると、AFPが日本の共同通信社以上の位置付けになっているフランスでも、ガロディの本を支持したことで「国民的神父」のアベ・ピエールが叩かれた時のような、大騒ぎにはなっていないのかもしれない。
情報が入り次第、また入力するので、それでは、それでは、また、お会いしましょう。「愛惜の念」とともに、とりあえず以上。
以上。