電網木村書店 Web無料公開 2017.4.6
第四章《“民間”の官界ボス》
刑事被告人から“キング与三”とおだてられた“ブレイン”の無法人脈
2 “角さん”と“キング与三”の珍道中なれそめ
しかもこの間、建設省関係者から、田中角栄という、民間出身の“逸材”が飛び出してきた。田中大蔵大臣=河野建設大臣時代には、「河川法」をいじったし、いまだ政局をにぎわす新潟の河川敷問題まで残している。この田中の派閥が、自民党内の党といわれて問題になっているが、旧内務官僚閥も、官僚閥内の最大閥である。こういう最大閥による多数支配は、かつての関東軍=軍部=天皇制内閣の歩んだ道を、またたどることになる。つまり、倍々ゲームの最大パワーによる民主主義否定の道である。
その際、やはり終局的な原動力は、利権である。そして、小林は、“角さん”お得意の建設省関係の利権にも詳しいのである。小林は、総理庁審議室に八ケ月潜んだ後、建設省文書課長となった。この文書課長というのは、本人も語るように、事務次官や大臣と直結する要職なのである。
《三年七カ月、建設省創設時代の文書課長として、私は、審議室における小休止の後を受け、建設省では一番忙しい者の一人として、働いた。私は、建設省では専ら文書課長であり、立法の手伝いをすることで各局の行政に触れただけで建設の実体行政には直接関係しなかった。どの局でもよいが何かラインの行政をやっていたら、建設行政について、もっと突っこんだ勉強もできたろうし、経験も積めたことと思う。その機会がなかったのは、残念だが、それにしても、戦後の建設立法の整備時代だったので、ほとんどすべての局の主要法律に関係することができた。
原局にはいろいろこうるさく迷惑だったかも知れないが、私自身としては、文書課長として法律の立案の過程において、多少は自分の考えを入れることもできたし、少なくとも自分で納得ができるようなものとした。順序は不同だが、道路法、建築基準法、公営住宅法、耐火建築促進法(現在の防災建築街区造成法の前身)、土地収用法、測量法、公共土木施設災害復旧事業費国庫負担法、屋外広告物法、官公庁施設の建築等に関する法律、建設業法など、河川法と都市計画法を除いて、建設省関係のおもな法律は、当時できたものだが、そのすべてに関係した。私が現在関係している住宅金融公庫法も、その一つである。土地区画整理法や都市公園法なども、かなり手がけていたものだ。北海道開発法や国土総合開発法の制定にも関係した。国土総合開発法は、その看板にいつわりありで、実は、国土総合開発計画作成手続法に過ぎないと、ある雑誌にへらず口を叩いたことがあるが(昭和二十五年十月号公務員「国土開発総合法のねらい」)、それも、立案に多少関係したことがあるので、言えたのだろう。現在なら、もっとやかましく言ったのにと思うこともあり、また、あの考え方は現在もっともっと強化すべきであると思うものも、ないわけではない》
さて、ここが巨大な暗流のひとつなのであるが、『現代』(’)81・9のチョウチン特集が、この建設省時代については、一手間省いてくれたので、とりあえず、その一部を引用する。
《この建設省文書課長時代、小林が最も深くつきあった政治家は日中角栄であった。当時、戦前のカタカナで書かれていた法律を平仮名に直す作業が行なわれたが、衆議院国土委員会(当時)の委員をしていた田中と小林は、深夜まで酒を飲み交して議論をすることが多かったという。
この田中と小林の親密な関係は現在でも続いている。小林は、矢野絢也公明党書記長、河野洋平新自由クラブ前代表、田英夫社民連代表など野党の幹部とのパイプも太く、自民党の実力者とは万遍なくつきあっているが、そのなかでも「田中とは特に親しい」(NTV幹部)のである。
事実、小林は田中のことを話すとき「角さん」という言い方をし「あれだけ勉強をする人はいない。本当に何でもよく知っているね……」と田中を評価する》(『現代』’81・9)
とまあ、大体こんなことで、小林は“田中派”だと、日本テレビヘの乗り込み当初からいわれていた。
それだけではなく、ちゃんと実利もいただいているのだ。日本テレビでは、隣接の旧IBM本社敷地を買い取ったのだが、……小林自身がこう語っている。
《ところで、この新社屋建設についての経過は、さきの竣工式の際にも少し申しましたが、このIBMの土地の取得に関しては、いろいろな方の協力があって達成できたことを知っていただきたいと思います。
私共としてはIBMに条件の良い代替地を考えるとともに、そのニューヨーク本社に事情を訴えました。そして代替地探しを必死に行いました。その結果、IBMの分館がいま移っている土地ですが、そこを大林組さんが持っているのが見つかった。大林組さんもそこへ建設計画は持っていましたよ。それで私は考えあぐんで、その当時総理だった田中さんに会って、この話をしたのです。それよりほかに方法がなかった。その結果、田中総理がこの代替地についてあっせんの労をとってくれ、それで話がついたのです》(『社報日本テレビ』’78・10・15)
また、報道関係者の内々の話によると、田中角栄の方が、小林に“キング与三”というヤクザ風の異名を奉って、礼をつくしているともいうのだ。たしかに小林の方が四歳年長でもあるが、そこはいかにも「庶民」角栄らしい如才のなさ。田中は、この手でいつも、誇り高き高級官僚を上手に操ってきたのであろう。「平民」宰相原敬の遺訓をもじれば、「お世辞の好きなものにはお世辞を」という処世術である。
もうひとつ重要な留意点は、この二人に共通する《裏日本》《庶民》出身の意識である。水上勉が好んで描くような、辺地の下層出身の“悲劇の主人公”、それがいわゆる日本人の「庶民感覚」に訴えるものを持っている。その意識が、日中角栄と新潟、小林与三次(または正力家)と富山との間にもあるのだ。“角さん”は、その支持者たる地元民の眼には、「表日本にしかないゼニを裏日本にもまわした良い親分」なのである。
表日本の工業地帯と裏日本の農業地帯との間に、経済的には不等価交換の国内植民地的関係がある。ところが、その不平等を逆手に取った政治支配が、日本資本主義を延命させている。経済の秘密からみると、南部イタリアを基盤とするマフィアの支配と同じことなのだ。
そして、その裏日本支配の「ゼニ」そのものと、さらには、ゼニを取れる議席と派閥を支える「ゼニ」が、どこからか、ひねり出されなければならないのである。
小林与三次は、田中角栄らのブレインとして、重要な位置を占めるようになる。もちろん、その動きは極秘裏である。だが、小林は、建設省の文書課長時代にやり残したという「河川法と都市計画法」についても、のちに自治省行政部長に返り咲き、財務局長から事務次官に登りつめる間、一貫して関与している。というのは、すでに「内政省」案の紹介もしたが、建設省の仕事のすべてが、地方行政と深い関わりを持っている。小林らは、その仕掛けを十二分に知りつくした上で、自治省や地方行政支配を強化していったのだ。
建設省や自治省在任中のことについては、まだまだ本人の証言がある。しかし、そのひとつひとつを取り上げていくと、それだけでも一冊の本になってしまう。いずれ、内務省=自治省=地方行政といった視野で、構想を新たに、小林らの果した反動的な役割を追求したいと願っているところである。ここでは、小林の「自治雑記」には、なんと二二回、二年間にも及ぶ「土地問題について」の長口舌があることを、象徴的事実として指摘しておこう。しかも、それが正に、田中角栄《日本列島改造論》たけなわの時期である。そのころすでに、鈴木・小林・柴田が“自治省三羽ガラス”と呼ばれ始めていた。小林・柴田・後藤田を“御三家“とする向きもあった。どちらにしろ、その官僚OBボスの一人が、日本テレビ放送網社長の肩書きで、自治省関係者の必読文献のような雑誌に、その“政見”を書きまくっていたのである。
同時に小林は、税制調査会委員ともなり、「土地問題と土地税制」と題する五千字の“提言書”を発表した。これには、読売新聞最高顧問の地位をも利用し、読売新聞社内に「研究会」の事務局を置いたりしている。そしてこれまた、しょっちゅう“売り込み企画”が載ることで有名な『週刊ポスト』(’73・2・16)が、なぜか田英夫をインタビュアーにして、小林を呼び、「社会党も共産党も土地対策では庶民無視だ」と題する特集を組んだりしたものである。