電網木村書店 Web無料公開 2017.4.1
第二章《高級官僚の系譜》
無思想の出世主義者が国体護持の“愛国者”と化す過程
9 ヒロヒトイズムの一席はいまなお続く
さて、さきに予告したように、戦い敗れて後の《隠滅作戦》を生き残った証拠物件がある。この一部は、すでに前著にも引用した。もっとも驚くべきは、つぎの部分である。
《これは私が今更申上げる迄もなく、日本の国柄というものの根本から自治というものを考えなければ問題にならないのであります。日本の根本の国柄に付ては今更申上げる必要もないのでありますが、要するに万世一系の天皇の御統治、これが根本でありまして、御統治に対する国民の翼賛、これが他の反面なのであります。つまり御統治と翼賛、之が日本の国を構成して居る根本の大義であります。申上げる迄もなく日本国民というか、自治体も国家の中にある日本国民の団体でありますが、此の日本人の本質、それは団体と個人とを問わず、日本人の本質は何処にあるかといいますと、いう迄もなく個人自体の幸福とか、発展とかいうものは何の意味もない、全国に於ける個人が集まって個人の最大利益を目的として国家を構成するという考え方は、初めから我が国に於ては考えられぬのであります。如何にすれば日本人として翼賛の大義を全う出来るか、それが全体としての日本人の目的であり全貌であります。これはいう迄もないことと思います。日本の国にはつまり個人は居らぬ、簡単にいえば公民しか居らぬ、大御宝があるだけで個人はない、天皇の御統治を仰いで翼賛の大義に、生れ、生き、死ぬる臣民しか居らぬ、外国の所謂個人は日本には存在しないのであります》
いわゆる「用紙統制下」、この八七ページのパンフレットは、つぎのように「広く」頒布されたものらしい。
《本輯は昭和一八年六月本会主催の部落会町内会庁府県指導者講習会に於ける、内務事務官小林与三次氏講義の「地方制度の改正」に関する速記内容を収録し、更に同氏の「町内会部落会等の法制化に就て」の記述を併録したるもの、時局下隣保組織指導上の参考として広く此等の関係者に頒つ次第である》
わたしは、この小林内務事務官の戦時演説を発見した時、まだ「自治雑記」の全部には目を通していなかった。だからそこで、小林自身が、どういう反省をしているのだろうかと、一応は気に掛けていた。ところが小林は、まるで知らん顔ではないにしても、この「翼賛」演説を、ほかの問題と一緒くたにしてしまう。つぎのように何が「冷や汗」の原因なのか、はっきりしなくなる文章なのだ。》
《改正法が施行になってから、各地でブロック会議をやり、府県の関係者や市町村長さんたちに、改正の趣旨を一席やったものだ。自治振興中央会でまとめたさる講習会の速記を、引っぱり出して一読してみたが、いささか冷や汗ものである。自治翼賛論とでもいうか、皇国自治論とでもいうか、そのようなものを、一生懸命になってやっている。四国の松山だったかで、得意になって、固有事務・委任事務論などをやっていたら(後述する)、地方制度の権威者である末松偕一郎さんが聞いておられたことがあとで分り、すっかり恐縮した。まことに、市町村長さんの中には、どんな人物がおられるか分ったものではない。末松さんを前に大いに弁じたてて、あとで恐縮したことが、私には、後々まで、大きな薬になった。それが、私が地方自治について喋べった初めである》
これも小林独得の語り口の特徴で、“円月殺法”というには泥臭いが、現在にいたるも、変っていない。つまり、この場合でいえば、右側からみると「冷や汗」の主たる原因は「権威者」の聴衆の存在にあり、「皇国自治論」については、「一生に懸命なって」やったことを、売りこむ結果になっている。いわゆる国会答弁や「永田町ことば」の伝で、いざという時には、左側を向いても弁解がきき、逃げを打てるようにしているのだ。
いずれにしても、ことは「冷や汗」の三斗や四斗で済む問題ではない。天皇かつぎ、御幣かつぎが、あの当時、生命に関わる最強の脅し文句だったということは、彼等内務官僚が一番良く知っていたことなのだ。そしてもちろん、小林には、天皇制についての反省は、まったくない。小林だけではなく、つい最近の天皇誕生日にも、八〇歳を祝うとかで、マスコミ各社の社長がガンクビそろえて参上している「そしてみんな、自分が呼ばれたことだけに、もっともらしく報道させてもいる。臣何某とまで書きかねまじき有様、ていたらくだ。
それだけではない。小林は、のちに市町社合併の音頭を取った際のことについても、こういう感想を洩らしていたのだ。
《いまそれらのことを思い返しても、いまだに心に残ることは、町村合併によって職を去った全国の町村長全員を東京によび、天皇陛下にもお出でを願って、労を謝したかったことである。町村合併の完遂と新市町村の建設を記念して、全国の市町村の大会を開催し、陛下のお出でを願うことはできたのだが、新市町村長として残って新市町村の建設に苦労している者の栄誉を考えることもさることながら、むしろ合併を機に、市町村の公職から離れたっていった人達を、その夫人ともども東京に招いて、天皇・皇后両陛下の行幸を仰ぎたかった。当時たまに行なわれた自治庁長官の政情奏上の際にも、町村合併の話が出ており、陛下にも、当時町村合併には御関心がおありだったに相違ない。参加者が大変な数にのぼる大行事ではあるが、新宿御苑でも借りて大園遊会でもと思っていたのだけれども、その思いを遂げる機会を失してしまった。行政部長当時は、そんなことは考えてもみなかったが、財務局長から次官時代にかけて、なんとかしてという気持は去らなかった。私には、このことは、町村合併の思い出とともに、いつまでも心の底から消え失せないことであろう。(元自治事務次官)》
ヒロヒ卜と市町村長の関係こそは、まさに「戦犯的」過去を持つものではなかったのか。しかも、「戦時版」地方制度は、少なくとも、しばしの戦争継続を可能にしたのである。それも、国際的に見て、はなはだ異常にである。異常な人命軽視の、狂信的なヒロヒトイズムこそが、日本人の好戦的性格を作っていると、全世界に確信させた程にである。「だから」、原爆投下も止むを得ないのだと、トルーマンの決定が大衆的に支持された程に、なのである。
しかも、神風特攻隊とか人間魚雷回天とか、生身の殺人兵器さえ登場し、ヒロヒトイズムの非人間性を、あますところなく証明していたのだ。
それにしても、「皇国自治論」などという、大英帝国の「自治」論者さえあきれかえりそうなシロモノを、帝大法科卒の三十面下げた良い大人が、良くもぶちまわれたものだ。その徹底的な自己批判なしに、三度と地方自治を云々すべきではない。つまり、自らも形容した如く、「戦犯」として獄につながれ、改俊の情が認められるまでは、公職追放のままでなければならなかったはずなのだ。ところが小林は、さらに驚くべきことに、のちの戦犯パージの骨抜きにさえ、一役買っていたのである。