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『亜空間通信』929号(2005/01/03)
【ファッルージャでイスラエル方式家屋破壊住民追い出し情報がトルコ発の恐怖に拙訳該当箇所】
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転送、転載、引用、訳出、大歓迎!
正月の三が日の3日目(2005/01/03)、季刊『真相の深層』寄稿者からの選りすぐり情報提供メールの一つが、トルコ・イスタンブール発(Foreign News Services Istanbul)であった。
トルコはクルド人の問題を抱えており、イラクにもクルド地帯があるから、クルド人とユダヤ人の関係を非常に意識している。クルド人の中にはユダヤ人(ユダヤ教徒)が相当数いるのである。
記事の見出しは、US Applying 'Israeli Tactics' in Felluce (アメリカはファルージャでイスラエル方式の作戦を採用中)である。
家屋破壊、住民追い出し、土地の強奪である。この方式はパレスチナで実行されており、以下の拙訳、『偽イスラエル政治神話』に詳しいので、以下、その該当部分を抜粋する。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-23.html
緊急Web無料公開『偽イスラエル政治神話』(その23)
2章:20世紀の諸神話(その11)
4節:"民なき土地に土地なき民を"の神話(その1)
《パレスチナ民族などというものは存在しない。……われわれが彼らを追い出して土地を奪ったということではない。彼らは存在しないのだ》(ゴルダ・メイヤ夫人の宣言。『サンデイ・タイムズ』69・6・15)
シオニストのイデオロギーは、非常に簡単な公理の上に成り立っている。それは、『創世記』(15章18~21節)に、つぎのように書かれている。《主はアブラハムと契約を結んで言われた。〈わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで〉》
ここから出発して、神との契約の内容が何だったか、約束が誰に対してなされたのか、神の選択は無条件だったのか、などということは問題にしようともせず、シオニスト指導者たちは、不可知論者であろうと無神論者であろうと異口同音に、パレスチナは神からわれわれに与えられたのだと宣言するのである。
[中略]
ベギンは繰り返して語った。
《この土地は、われわれに約束されたものであり、われわれは、それを所有する権利を有する》(オスロにおけるベギンの宣言。『ダーヴァール』78・12・12)。
《聖書を所有し、聖書の民と同様に考えるものは誰でも、聖書に記された土地すべての所有を要求すべきである。審判者の土地と、族長の土地と、エルサレムと、ヘブロンと、エリコと、その他の土地である》(モシェ・ダヤン将軍、『エルサレム・ポスト』67・8・10)
[中略]
一九四八年八月一日以前に自分の家から逃げ出したパレスチナ人はすべて、“不在”と見なされた。
[中略]
イスラエル国家は、こうして、旧来の植民地主義者たちの跡継ぎとなり、同じ方式を踏襲した。たとえば、農業に対する公共投資の場合には、灌漑施設の普及の仕方が差別的で、ユダヤ人の土地占有者が組織的に優遇された。一九四八年から一九六九年の間に灌漑された土地の面積は、ユダヤ人地区の場合、二万から一六万四千ヘクタールへと増加したが、アラブ人地区の場合には、八百から四千百ヘクタールに増加しただけであった。このように、植民地主義の仕組みは存続し、むしろ悪化している。ローゼンフェルト博士は、一九七〇年にエルサレムのヘブライ大学から出した著書、『アラブ人の移民労働者』の中で、アラブ人の農業について、イギリスの委任統治時代の方が現在よりも繁栄していたという評価を下してる。
[中略]
政治的シオニズムは、唯一の解決法を植民地主義的計画に見出した。パレスチナ人を追い出し、ユダヤ人の移民を促進することによって、植民者が増える植民地を実現するという方法である。
パレスチナ人を追い出して、彼らの土地を奪うのは、熟考の上での組織的かつ系統的な事業なのである。
バルフォア意志表示の時代、一九一七年には、シオニストが所有していた土地は、わずかの二・五%だった。パレスチナ分割決議の時期には六・五%だった。一九八二年には、九三%が彼らの所有に帰していた。
生え抜きの住民から土地を奪うために使用された方式は、数ある植民地主義的方式の中でも、最も執念深いものであり、シオニズムの性格を、同様に最も強く特徴づける人種主義の彩り濃いものであった。
最初の段階には、植民地主義の古典的な特徴としての、現地の労働力からの搾取が見られる。これは、エドゥワァール・ドゥ・ロートシルド[フランスのロスチャイルド家]男爵の手法であった。アルジェリアで、彼は、ブドウ畑を経営し、フェラーの労働力を安く買い叩いて、搾取の限りを尽くした。彼は、遠慮なしにパレスチナでも畑仕事を広げ、ブドウ畑でアルジェリア人とは別のアラブ人から搾取した。
一九〇五年頃から歴史的な転換期に入った。一九〇五年の革命が押し潰されて以後、ロシアからの新しい移民の波が加わってきた。彼らは、その場に踏み止まって、他の革命的なロシア人とともに闘う代わりに、敗北した革命からの逃亡者となったのだが、パレスチナに奇妙な“シオニストの社会主義”を持ち込んだ。彼らは、パレスチナ人のフェラーを排除しながら、ユダヤ人の労働者と農民の階級に支えられる経済機構を目的とする生産共同組合と農民のキブーツ[訳注1]を創設した。この結果、イギリスまたはフランス型の古典的な植民地主義から、植民者が増加する植民地への転換が進んだ。政治的シオニズムの論理の下で、溢れるように流入する移民“のための”植民政策が行われ、クライン教授の表現を借りれば誰の意にも“反する”ことなく、土地と仕事が用意された。結局は、パレスチナの人々を他の人々によって置き換えることになるのだから、必然的に、パレスチナ人たちは土地を奪われることになった。
訳注1:「キブーツ」の形成に関しては、移住者の主体的条件以前に、つぎに出てくる“ユダヤ国民基金”の土地取得および貸与方針が決定的である。訳者は旧著『湾岸報道に偽りあり』二五二頁以下で、巻末に紹介する『アラブ近現代史』から、「入植したユダヤ教徒の一部は定着できず海外に再流出」、「入植者の不在地主化」、「一九〇九年、シオニスト機構の指導によりキブーツ方式が導入された」などの記述を引用した上で、つまりは「アラブ人に小作をさせる不心得者が出た」事実を重視し、「軍隊の駐屯地型といわれたキブーツ方式で、しばりつける必要があったほど」だと記した。
本書でも巻末の「訳者解説」に略記したが、シオニスト運動助走期の一八六七年、すでにパレスチナ現地の天然資源を調査し、「数百万人の人口を移住させる可能性」、ただし、「北部」(不法占領地のゴラン高原とレバノン南部)の「豊富な水資源」の「導水」の必要性を報告している。「数百万人」とは、周囲のアラブ諸国と対抗できる国民皆兵国家の存立条件であって、その後に「四百万人から五百万人」と具体化し、現在の人口が約四百万人となっている。この歴史的な事実経過から見ると、一八九七年に結成された世界シオニスト機構(発足当時の名称は「会議」)は、ユダヤ人社会全体からの批判も抱えながら、移住計画の極端な遅延にいらだち、強制力のある手段を工夫したという判定が成り立つ。
[中略]
大作戦の開始を告げた事業は、一九〇一年の“ユダヤ国民基金”の創設である。この基金は、他の植民地主義との比較においても、基本的な性格を発揮した。基金が取得した土地は、転売ができず、非ユダヤ人には貸すこともできない。
[中略]
イスラエルの指導者たちの農業政策は、アラブ人の田園生活からの、このような組織的系統的略奪の上にのみ成り立ち得ているのである。
[中略]
4節:"民なき土地に土地なき民を"の神話(その2)
[イギリス委任統治時代の“緊急事態法”を活用]
一九四三年の公共的利益のための土地収用に関する布告は、イギリスの委任統治時代からの遺産である。この布告は、本来の主旨から外れて、差別的に使われている。たとえば一九六二年には、デイル・エル=アラド、ナベル、ベネで、五百ヘクタールの土地が収用されたのだが、“公共的利益”の実態は、ユダヤ人のみに取って置きの町、カルメルの創設であった。
その他の方式には、イギリス当局が一九四五年にユダヤ人とアラブ人の双方を相手にして布告した“緊急事態法”の活用がある。この法令一二四号の場合には、軍政機関に対して、“安全確保”を口実として、必要に応じ、すべての市民の権利を停止し、移動を禁止する権限を与えるものである。軍は、“国家の安全確保の理由により”、ある地区の立ち入り禁止を宣言するだけで良い。それだけで、軍政機関の許可なしには、アラブ人は自分の土地に立ち入りすることもできなくなる。もしも、この許可が拒絶されたならば、その土地は以後、“耕していない”と認定される。すると今度は、農業大臣が、この土地を、《耕していない土地の耕作を保障するために接収する》ことが可能になるのである。
[中略]
シモン・ぺレス[一九九六年に暗殺されたラビンの後継首相。労働党]も、日刊紙『ダーヴァール』の一九七二年一月二五日号で、つぎのように書いていた。
《法令一二四号の活用は、軍政機関設置の基礎であり、ユダヤ人の入植とユダヤ人の移民のための戦いの直接的な継続である》
[ユダヤ人を優遇するがアラブ人に不利ではない!?]
荒れ地の耕作に関する一九四八年の布告は、一九四九年に改正されているが、同じ精神の上に成り立っており、むしろさらに直接的な方式となっている。“公共的利益”だとか、“軍事的な安全確保”とかいったような口実を構える必要なしに、農業大臣は、すべての放棄された土地を徴発することができる。だからこそ、この布告の活用によって、テロ攻撃を受けたアラブ人が集団移住するような場合、たとえば、一九四八年のデイル・ヤシン、一九五六年一〇月二九日のカフル・カセム、またはモシェ・ダヤン[元国防大臣]が創設し、その後、長期にわたってアリエル・シャロン[同じく元国防大臣]の指揮下にあった“一〇一部隊”による“ポグロム”などの場合には、常に広大な土地が“解放”され、所有者または労働者のアラブ人がいなくなり、ユダヤ人の占有者に与えられたのである。
フェラーから占有権を剥奪する仕掛けは、つぎのような法令の組み合わせによって完成している。
一九四八年六月三〇日の布告。一九四八年一一月一五日の所有者“不在”の不動産に関する緊急裁決命令。一九五〇年三月一四日の所有者が“不在”の土地に関する法律。一九五三年三月一三日の土地取得に関する法律。その他、ありとあらゆる法的根拠が、アラブ人を彼らの土地から強制的に追い立て、その土地を強奪する行為を合法化し、ユダヤ人の入植地に変えるために動員されている。その有様は、ナタン・ヴァインストックの著書、『イスラエルに背くシオニズム』[前出]の中に、詳しく描き出されている。
パレスチナ人の農業人口の存在については、その記憶さえも、抹殺の対象となった。“無人の土地”の神話を信じ込ませるために、アラブ人の町は、家も、塀も、墓地や墓石までも含めて、ことごとく破壊された。イスラエル・シャハク教授は、一九七五年に、地区ごとの綿密なリストを作成して、一九四八年に存在した四七五のアラブ人の町の内、三八五の町が、ブルドーザーで破壊されたことを明らかにした。
《パレスチナは“無人の土地”だったのだと、イスラエル人に信じ込ませるために、何百もの町が、家も、塀も、墓地や墓石までも含めて、ブルドーザーによって、ことごとく破壊された》(前出、イスラエル・シャハク『イスラエル国家の人種主義』)
イスラエル人の入植地は、引き続き拡大された。その他にも、一九七九年には、ヨルダン川の西岸の奪回が行われたが、植民地主義者の最も古典的な伝統に従って、入植者は武装していた。
全体的な結果は、つぎのようなものである。一五〇万人のパレスチナを追い出して、“ユダヤ国民基金”の表現に従えば、“ユダヤの土地”が、一九四七年の六・五%から、現在では、パレスチナ全土の九三%に達したと発表されている。その内、国家所有地が七五%、ユダヤ国民基金の所有地が一四%である。
この作戦の成果に関しては、注目すべきことに、(そして意味深いことに)、いち早く、人種差別の象徴、アパルトヘイトで有名なエキスパート、南アフリカ共和国の「アフリカーナ」[オランダ系住民]の日刊紙、『ディー・トランスヴァレー』に要約紹介された。その解説には、こうある。
《この相違は、どこから生まれるのだろうか? イスラエル人が、非ユダヤ人の真っ直中で踏み止どまるために努力している方法と、アフリカーナが同じく踏み止どまるために努力している方法とでは、どこが違うのだろうか?》(『シオニズム・南アフリカ・アパルトヘイト』による『南アフリカ/友人のいない国』からの再引用)
同様のシステムであるアパルトヘイトは、個人の地位と同時に、土地の専有に関しても差別的性格をあらわにしている。イスラエル人がパレスチナ人に許可しようとしている自治なるものは、南アフリカの黒人向けの“バントゥースタン”に匹敵する。
[中略]
一九四八年の第一次中東戦争以前には、その後にイスラエル国家の領土となる部分に、約六五万人のアラブ人が住んでいた。一九四九年には、一六万人しか残っていなかった。出産率が高かったので、彼らの子孫は、一九七〇年の終りには四五万人になっていた。イスラエル人権同盟が公表した報告によると、一九六七年六月一一日から一九六九年一一月一五日までの間に、イスラエルとヨルダン川西岸で、二万軒以上のアラブ人の住宅がダイナマイトで破壊された。
[中略]
[パレスチナ人“ポグロム”の共犯者が入植地拡大]
一九九三年三月二〇日付けで、アメリカの議会のある委員会に提出された国務省作成の調査報告には、こうある。
《二〇万人以上のイスラエル人が、現在、ゴラン高原と東エルサレムを含む占領地区に定住しており、占領地区全体の人口の“およそ”一三%に達している》
その内の九万人ほどは、ヨルダン川西岸の一五〇の入植地に住んでおり、《そこではイスラエル当局が土地の半分近くを自由に処分している》。
《東エルサレムと同市に接するアラブ人地区の郊外にも》、と国務省作成の調査報告では、続けて記している。《一二万人近くのイスラエル人がほぼ一二の入植地に定住している。ガザ地区では、すでに人口過密の土地の百分の三〇をヘブライ国家が没収し、一五の入植地に三千人のイスラエル人が住んでいる。ゴラン高原では、三〇箇所に一万二千人が分散している》(『ル・モンド』93・4・18)
イスラエルの世論の牽引者としては最強力の日刊紙、『イディオット・アハロノート』には、つぎのような論調が見られた。
《ここ七〇年来、このように領土建設が加速された時期は、いまだかつてなかった。アリエル・シャロン(住宅大臣兼建設大臣)は、わがイディオットの論調に従って、熱狂的に、新しい入植地を建設し、既存の入植地を発展させ、さらに新しい地区建設に向けての準備と道路開設のために、目下奮闘している》(『ル・モンド』91・4・18からの再引用)
アリエル・シャロンに関しては、以下の事実を思い起こしてほしい。彼は、レバノン侵略の際の総指揮官だった。彼は、サブラとシャティラのパレスチナ人のキャンプに対する“ポグロム”を行った国粋党の民兵に、武器を供給した。シャロンは、この不当な行為に目をつむったが、事実が発覚した以後には、いかなイスラエルでさえも設置せざるを得なくなった虐殺事件調査の委員会に、共犯者として喚問された。
これらの占領地区の入植地が維持され、それを保護するためのイスラエル軍が出兵し、入植者たちが、かつてのアメリカ西部フロンティアの冒険者たちのように武装している現状の下では、パレスチナ人が実際の運営に当たる“自治”なるものも、すべて幻想でしかない。事実上の占領が続く限り、本物の平和の実現は不可能である。
入植地への移住の努力の中心には、エルサレム全体の併合を不退転の決意で確保しようという、すでに自ら告白した誓いの目標がすわっている。しかし、この併合宣言に対しては、連合国加盟国(その中にはアメリカも加わっているのだ!)が、異口同音に非難の声を挙げているのである。
占領地区の入植地への移住は、明瞭に国際法、とりわけ、一九四九年八月一二日に採択されたジュネーヴ憲章を踏みにじる行為である。ジュネーヴ憲章は、その四九条で、つぎのように規定しているのである。
《占領国は、その占領地区に、自国の民間人口の一部の移住を行ってはならない》
ヒトラーでさえも、この国際法に背きはしなかった。彼は、決して、フランスの農民を追い出した土地に、ドイツの民間人の“植民者”を移住させたりはしなかった。
[後略]
http://www.zaman.com/?bl=international&alt=&trh=20041231&hn=15180
INTERNATIONAL 12.31.2004 FridayUS Applying 'Israeli Tactics' in Felluce
It has recently been discovered that US and Iraqi forces have been using a method of demolishing houses in Felluce (Fallujah) that Israelis have also used on Palestinian homes.
An Iraqi soldier told an Agency France Press (AFP) reporter that they set the houses on fire where they encounter pro-insurgence publications or materials. Ismail Ibrahim Shaalan, a 50 year old resident of Fallujah, explained that he saw some soldiers set houses on fire on December 14th even though there were no clashes. A US soldier also admitted that, in some situations, they use "alternative precautions" like "setting fires and bombing" for houses that are presumed to shelter insurgents. US Sergeant John Cross also said that if they are unable to enter a place, they apply alternative methods.
About 200,000 people fled the city at the beginning of the operation on November 8th. Fallujah residents who have been settled in refugee camps in nearby regions until now face difficulties upon their return. Residents wishing to return to the city ruined by the US offensive must wait for six hours to pass through the security checkpoint at the city's entrance. Those who get through are given an orange card with a list of 13 rules written on it including bans on secret meetings and graffiti. One Fallujah resident, Halid Ibrahim, 42, describes the situation as "humiliating" and says they are being treated like Palestinian refugees. But that is not the end to the suffering of those who have returned. Buildings that survived the US bombardments have been ruined by US troops looking for insurgents. The AFP reporter transmits the recent developments in this city that still lacks water and heating and highlights the anger felt by the people in Fallujah. The Halil family is one family that was forced to move out of their home by US soldiers and then found it in ruins when they returned to their home ten days later. US Major Naomi Hawkins says the Halil family can apply to the governor's office or Bagdat (Baghdad) and receive $100 to repair their home. The US soldiers are still only allowing people to return to three regions of the city, but are considering plans to widen the area. Major Hawkins notes that despite ongoing clashes in some parts of the city, they are allowing people to return at the directive given by Iraqi Interim Prime Minister Iyad Allawi. There are big X letters painted in red on the walls of the houses that have been searched by US troops. Others are either partially burned out or completely ruined. Alaa Abdullah, another resident of the city, shows pieces of clothing and shoes that he found among the ruins of his home and expresses his tearful anger saying: "Is this the olive branch that Allawi offers us?" Many of those who returned to Fallujah are picking up the pieces of what is left of their ruined homes and the corpses of their relatives.
12.31.2004
Foreign News Services Istanbul
以上。