台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会
台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会 1999.10.16
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阿媽(おばあちゃん)たちの声


お国のためにと言われて


高宝珠さん(原告)

 1938年,17歳のときに,家に役所の人が来て,「広東へ行って,日本軍のために働くように」と言いました。

 広東は戦場でした。こんなところに来て,なにをするのだろう。お腹はぺこぺこです。覆いをかけたトラックで連れていかれたところは金山寺という寺でした。見ると「慰安所」という看板がかかっています。

 思ってもみなかったことでした。それでも日本教育を受けていたので,政府の言うことを聞かなければならないとがまんしました。お国のためだといわれれば,従うしかありませんでした。

 広東に6ヵ月ほどいてから,香港へ連れていかれ,船に乗せられました。船は3隻でしたが,そのうちの一隻が爆撃を受けて沈没しました。ものすごい音響で,それ以来,片方の耳が聞こえなくなりました。

 シンガポールを経由してビルマへ行きました。兵隊に連れられて,軍のトラックで山奥のジャングルに行くと,簡単な小屋に入れられました。そこの部隊は,「タツ部隊」といっていました。そこで3年ぐらいいました。そのあと,都会に連れていかれました。

 いつ,日本が戦争に敗けたのかはわかりませんが,やがて,戦争が終わって平和になったことを聞きました。隊長が,帰国のための証明書を出してくれましたが,お金もなく,どうやって帰ったらいいのかわかりません。途方に暮れていると,親切な兵隊に,台湾に帰りたいのかと聞かれました。その兵隊がベトナムまで連れていってくれて,船に乗ろうとしました。そのときフランス軍に捕まって,牢に入れられました。連れてきてくれた兵隊が,この人は日本人ではなく,中国人だと言ってくれたので,牢から出してもらい,フランスの証明書をもらいました。

 お金が全然なかったので,しばらくベトナムにとどまって,他人の家で洗濯などをしてお金をつくり,さあ,船に乗って帰ろうとしたとき,金をとられ,身ぐるみはがれ,残ったのは下着だけになってしまいました。

 台湾に帰って,自分の家に帰る方法がわからないで困っていると,たまたま親切な人が電報を打ってくれて,姉さんが迎えにきました。戦地から家に送ったお金も,全然とどいていなかったことがわかりました。

 台湾に帰っても,「慰安婦」をしていたことが恥ずかしくて,外へも出られません。他人から家のなかでできる仕事をたのまれて,どうにか50年間生きてきました。

 17歳で台湾を離れるとき,養女をもらって姉さんに預けていきました。その娘も私と会うのを嫌がり,親戚も会いたがらず,会ってくれるのは姉さん一人だけです。慰めてくれるのはお酒だけですが,それでも50年間が過ぎました。

 婦女救援基金会の方から,こういう運動のあることを教えられて,やっと,外へ出られるようになりました。一年前から台湾の政府が,月に1万5千元の生活保護をくれるようになり,いまはそれで生活しています。

 でも,わたしは日本人として生まれ,日本人の言うことを親の言うことのように守りました。広東に行けと言われれば行きました。やりなさいということもやりました。日本人としてやったということを理解して欲しいです。

 日本の男子は日本のために死んでいった。わたしも,日本のために遠いところまで行った。日本は平和な国になった。わたしたちの辛い苦しい過去を,せめてやさしい気持ちで見てほしい。台湾は,いまは日本のものではないけれど,もう少し関心をもってほしいと思います。

 広東では兵隊たちからチャンコロチャンコロと呼ばれました。それでもお国のためにと泣きながら働き,帰ってきてからも苦しい生活をしてきたのに,日本政府はなにもしてくれません。今回日本に来たのは,日本政府に良心があるのか確かめたかったからです。

 いっしょに行った18人のなかで,台湾に帰れたものは4人,いまは2人しか残っていません。残っているものも年をとりました。日本政府は人間の心をもって,わたしたちのことを考えてほしい。


名前の代わりに番号で呼ばれて


陳桃さん(原告)

 陳さんは,語りはじめるとすぐに言葉は嗚咽に変わり,語りつづけることができなくなった。以下は,別の場所での話などをもとに,まとめたものである。

 1922年生まれ。19歳のときに,アンダバンで看護婦の助手の仕事をするようにといわれ,二年間の約束で連れていかれた。1941年6月4日,高雄から貨物船で出航した。18人の娘がいっしょだった。サイゴン経由でアンダバンまで行ってはじめて,慰安所で働かされることを知った。娘たちは約束が違うと騒いだが,どうにもならなかった。アンダバンは離島で,逃げようにも逃げられなかった。

 慰安所は軍が建てた木造の小屋で,一部屋一部屋が仕切られてあった。部屋には木のベッドと洗面器が一つあるだけだった。各部屋の戸の上には1号から18号までの番号がつけられ,わたしは3号だった。みんな名前を呼ばれずに,番号で呼ばれた。部隊は海軍の石川部隊だった。

 1年2ヵ月たって,わたしは4人の娘といっしょにシンガポールのジョホールの慰安所 へ連れていかれた。この慰安所には,朝鮮人,日本人,広東人の2,30人の慰安婦がいた。いちばん多かったのは広東人の慰安婦だった。慰安所に来るのは,日本兵ばかりだった。日本の軍医からコンドームと消毒薬を支給された。一日に少なくても10数人,多い日には20人以上の相手をしなければならなかった。日本兵のなかにはチップをくれる人もいて,1800円あまりの軍事郵便貯金ができた。

 あるとき身体が耐えられなくなって,山のなかに隠れたら,管理人が探しにきて連れもどされた。野戦病院の婦長さんに助けられ,赤十字の船に乗せてもらい,台湾にもどってきた。高尾の海軍病院で一週間の治療を受けたあと,台北の弟のところへ行った。父親はすでに亡くなっていた。

 台湾へ帰って2ヵ月もたたないうちに日本の敗戦を迎えた。故郷の人たちは,わたしに結婚相手を世話するといったが,わたしは断った。台北へ出て仕事をさがしたが,ひと月たっても見つからず,台東の友人にさそわれて,台東で裁縫を習い,他人の服をつくって暮らしていた。

 あるとき若いときに知り合った男が台東までたずねてきて,その男と結婚し,塩水へ引っ越した。結婚しても子供ができないので,しゅうとめはわたしを離婚させようとした。夫はわたしの過去を知らず,子供のできない原因もわからなかった。夫は10数年前に亡くなった。

 その後は自分ひとりで,台湾中あっちこっちで飯炊きや洗濯などの仕事をしながら生きてきた。家もなく,いまは市場の倉庫のなかで暮らしている。


妊娠して


盧満妹さん(原告)

 台湾の新竹からきました。日本の名前はミツコです。小学校は3年までしかいっていません。

 17歳のときでした。日本人の警察の人がきて,お前の家は貧乏だから,一年だけ看護婦になって金をもうけたらいいといって,高雄から軍艦に乗せられました。そして着いたところが海南島でした。そこで慰安所に入れられました。帰りたくても帰ることはできません。軍の証明書がなければ帰れないのです。

 1日に20人の相手をさせられました。そうしないと管理人に怒られるのです。海南島には親戚もいなければ知りあいもいない。地理もわからない。がまんして慰安所にいるしかありませんでした。

 妊娠して,お腹が大きくなっても,仕事をさせられました。妊娠8ヵ月になって,やっと台湾に帰されました。結局,海南島には1年半いました。

 生まれた赤ん坊は,悪性マラリアで38日目に死んでしまいました。

 台湾に帰ってから,「慰安婦」をしていたとうわさされ,結婚してもうまくいかず,一人で74歳の今日まで生きてきました。台湾の政府から月に1万5千元の生活保護費をもらっていますが,家賃で7千元が出てしまい,生活は楽ではありません。

 日本の友人の皆さんが,日本の政府に働きかけてくださるよう,お願いします。

 ありがとうございました。


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