園児・榎本侑人(えのもと・ゆうと)くん(4歳5ヶ月)熱中症死亡事件
陳 述 書
以下は、2007年5月23日(水)さいたま地裁には、侑人くんのお父さんとお母さんが陳述した内容です。ご了解を得て、掲載させていただいています。
平成19年(ワ)537号 意見陳述書 |
平成19年 5月23日 榎本 高志 |
私たちの息子侑人は、ずさんな上尾の保育の犠牲になって死にました。 最低限子どもの命は保障されているところだと思っていましたが、それは大間違いでした。私たちが侑人を預けた上尾保育所は、子どもに対して何の愛情のかけらもなく、命を預かっているという意識や緊張感もない人たちが、ただ漫然とルーチンワークでやっているだけの保育所でした。 これまで「子育てするなら上尾」とか、「上尾の保育のレベルが高い」などと言われてきたようですが、何がいったい「子育てするなら上尾」なのか、これはとんでもない間違いでした。 また、上尾保育所は自由保育を採り入れていて、のびのびと子どもたちを育てているといわれてきたようですが、これもとんでもない。自分たちで勝手に勘違いして思い込んでいるだけで、あとで専門家が調べたら、お粗末な放ったらかし保育だったということがわかりました。 私たちの息子は、保育士に1時間以上も動静を確認されていませんでした。それも給食の時間になってお皿が1人分余って初めていないことに気づいたのであって、給食がなければ永遠に気づかれずにいたに違いありません。きっと日頃から子どもに対してその程度にしか意識が向いていなかったのだと思います。 もっと許せないのは、侑人が他の子たちとうまくいっていなくて、私たちは心配だったので担任保育士たちに、注意してみてほしいとずっと訴えてきたのに、保育士たちは何もしてくれなかったばかりか、目配りすらしてくれなかった中で、侑人は死んだ、ということです。 本棚の戸棚の中に入って子どもが遊んでいたにも拘わらず、放ったらかしにされていました。所長と8人の保育士たちは子どもが遊ぶのを見ていました。 子どもたちが本棚に入って遊ぶことは日常的に常態化していたのです。しかし、本棚はそのままの状態で放置され、保育士同士で注意を喚起することはありませんでした。 上尾保育所では職員会議は月にたった2時間、行事の打ち合わせくらいで、こういう一番肝心なことを議論していませんでした。自由保育をやっていると言うならば、当然、日頃から子どもがどんな遊びをしているか保育士全員が把握しているべきですし、遊びの中の危険について徹底的に議論すべきだと思います。 それがされていれば、本棚は危険ではなかったでしょうし、侑人がいないと気づいた時点ですぐに探せて、少なくとも死ぬことはなかったはずです。 事故後の上尾市の対応は不誠実を通り越して私たちの神経を逆撫でしてきました。 私たちは息子がなぜ本棚に入り、出てこられなかったのかについて真相究明を求めてきました。それがわからなければ、とても息子の死を理解できないからです。 ところが、上尾市は初動調査をまともにやらなかったばかりか、現場の職員の動きも阻み、とうとう真相を闇に封じ込めてしまいました。その上、事件についてよく知った保育士や職員のほとんどを人事異動で現場から引き離してしまいました。 また、いったい誰にどういう責任があってこの事故が起こったのか、説明するよう求めてきましたが、現場に責任を押し付けるばかりで、市は市長以下「組織上の指揮監督責任」という抽象的な責任を認めるだけで、自分たちの当事者としての自覚は微塵も見られませんでした。 そしてこともあろうに、市長に至っては保育所の民営化という自らの施策に、息子の死を利用しました。 私たちはこうしたことがとても許せません。表面的には、市は反省して事故防止に努めてよくやっているように見えますが、とんでもないことです。 息子の侑人は、こういう人たちの犠牲になりました。 本当に誰の何が悪くて息子が死んだのか、上尾市の責任をはっきりさせ、自覚と反省を求めるためには、私たちには裁判をするしかないと思い、提訴いたしました。 以上 |
榎本 八千代 |
私の時間は2005年の夏の日から止まっています。今年が何年で何日なのか、毎日テレビや新聞を見ていても思い出すのにひと呼吸かかります。あれから2年近くがたっているのが自分でもよくわかりません。育児と家事と仕事で毎日が充実していた時間から今はまったく空っぽの時間の海の中でおぼれています。毎日何をしていいのかわかりません。 息子の死は私自身の存在の死でもあります。私はあの火葬場の「榎本侑人」の名札が書いてある炉の入り口が侑人の棺をゆっくりと吸い込み、そしてゆっくりと閉まった時に私の心も死んでしまったのだと思います。 侑人は結婚8年目でやっと授かった一人しかいんいかけがえのない息子でした。30歳から不妊治療に3年程費やし、もうあきらめかけていた時でした。私は34歳になって、はじめて「自分の命より大切なもの」がある幸せを知りました。あまりにも大切な存在でした。だからこそ、この子が独立するまでちゃんと親としてがんばろう、この子のために一生懸命に生きようとやっと自分の人生の意味がやっとわかったのです。 それが、たった4年とちょっとで、私の親としての人生を終わりにし、いや、私よりもこれからあらゆる可能性をもっていた侑人の人生があっという間に終わりになりました。間昼間の市内で一番大きくて歴史のある公立のりっぱな保育所という安全な場所で。 私はいつも侑人のことを考えていました。侑人が怪我をしないように、事故にあわないように、自分といるときはずっとそればっかり考えていました。それくらい大切だったからです。家の中のあらゆる場所を点検し、事故が起こらないように手を尽くし、道路では絶対に手を離さず、外にいても必ず、ずっと意識を向けていて、目を離すことがありませんでした。 それなのにどうして、侑人は死んでしまったのでしょうか。目の前で交通事故にあったのではなく、病気でもなく、誘拐でも、通り魔でもなく、ただ、保育所に預けただけで、ママから唯一離れている時間に、まったく所在確認されずに、狭い本棚の中で人生の終わりを迎えなければならないのでしょうか。 侑人はいつも私と一緒にいました。人生ではじめてママと離れて一人で眠ったのが、ひとりで外泊した経験が警察の死体安置所になりました。どうしてなのでしょうか。 熱中症はすぐ死に至る病気ではありません。すぐに発見していれば、絶対に死なない病気です。どうして、すぐ助けてくれなかったのでしょうか。あれだけ大人がいたのに。 そして、どうしてこんな事になったか?その本棚にはいったのか?誰も話してくれず、誰もみていないから仕方ないといわれ、まるで運が悪かったから仕方ないからあきらめろといわれるかのように、物事が終わりに向かっているのはどうしてなのでしょうか。 前々から、「あの子の心が傷つかないように。ちゃんとみていてください。意識を向けてあげてください。助けてあげてください」と保育所の連絡ノートに何回も繰り返し書いて、また直接口頭でも担任保育士に何度も頼んでいたのに、どうして、1時間半も目を離して、いたのでしょうか。私にはわかりません。どうしてもわかりません。 裁判を起こしたのは、どうしてあの子が死ななければならないのか誰にきいても、誰も教えてくれないからです。私は知りたいのです。決して今のままの状態で終わりたくなかったからです。 事故にかかわった人々はそれぞれ、日常生活を取り戻していると思います。しかし、私はこれから死ぬまでずっと、この苦しみをもちながら日々をすごすのです。 決してこれは終わることのない苦しみです。 毎夜、夢をみます。事故の夢ではありません。普通の平凡な毎日を息子と過ごしている夢です。でも、目がさめると、その普通の毎日の方が夢だったのに気がつき、朝が来るたびにその事実に愕然とします。時々、私は目がさめている時の方が実は夢なんじゃないかなと思ってしまったりします。そう思わないと耐えられないからかもしれません。 この裁判で、ただの事故ではなく、この事故が起きてしまった本当の理由がわかることを望みます。 以上 |
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