小森香澄さんいじめ自殺事件 ( 事例No.980725 )


 以下は、2006年7月7日の東京高裁での控訴審第一回目に原告弁護団が法廷で読み上げた意見陳述内容です。許可をいただいて、掲載させていただいています。

平成18年(ネ)第2324号 損害賠償請求控訴事件

控訴人(一審原告)小 森 新一郎 外1名

被控訴人(一審被告)神 奈 川 県 

 

意 見 陳 述 要 旨

 

2006年7月7日

東京高等裁判所 21民事部 合議係 御中

 

             一審原告ら訴訟代理人弁護士  栗 山 博 史

 

1 原判決の問題性は、控訴理由書に記載したとおりですが、本日は、控訴審の始まりにあたって、敷衍して申し上げたいと思います。

 

2 まず、香澄の自殺の原因は何か、という問題です。

 原判決は、香澄の自殺が、さまざまな要因によってもたらされたものだとして、香澄の自殺の原因が明確に「いじめ」であると認定しませんでした。

 しかし、この認定は、本件の本質を理解していないものです。

 原判決が指摘するさまざまな「要因」の中には、たとえば、「B、Cとの実力差」も入っています。しかし、実力差そのものが自殺の要因になるものでしょうか。

 どんな部活でも経験者と初心者はおり、生徒の実力差はあります。初心者は、練習し上達する喜び・充実感を感じながら部活に参加します。同じ部活動の仲間との人間関係が良好であれば、初心者にとって「実力差」は決して苦痛ではありません。

 つまり、香澄が苦しんでいたのは、B、Cとの実力差そのものではなく、その実力差を「つらい」「苦しい」と感じざるを得ないような環境なのです。それがまさしく、原判決も認めているような、B・Cの「上位の立場から、きついものの言い方をしてきた」「攻撃的な言動をしてきた」ということではないでしょうか。

 原判決は、B、Cとの実力差そのものを自殺の「要因」の1つとして挙げていますが、以上のように考えると、この実力差そのものを「要因」として捉えること自体が誤りだ、ということになると思います。

 また、「要因」の中には、香澄が自宅でカッターナイフを美登里の方に向けた、という事実も含まれています。しかし、これも果たして「要因」なのでしょうか。

 香澄が日々苦しみ続けても、学校側は何もしてくれませんでした。香澄が学校に通えない日々は続きました。したがって、苦しんでいる香澄に向き合い、寄り添ってきたのは、他ならぬ、一緒に生活している家族でした。しかし、家族といっても、全く別の人格をもった人間どおしですから、互いに衝突することもありました。われわれ誰しもが経験することです。そのうえ、「いじめ」で学校に行けない、という異常事態なわけですから、常に「仲良し」、「円満」などという親子関係はあり得ないのではないでしょうか。

 香澄と美登里の関係は良好でした。だからこそ、カッターナイフのエピソードの後も、香澄は、美登里に対して、自らの心のうちを素直に告白していたのです。

 決して、このようなエピソードを自殺の「要因」などと位置づけないでほしいのです。

 ご承知のとおり、交通事故と被害者の自殺との間の相当因果関係を認めた判例に、最高裁平成5年9月9日第1小法廷判決があります。

 交通事故にあった被害者がうつ病に罹患して自殺したという事案です。

 うつ病の発症は、事故後の補償に関する交渉が円滑に進展しなかったこと、仕事を退職したこと、退職後も再就職がうまくできなかったこと、家族との家庭生活が以前に比較して暗くなったことなどの事実が重なったことが原因だと認定されています。

 もし、原判決の論理に従うならば、この最高裁の事例でも、被害者の自殺はさまざまな「要因」によってもたらされた、と認定されてしまうのではないでしょうか。

 要は、自殺に至るまでには、いろいろな事実があるけれども、何が根本的な「要因」であり、何が付随的な、あるいは派生的な事実なのか、その見極めが重要ではないかということです。

 控訴審においては、香澄を苦しめた根本的な「要因」を見極めてほしいと思います。

 

3 次に、自殺の予見可能性の問題です。

 原判決は、Aのところで述べたのと同様に、教員たちの予見可能性もない、という、ただそれだけの理由により、香澄の自殺に関する県の責任を認めませんでした。

 しかし、このような判断は、明らかにおかしなものです。

 まず第1に、Aが認識し、認識し得た事実と、学校側が認識し、認識し得た事実とは、格段の違いあるからです。学校側の認識とは、組織的対応をとった学校としての認識であり、全教員の情報です。教員1人1人がアンテナをはって事実の把握に努め、かつ、横断的に情報収集をしていたならば、その情報量は、Aが認識し、認識し得た事実の範囲の比ではありません。

 第2に、その情報がもつ意味を分析する力量も違います。学校は教育専門家集団であり、過去のいじめ自殺事件を踏まえて文部科学省が出してきた通達などを当然に熟知し、教育実践に生かすことを求められているのです。予見可能性は、教師としての知識経験に基づいた予見可能性なのです。

 私たちは、一審の最終準備書面において、学校側が把握していた事実、そして、やるべきことをやっていれば把握できた事実を整理し、それに基づいて安全配慮義務違反と、学校側の自殺の予見可能性を論証しました。

 しかし、原判決は、「Aと同様に」といった理由にもならない杜撰な理由付けで、私たちの主張を排斥したのです。

 控訴審においては、今一度、本件事実経過をつぶさに検討されるよう、強く期待するものです。 

 

4 最後に、調査報告義務違反について、一言申し上げたいと思います。

 原判決は、私たちが、「調査報告義務を実質的に履行する当事者」である校長の尋問を繰り返し求めていたにもかかわらず、これを実施しないまま、極めて形式的な判断をしました。

 原判決が、実質的な判断に踏み込めなかったのは、まさに、校長の尋問を実施していないからだと思います。

 県は、すでに尋問を実施した教諭たちの証言以上に校長が知っていることはない、として、校長の尋問を実施する必要がないと言っています。しかし、それは筋違いです。問題は、校長が直接知っているかどうかではありません。調査報告の責任者はあくまでも校長です。調査の方法や範囲をどのように考えたのか、調査結果を踏まえてどのように判断したのか、そして、報告すべき内容についてどのように判断したのか、は、校長でなければ答えられない事柄であり、個別の教諭たちの証言には出ていないことなのです。

 ぜひ、控訴審において、校長の尋問を実施していただきたいと思います。

                                                                                              以 上
 

 以下は、1998年7月25日、高校の吹奏楽部でのいじめを苦に自殺した小森香澄さんの遺族が、控訴審の東京高裁第一回目(2006/7/7)に冒頭陳述した内容です。 許可をいただいて掲載しています。

意見陳述要旨

2006年7月7日

小森新一郎 

 私は、香澄の父親として、意見陳述させていただきます。

 香澄が亡くなり8年近くが経ちました。地裁での第一審を終えて、私達両親として、今一番感じていることを話させて頂きます。

 香澄の状態を一番近くで見て、より多くの時間を共に過ごしていたのは私達両親でした。『こわい』と言って歩けなくなっていた香澄をおんぶして家に帰ってきたり、『優しいこころが一番大切だよ、その心を持っていないあの子達の方がかわいそうなんだ』といったような香澄の言葉を直接聞いていたのも、私達両親、特に家内の美登里でした。 こうして香澄との会話や香澄の変化をずっと傍らで見てきた私達にとって、香澄の自殺はいじめが根本的な原因であることは、疑いようのない事実です。香澄がいじめられた経過の中で付随的に発生した様々な事象を、学校側は、あたかもそれが香澄が自殺した原因であるかのようにすり替えようとしています。しかし、原因はいじめそのものであり、そのいじめさえ無ければ香澄が死ぬ事は無かったのです。

 当時の美登里は母親として、苦しんでいる香澄のために、出来る限りの事をしてやりたいと思って行動していました。香澄からの話を聞いては、何度も学校へ足を運んだり、メンタルクリニックや青少年相談センターを探してきて香澄を連れて行ったり、香澄の気持ちを少しでも楽にしてやりたいという一念で、精神的には美登里自身もキツイ状態であったにもかかわらず、とても頑張っていたと思います。このように、いじめで悩み苦悩する娘に寄り添う母親が、どうして過保護・過干渉と言われなければならないのでしょうか?

そして実際問題、親としてこれ以上何をすれば香澄の命を救えたのでしょうか?

 どんなに親子で頑張っても、香澄の状態は良くなりませんでした、それは、いじめを解決するには、いじめそのものを止めるしかないからです。そしてそのいじめを止められるすべを持っているのは学校です。その学校が、何も手を打っていなかったのだから、この事件は起こるべくして起きたのだと言わざるをえないと思います。学校が、自らは何もしなかったことをさておいて、母親のことを過保護、過干渉だと追い詰めることには、ただあきれるばかりです。本気でそんなことを思っているのでしょうか。 

 いじめは、こどもたちだけの問題ではありません。本件のように、学校が、被害者の人権を踏みにじった対応を、ひたすら繰り返している限り、学校でのいじめをなくすことはできないと思います。こどもたちはこのような大人の対応をしっかり自分達の目で見ています。これではいじめが減るはずもないし、自殺するこどもたちも救うことは出来ません。

 すべての学校の先生がいじめの事実を否定し、学校には責任がないという態度に終始するばかりだとは思いませんが、大きな事件が一度起きてし まうと、驚くほど同じ対応をとるのも現実です。

 一般の大人達も、本当はこの現実をよく知っています。それでも自分達に直接関係ないと思えば、平気で見て見ぬふりをしてしまいます。これでは、私たち大人が・社会がこども達にことの是非を教えたり、こどもが安心して生活できる環境を与えることはできません。(私達はこのような日本社会の体質に危惧を覚えます。

 一審判決の中で、3人の教諭が自ら証言に立った上でなお、安全配慮義務違反が認定されているのだから、被告神奈川県は、真摯に自分達の行動を反省し、亡くなった香澄の命を無駄にしないためにも、これ以上の虚偽や責任転嫁を繰り返さないように、強く求めたいと思います。


意見陳述書

2006年7月7日

小森美登里  

1.心の傷

 香澄は、毎日通い続ける学校でのいじめによって苦しみ続けていました。

 当時、肉体への暴力があったという事も、目撃していた友人から聞いていますが、香澄にとって殴られたその痛み以上に辛かったのは、心の痛みだったのではないでしょうか。言葉や無視による心に対する攻撃を文部科学省もいじめと認定していますが、その心の痛みを継続的に受け続けるという事が、15才の少女にとってどのような苦しみであったのかという事を想像をしていただきたいと思います。

 今日この法廷に、心を持っていない人は居ないと思います。泣いたり笑ったり怒ったりするという感情を持ち、心の痛みというものを、人は皆体験しているのではないでしょうか。いくら肉体が元気でも、心への暴力を受け続ければ心が病気になるのは決して不思議な事ではありません。事実、香澄は鬱状態になり、診断書を学校へ提出し、担任をはじめとする複数の先生方に助けを求めるまでの事態になってしまったのです。

 

2.香澄の苦しみの原因

 香澄は一度だけですが家の中で荒れた事がありました。

 苦しくて苦しくて私にぶつかってきた事、それは当たり前だと思います。逆に、その様な事がたった一度しか無かったという事に香澄の優しさや辛さを、今しみじみと感じています。香澄が荒れた原因や死の原因は、いじめの存在そのものと、何もしなかった学校にあるとしか思えません。香澄の命は、学校が正しく対応し、いじめている子がいじめをやめてくれていれば救われた命なのです。

 周囲の大人が正しく対応していれば、心と命を救う事ができたのだという事を、是非とも知って欲しいと思います。

 

3.学校への訴え

 私は香澄の苦しみを知り、学校に何度もおもむき、香澄から聞いた事は全て先生方に私が直接報告をしていました。高校生にもなったのに、親が何度も学校へ足を運ぶ事に対して、私自身ためらいもあり、「何度も申し訳ありません」と謝りながらの訪問でした。そして、私からの相談を聞いてくれていた先生方が連絡を取り合って、香澄へのいじめをやめさせ、香澄の苦しみを取り除く為に対応してくれていると信じていたのです。一審の判決では、いじめそのものが原因ではなく、それに付随して起きた問題や、いじめを解決出来なかった親の問題としてすり替えられているかのような部分がありました。「香澄は何故死んだのか」それはいじめを受けていた事と、その事実を私から何度も聞きながら、一度も具体的な対応しなかった学校の責任です。

 いじめは学校で行われています。けれど、親は学校に入っていく事はできません。

私達親が、いじめをしている加害者の子ども達を直接指導する事が出来ないからこそ、先生を頼るしかなかったのです。親として出来る事は、私の知り得た情報の全てを先生達に伝える事でした。その他、学校以外の部分でも青少年相談センターやメンタルクリニックへ通う等、親として考え得る限りの事をしてきたと思っています。 

 けれど学校は、何もしてくれていませんでした。その事は、一審の証言の中で繰り返し出てきた「様子を見ていた」という発言からもはっきりしています。私が何度相談をしても、そして、亡くなる一週間前になってもまだ「様子を見ていた」だけだったのです。

 

4.学校の態度

 担任だったN先生へは、5月16日に初めて30分間も時間をかけて香澄の事を相談しました。けれど、先生は数分間の立ち話しただけだ、と法廷で言いました。

 また、N先生は香澄が亡くなった直後の7月末には、憔悴しきったようにうなだれて、T先生に付き添われ我が家を訪れ、「実はあの三人には一度も指導はしていなかったんです」と告白しました。しかし、その事についても、法廷では「行った事はあるが何しに行ったのかは覚えていない」と言いました。

 大人が本当にしなければならないのは、あった事を無かった事にするのではなく、いじめた子どもたちにしっかり反省をさせ、もう一度正しく生き直させる事なのではないでしょうか。亡くなった子どもの人権を、真に守り抜く事なのではないでしょうか。

 命を奪われ、死んだ後人権も奪われ、我が子は二度殺されました。辛くても、その真実に真正面から向き合う責任が私達大人にあるはずです。その為にまずしなければならないのは真実を知る事です。そして、いじめやいじめを苦にしての自殺が二度と起きないようにするための方策を立てる事です。

 しかし学校は、香澄の死に対してそれらを全くしてはくれませんでした。香澄が亡くなってまもなく、U校長は「いじめはなかった」と私達に断言しました。亡くなった直後に生徒達に書いてもらった調査書類には、「香澄から、いじめられているという告白をされた」という内容があったにもかかわらず、その事実を私たち親に知らせず、「いじめはなかった」と断言したのです。

 学校が、このような態度に終始した事によって、加害者となった子ども達は、真実と向き合い、自らした事を省みる事もできなくなったのではないでしょうか。

 大人が真実にしっかり向き合えば、子ども達も自分の行為をしっかり見つめ、素直な気持ちで謝る事が出来たのではないでしょうか。

 

5.子ども達と心や命について一緒に考える活動

 私は、香澄が亡くなって4年ほどしてから全国の子ども達と、講演や展示を通して、心や命について一緒に考える活動をするようになりました。この活動をしようと思ったきっかけは、香澄がいじめの苦しみを、その身をもって私に教えたくれたからです。

 香澄と同じ苦しみを抱えている子ども達がとても沢山居る事を知り、その事がとても大きな社会問題だと気付いたからです。私はどうしても我が子の死を無駄にしたくありません。その為に私に出来る事は、次の命を救う事です。

 子ども達は、私の講演を聞いて、様々な振り返りをし、「もしかして傷付けていたかも知れない」という気付きを、感想文にとても沢山残してくれます。中には、「もう絶対いじめない」と、たった一言の誓いを書いてくれる子もいました。

 この活動を通して、子ども達が心と命の話を聞きたがっている事、その話を真剣に聞いてくれるという事を実感しました。きっとこの事件で加害者となった子ども達も、学校がしっかりと心と命について考える機会を普段から持っていたら、香澄を死へと追いつめる事にはならなかったと思います。

 また、もし不幸にも事件が起きてしまったとしても、その様な場を学校が普段から持っていたら、反省させる事が出来たと思います。香澄は今、天国からこの法廷を見守っていると思います。自分の死に対して、大人達がどう対処するのかを見守っているでしょう。 私は、苦しんでいる子どもたちの心と命を救う為にも、この裁判はとても大切な裁判であると思っています。

 それでは、どうぞ宜しくお願いいたします。


 以下は、1998年7月25日、高校の吹奏楽部でのいじめを苦に自殺した小森香澄さんの遺族が、学校設置者である神奈川県と元同級生3人とを相手取り起こした民事裁判の結審(2006/2/21)に、法廷で父親の小森新一さん郎が読み上げた意見陳述書です。 許可をいただいて掲載しています。
意見陳述要旨

2006年2月21日 

小森 新一郎 

小森 美登里 

1.娘の香澄が亡くなって7年半が過ぎました。時間の経過に伴って、心が癒えるどころか以前にも増して苦しい日々が続いているというのが現実です。遺族を一概にはくくれませんが、少なくとも自殺でわが子を亡くした親の中には、同じ思いをしている方が沢山います。そんな切ない親の思いを聞いていだきたいと思います。

2.23年前に娘の香澄が生まれたとき、家内の美登里はアルバムの1頁目に『人の痛みのわかる、やさしい女の子になってください』という言葉を書きました。そしてやさしい女の子に育てれば、きっと幸せになれると信じて15年7ヶ月の子育てをしてきました。しかし香澄が亡くなった後で『香澄ちゃんは優しすぎたのね』と言われたことがありました。もしそうならば優しい子へと育てたことが間違いだったのでしょうか。そしてその優しさが弱さだったと言うのでしょうか。

3.今更ながら香澄が高校に入ってからの様子を思い返すと、胸が痛くなることばかりです。当時は私達両親としても香澄が夢を持って入ったクラブの中で起きていたことなので、あまり騒ぎ立てても本人が居づらくなってしまったり、逆に裏でもっと孤立させられてしまうのでは、などと考え顧問の教師や父母会に対しての訴え方は、かなり控えめであったと思います。それでも敢えて10回以上に渡って教師に相談に行き、また吹奏楽部の父母会役員の方々にも再三にわたって相談をしていたのは、それなりの理由があっての事でした。それは香澄自身がアトピーをはじめとして体の変調が顕著になっていた事と、断片的ではあっても、香澄自身の口から今まさにその身に受けている苦痛を聞いていたからであり、私自身が自殺当日に直接香澄の口から聞いた『怖い』という言葉も、まさに彼女の最後の悲鳴であったと思います。
 人は皆、「泣く」「笑う」「怒る」といった感情を持っています。「感じる心」というものが存在してるからです。それらの感情が無く、肉体だけで生きている人はいません。その全ての人が持っている心(こころ)が傷つけられ、鬱という状態になれば、考える力や生きる気力を奪われてしまうのは周知の事実です。毎年三万人以上の人々が自死に至っていますが、多くは大人です。大人でさえも自死へと追い詰められているのですから、たった15才の香澄にとって、どれほど耐えがたい苦しみであったかと思うと、胸が締め付けられる思いです。

 私達はこの心への攻撃を受けた事によってできた『こころの傷』に対する社会の認識が浅いことに不安を感じています。肉体への傷だけが傷ではありません。香澄も心に大きな傷を受けてうつ状態になっていったのです。最近では引きこもりや不登校の原因の多くがこの部分にあることが一般にもよく知られるようになりましたが、このこころの傷は簡単に治るものではなく、一生引きずって生きている人たちが殆どです。

 是非この裁判を通して、こころに傷を負わせることが、いかに重大なことなのかを、理解していただきたいと思っています。

4.香澄が亡くなってしばらくすると、学校は「今家族は精神的に落ち込んでいるので、そっとしておいて欲しい」などといった巧みな誘導で、生徒や父母会を私達から遠ざけようと動きはじめ、真相解明に当初好意的だった父母会の役員や部員のこどもたちからも、時間の経過と共に徐々に連絡が無くなっていきました。こうしたことは、地域で学校を相手に裁判を起こした方々の多くが感じていることですが、ふと気がついたときには完全に学校からの孤立状態が出来あがっていたのです。学校や学校関係者からの情報のパイプは遮断され、敵対する家族というイメージがすっかり出来上がっていました。

 今でも香澄の中学時代の数人の友人が、私達のところへよく遊びに来てくれくれます。そして中学当時の香澄のエピソードをたくさん教えてくれます。対照的に高校に入ってからの友人と、そのような関係が持てなくなったことは、非常に残念でなりません。

 学校で何が起こっていたのか?子どもの様子はどうだったんだろう?と親として知ってやりたいという思いは、子どもを亡くした親であれば、誰でも持つ自然な気持ちだと思います。学校は裁判では『香澄との関わりについて』という内容の調査書類を、「作文」という名の下に公開を拒みましたが、それでも同意があって出てきたものの中に『いじめ』という記述がありました。学校は香澄が亡くなった直後、このように書かれた「作文」には全く触れることなく、いじめはなかったと断言しました。そして裁判で「作文」の一部の内容が開示され、いじめの記述があることが明らかになった後にも、何の説明もなく、従来の主張を繰り返しています。この強引で独善的な学校の姿勢は、遺族感情を逆撫でするものです。この現実に対して、私達両親が納得できると思っているのでしょうか?

5.そして学校内に於いても職員間で話し合いもされることなく、再発防止の具体的な取り組みなど一切なされない。
 学校はこどもたちのプライバシーを守っているようなふりをして、実は自分達のことしか考えていません。調べた事実を両親にも伝えず、もしくは無かったことにして先送りしているからこそ、いつまで経ってもいじめ問題が無くならず、より見えにくい部分で深刻化している現実があるわけで、学校はその責任を感じるべきです。

 また、『死人に口なし』がまかり通っている現実を見ていた在校生は、この教育機関としての学校の対応をどのように見ていたのでしょうか。

更に被告生徒達も、事件直後は不十分ながらも反省の言葉を述べていたのに、今となっては全く知らぬ存ぜぬで、香澄というクラスメイトが命を落としたという重大な事態に対する態度とは思えません。ましてや、学校からは何もなかったことにされ、何の指導も受けず、反省による生き直しの機会さえ奪われ、これから一体どんな大人になっていくのでしょうか。この教育機関としての学校の責任も重大です。

6.裁判では、学校や県は私達親に原因があるかのような主張をしています。しかし、本当に私達親を疎ましく思っているのなら、家に寄りつかないのではないでしょうか。ましてや嫌いな母親なら、いじめられていることを泣きながら訴えるはずはないし、夜一緒にコンビニへ買い物に行ったりするはずもない。そして家までの帰り道で父親におんぶされるはずがないと思います。

 このような香澄と両親の関係からしても、家庭に責任があるとの主張は原因のすり替えでしかありません。

 最愛のわが子を失った親として、同じ悲しみが繰り返されないために、私達はこの裁判によって真実が明らかになることを心から望みます。






日本の子どもたち(HOME) http://www.jca.apc.org/praca/takeda/  検索・索引
闘う人びとのために 問題解決に役立つ情報源 わたしの雑記帳
子どもに関する事件・事故 1
(いじめ・生徒間事件)
子どもに関する事件・事故 2
(教師と生徒に関する事件)
子どもに関する事件・事故 3
(学校災害ほか)
いじめ・生徒間事件に関する
裁判事例 1
教師の体罰・犯罪・その他の
裁判事例 2
学校事故・災害の
裁判事例 3
裁判情報 Diary
TAKEDA 著作案内 インフォメーション



プラッサのトップページへ
http://www.jca.apc.org/praca/index.html
  
Copyright (C) 2006 S.TAKEDA All rights reserved.