わたしの雑記帳

2008/7/13 文部科学省に権限がないって本当!?

「やりたくても、私たちには権限がないのです」。大分県教員採用の汚職をめぐっても、文部副大臣がテレビ出演してこう繰り返すのを聞いて、「また、このセリフか」と思った。いじめ問題でも、当時の伊吹文部科学大臣はさんざん繰り返してきた。
今までと同じような通達を繰り返し、子どもたちに「死ぬな!」「誰かに相談しなさい」とパフォーマンス的アピールをした。

本当に、文部科学省には、何の権限もないのだろうか。
戦後GHQは国の教育への関与を排するために、「教育基本法」に「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接的に責任を負って行われるべきものである」の一文をいれさせ、教育委員会を設置させた。
しかし、その後、国・文部科学省は少しずつ着実に、法律を改正(改悪?)したり、新設したりして、教育に口出しする権限を取り戻してきた。そして、ますますその権限を強めようとしている。

文部科学省のもつ権限は、
@ 法令 解釈権
A 教育委員会を指導助言・指揮(文書による通知・通達)
B 文部大臣の措置要求権
C 学校の基本方針作成
D 指導要領・教科書検定
E 学校基準設定
F 教員免許
G 教育長を任命・承認 (1999/地方分権一括法により首長に任命権)
H 国庫補助

2007/6/20 地方教育行政法改正
I 文科相に、教育委員会を指示・是正要求をする権限。
J 知事は私立学校に関して、必要と認めた場合、教育委員会に助言・援助を求める権限。

Plan Do Check の Plan(プラン)とCheck(チェック)を握っている
人 金 物 情報 のトップの人事権と予算(金)、情報を握っている
なんだかんだ言いながら、国は国民の教育全版に対する責任を担っており、肝心要の権限はすべてもっている。個別の事案に対しては、責任がないなどと、どうして言えるのだろうか。

いわば、巨大グループ企業の本社の社長が文部科学大臣。
グループ企業全体の方針はトップダウンで決められ、予算計画立案も本社。
個別の社員の採用権や懲戒権はもっていないものの、グループ会社のトップの任命権も本社が持っている。
社員の採用基準や就業規則を決める権限も持っている。社員の教育方針も決められる。
建物そのものはもっていなくても、その基準を決めることができる。使う教科書についても、基準を決めることができる。
また、各グループ会社の情報はすべて本社である文科省に集約される。必要に応じて、調査報告を命じることもできる。
実質的な権限はすべて、文科省が握っている。

教育委員会の問題ばかりがクローズアップされる。以前は、文科省も教育委員会廃止論を唱えていたが、今はむしろ、不祥事が起きるたびに文科省の責任ではなく、教育委員会のせいにすべてしてしまえるので、都合がよいとさえ思っているのではないだろうか。
しかし、直接的な人事権と個別の予算権限を持つ教育委員会の権限と、上記の11もの権限をもつ文科省とどちらが実質的な権限をもっているか。何より、国は法律を作ったり解釈する権限をもっている。

国の教育における権限を象徴するのが、日の丸・君が代問題。
1999年2月、広島県の世羅高校の校長が「日の丸・君が代」問題を苦に自殺した。たった一人の校長の死をきっかけに、半年もたたない8月には、国旗国歌法が成立した。この驚くべきすばやさ。
それも、普通で考えれば、国のゴリ押しと教職員組合との板ばさみで自殺にまで至ったのだから、「国のゴリ押し」をやめようと考えると思うのだが、逆に、「悩む余地があるのがいけない」とばかり、一気に法制化してしまった。

子どもたちがどれだけ亡くなっても、通知・通達、文部科学大臣のアピールと有識者会議の連続で、現実には何もかわらない。
そして、伊吹文部科学大臣は、いじめ自殺が起こり続けるのはシステムの問題ではないと明言した。
世羅高校の校長の自殺はたったひとりでも、「システム」の問題として、即刻、法律を新設までしてしまったというのに。毎年、500人から600人の未成年者が自殺し、学校が原因でわが子が亡くなっても、情報の開示さえされない、知ることができない、子どもの死が教訓としていかされることなく、再び同じ事件・事故がおき続けている。いじめ自殺については、もう30年も同じことが続いているのに、それでもまだ、「システムの問題じゃない」と言う。

そして、いじめ問題に関しては、「隠すな」との通達、記者発表をしただけで、その後のCheckもしない。
7年間連続いじめ自殺ゼロがおかしいと世間が騒げば、その部分だけをわずか数日間で再調査をさせ結果を上げさせる。
(わたしの雑記帳me060911を見たテレビ朝日のひとから連絡があり、初めてテレビにビデオ出演したのが、2006年10月2日。画面に7年連続いじめ自殺ゼロと私が調べた新聞等に掲載されたいじめ自殺の対比がクリップボードで出され、翌日から7年連続いじめ自殺ゼロが各局で報道されたので、問題提起に多少の貢献はしていると思う。文科省の自殺調査が該当するものに○が1個しかつけられないこと、いじめの定義の3要件がむしろ隠蔽にこそ使われていること、 ジェントルハートプロジェクトがこの当時、発信した) 
わずか7年間を短期間で再調査をした結果、おかしいところがいっぱい出てきたにもかかわらず、その部分だけを軽く発表して終止符を打ってしまった。
年金問題を例にしてみれば、「ひとつのおかしさ」発覚のあとに、これでもか、これでもかと言わんばかりの「おかしさ」が出てきた。食品偽装疑惑にしても同様。ひとつ発覚したら、そのときに徹底的に調査をしなければ、また安心して同じことが続けられてしまう。

7年間の再調査をして、それでも行政に再度、言い分を出させただけで、当事者たちへの再調査は一切、行われてはいない。行政の調査と遺族らの思いとが、なぜかけ離れているのか、いじめられたと遺書がありながら、いじめと認定されなかったのはなぜなのか、どのようにいじめの調査は行われ、どのように当事者たちに報告されたのか、いじめの加害者にはどのような指導がなされたのか、なされなかったのか、大切なことのCheckが何も行われない。
そして、7年間でこれだけの齟齬が出てきたのであれば、それ以前はどうだったのか、まして、1998年は突出して子どもの自殺が多いにもかかわらず、いじめ自殺は1人しか認定されていない。そこに注目さえしない。(me060911)

1994年11月、大河内清輝くん自殺後にとられた様々な政策が、どうして機能していないのかをCheckすることもしない。
そのときに作られた文部省所轄の特殊法人・国立教育会館のいじめ問題対策情報センターは、全国のいじめ実例を集めた「データーベース」を蓄積しているはずだ。教育委員会や相談機関だけが接続可能で、私たち一般の人間は内容を見ることができない。そこは、「いじめ自殺」と報道された事案について、どのような情報を持ち、それをどう国に提言してきたのか。
2006年のいじめ報道のなかでも、沈黙を続けたのはなぜか、そのこともCheckされていない。
(2006年以降、各地に設けられたいじめの電話相談や教育相談窓口は、結局、退職校長・教頭らの再雇用の受け皿になっている。団塊の世代の大量退職を前に願ったり適ったり? 財団も多くが、国家公務員の天下り先として、わざわざつくられることが多い。そういうところは、給料の高い役職者ばかりがひしめいて、実質的な業務は使う予算の割りに成果が見えないところが多々ある。外部からは見えない仕組みに、勘ぐりたくなる)

日の丸・君が代の関しては、政府答弁で、「国旗・国歌については強制しない」となっていたにもかかわらず、現在では、全国の公立小・中・高校の入学式及び卒業式のほとんどが国旗掲揚、国歌斉唱を行うまでになっている。
卒業式や入学式に県や市の職員を配置して、教師の口の開け方や声の大きさまでチェックしている。100パーセントの実施を目指して、教員評価や研修、懲戒処分、子どもたちの態度までも問題にし、あらゆる手段を講じている。
それは、ひとつの自治体にとどまらず、沖縄から北海道にまで徹底している。これは文科省の関与なくしてできないことだと思う。
前述した大分県の採用をめぐっての汚職事件でコメントした副大臣は、文部科学省から教育委員会等に人を派遣することはできないのかの問いに、「派遣することはある。とくに国との関係がうまくいっていないところには」と答えていた。
私は、日の丸・君が代のことかなと思って聞いていた。

どうして、教職員の不祥事や事件・事故など児童生徒の命にかかわる問題に対してだけ、国は急に無力になってしまうのだろうか。結局、子どもの心や命の問題に対する国の優先順位は、ずっと下のほうにあるということだろう。学力問題や不登校問題よりも下にある。
毎年、子どもが500人、600人死のうが、日本人全体の3万人のなかでは微々たるもの。
でも、およそ自殺をするのは10歳以上。そして、20歳から40歳までの死因の第一位は自殺。経済問題も言われているものの、人間関係の問題が一番多いという。少子化、少子化と問題にしながら、子どもが安心して生きていけない今の世の中を問題にしようとはしない。何人死のうが、その分をまた増やすほうに力を注げばよいと思っているのだうろうか。
人間は工業製品のようにはいかない。いや、工業製品でさえ、作っても採算が取れないとわかっていたら、生産打ち止めになってしまう。人間ならなおさら、幸せに生きていけないとわかってしまったら、生みたくない。子どもを生んでも親が幸せになるどころか、金銭的にも、精神的にも負荷がかかるばかりだったら、誰も生まない。


教員採用の不祥事に話をもどそう。
20年、30年前ははっきりいって、先輩や同級生で教師になった人から、「コネが大きかった」と聞いていた。地方に行けば、権力者の息子や娘は交通違反も見逃してもらえるとも聞いていた。だから、今さら話題になることにも驚いたし、きっと全国で同じようなことがあると思う。なかには、コネで最近入った教師を辞めさせて、定年退職した団塊の世代の教師を再雇用したらいいと言っていた芸能人もいた。たぶん、過去から当たり前のように続いている悪しき慣習で、団塊の世代は潔白などとは到底思えない。現に、校長や教頭になるのにも、各地で謝礼の習慣があるのだから。

それでも、過去に同じように問題になったところは、受験者を個人特定できないように答案用紙から名前を隠す、受験番号とは違うナンバーを振る、選考を複数で行う、外部の人間を入れる、自分で答案をチェックできるよう問題と正解の情報公開を行う、採用者の情報公開を行うなどの工夫をしているという。
倫理観をいくらといても、意に介さない人間はいる。のど元過ぎれば忘れてしまう。結局は不正を許さないシステムの問題なのだと思う。

言い換えれば、学校・教育委員会がいじめや学校事故・事件の情報を隠したり、嘘をついてきたのも、隠せる・嘘をつけるシステムに問題があるからだと思う。そこに一切手をつけずに、問題が起きたときだけ、「私たちはこんなに子どもたちのことを考えている」とアピールしたところで信用できない。
そして、問題がありながら、一切システムに手をつけようとしないのは、そのほうが自分たちにとって都合がよいからだろう。
国会議員たちは、自分たちに都合の悪いことは積極的に関与して変えている。そのままのほうが都合がよいから変えようとはしない。

いじめ問題、学校事故・事件の再発問題と、文部科学省の天下り問題、企業との癒着、地方の汚職、人事交流。すべてつながっている。そして、誰も子どものことを本気で考えようとはしない。考えるのは、自分にとって都合のよい金や権力をもっているひとたちのことばかり。せめて、選挙の票を武器にしたい。


この件に関しては、過去のサイト内リンクもぜひ見てほしい。ほかにやることが山積していて、書いている場合じゃないのにと思いつつ、急かされる気持ちのままに書いているので、あまり整理されているとは言えないと思う。専門家の方たちからみれば、「ここの論拠が違う」「この部分の認識が間違っている」などの指摘はたくさんあると思う。(今までも、そのような指摘をうけ、「だって、研究者でもジャーナリストでもない、ただの素人・主婦だも〜ん」で逃げてきた。)でも、大筋ではそんなに間違ったことは言っていないのでは?と思っている。
お金をもらって仕事をしているひとたちに、もっとこの問題をがんばってほしい。報道関係者、政治家を含めて。そのために利用できる私が集めたデータはぜひ利用していただきたい。

サイト内リンク
日本の教育年表 2 学校事故・事件の当事者と親の「知る権利」 
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